雪 割 草 (上) |
何度試しても、アパートのドアは開かなかった。 どうやら不在だった二週間の間にカギが替えられてしまったらしい。 「ちくしょう! 大家のやつ……」 声に出さずに罵ってみたが、もともと半年以上も家賃を溜めているので、文句のつけようもない。 孝美は途方にくれた。 二週間、孝美は警察に拘留され「ブタ箱」にいた。 クリスマスに、たった三晩、留守にしただけなのに、子供たちを放置したからといって「保護責任者遺棄」とかいう難しい名前の罪で逮捕された。 盗みとか傷害とか、クスリに手を出したとか、交通事故とかなら警察にお世話になるかもしれないが、たまたま家に帰らなかったことが罪になるとは知らなかった。 結局、今日「起訴猶予」とかで釈放されたのだが、二週間、暖房は入っているのになんとなくひんやりとした感じのブタ箱で寝起きした上、連日、警察官やケンジとか言う人の取調べを受けたので疲れきっていた。 釈放されるとき、子供たちが引き取られているという施設とその場所を聞かされたのだが、そちらはブタ箱というわけではあるまいから心配は要らないと思った。とりあえずお風呂に入って、少し眠りたかった。 そう思ってアパートに帰ってきたのにこのザマである。 腹は立ったが、仕方がなかった。 誰かの助けが必要だった。 ヒロシ…… クリスマスの夜、ヒロシと出かけた。一晩だけの予定だった。 原宿か六本木でオールナイトで騒いで、午前中には帰るつもりだったのに、ヒロシのやつが急に遠出するって言い出したので、結局、三晩になってしまった。 三日目の夕方、アパートに帰ると警官がいて「子供たちは施設に保護した。事情聴取する」といわれ、警察署まで連れて行かれて、そのまま逮捕された。 留守の間に、上の子の正志がコンビニでパンを万引きして捕まったという。 様子がおかしいので調べたところ、正志は栄養不良で衰弱しており、家で寝ていた下の子の美代子は脱水症で死にかかっていたという。 信じられないことだった。 正志にはお金を渡してあったし、おとなしい聞き分けのいい子だから、万引きなんかするはずはない。きっとなにかの間違いだ。 栄養失調で死にかけていたといのも大げさすぎる。 お金がなくて、満足には食べさせてやれなかったから、二人ともちょっと痩せてはいたかもしれないけれど、死にそうになるほどおなかをすかせていたとは思えない…… いずれにせよ、一晩だけで帰っていれば、こんな目には会わないで済んだはずだし、いずれは結婚するはずの男なのだから、助けを求めるとすれば、この場合はヒロシしかいない。 それにしてもヒロシのヤツ、アッタマにくる。一晩のつもりが三晩になったのもあいつのせいなのに、あたしがブタ箱に入れられてる間、面会にも来なかった。 公衆電話を探し、ヒロシのケータイに電話してみた。 「おかけになった番号は、現在、使われておりません。番号を……」 機械的な案内メッセージが響いた。架けなおしてみたが同じだった。 どうやらいままで使っていたケータイは解約してしまったらしい。 電話帳で調べて、ヒロシの家にかけてみた。 親が出て、孝美の名前を聞くと「いない」といった。居留守だと感じた。 他に頼りになりそうな友達を思い浮かべたが、電話番号がわからなかった。 すべて自分のケータイに入れてあるのだが、料金を払っていないので先月から止められており、アパートのたんすの上に置きっぱなしになっている。 あとは…… マサユキの顔が浮かんだ。 子供たちの父親だが、別れてから三年近くになる。 マサユキは、渋谷のセンター街でナンパされて、その日のうちにホテルに行った男だが、けっこう実のある男だった。 しばらく付き合っているうちに、孝美は妊娠した。 妊娠とか結婚とか、そういう深刻な事態は考えてもいなかったので、孝美はどうしていいかわからず、ひとりで思い悩んでいた。 孝美の身体の変調に気付いたのは母親だった。そしてその事実はすぐに父親の耳に入った。 孝美の化粧や帰宅時間などで、もともと口うるさい父親だったが、一人娘の妊娠という決定的な事態に怒りを爆発させた。 「親に助けてくれなんて、言ってないわよ!」 怒鳴り散らす父親に、そう怒鳴り返して、孝美は家を飛び出した。 「生めばいいじゃん。俺、子供好きだもん」 困って相談すると、マサユキはあっさりとそう言い、数日間、孝美が友人宅を泊まり歩いているうちに、さっさとアパートを借りて新所帯を作ってしまった。 資金は、「結婚する」といって、マサユキが親から引っ張り出したものだった。 マサユキの親は鷹揚だった。 入籍について、孝美が「親が反対しているので」というと「なに、孫の顔を見ればすぐその気なるさ」と笑って先延ばしに同意した。 子供が生まれた時は、しばらくマサユキの実家の世話になった。 赤ん坊の世話はすべてマサユキの母親がやってくれたし、マサユキ自身も子供好きで、家にいる時は入浴はもとより、オムツの世話までやった。 孝美の仕事は、母乳を与えることくらいだった。その母乳も、もともとあまり出なかったうえ、おっぱいの形が悪くなると聞いて、すぐにミルクに代えてしまい、孝美はただ体を休めていればよかった。 幸せだと思った。 幸せは、しかし、長くは続かなかった。 孝美は、家事が下手だった。いや、嫌いだった。炊事、洗濯、掃除、水を使うことはぜんぶ嫌いだった。 赤ん坊はかわいいと思ったが、ぎゃあぎゃあ泣かれるとどうしていいかわからなくなり、イライラがおさまらなかった。 アパートに帰ってからは、マサユキとの口論が絶えなくなった。 マサユキの仕事は、トレーラーや大型トラックでの重量物の運搬の助手で、いったん家を出ると一週間近く家に帰らないときがある反面、休みも多くて、平均すると月の半分は家にいた。 家にいるから、よけい孝美の家事の手抜きが気になり、文句を言う。 ほとんどそれが夫婦喧嘩の原因だった。 それでも子供は育ち、幼稚園に行くようになった。 正志は、素直でおとなしい子だった。 「ほんとにいい子ねえ、いうことをよく聞いて。うらやましいわ」 同じ年頃の子を持つ母親たちに、そう誉められた。 どうにか保たれていた平穏が崩れ去ったのは、マサユキに女ができたためだった。といっても、実際にはそれは孝美の誤解に過ぎなかったのだが。 孝美に二人目、美代子ができた時だった。 半狂乱になってなじる孝美をもてあまし、マサユキは実家に帰った。 別居状態のまま、孝美は美代子を生んだ。 正志の時と違い、誰も助けてくれなかった。 いや、孝美の母が来てくれたのだが、「ちっと苦労させろ」という父の命令で、正志の時のように、何もかもやってもらうというわけには行かなかった。 産褥が終わった頃、マサユキから別れ話がきた。 「子供は二人とも引き取る」という条件だった。 実はそれ以前に、何度かマサユキ自身がやってきて、「もう一度やり直したい」といわれていたのだが、そして孝美自身もすでに一時的な怒りは治まっていたのだが、「困らせてやれ」といった軽い気持ちで拒否しつづけていた。 考えてもいない別れ話だったが、すでに戻るべき時は失われていた。 「子供は渡しちゃだめよ。ゼッタイ!」 慰謝料をいっぱいもらうには、子供が切り札だという、遊び友達の無責任なアドバイスを受け、「子供を引き取る」というマサユキ側の強硬な条件を突っぱねて、結局「子供が十八歳になるまで、毎月一名につき三万五千円の養育費」をマサユキが支払うことで決着した。 それが「慰謝料」のすべてだった。 しめて七万円、毎月、マサユキはキッチリと支払ってくれたが、貯金もなく、他に収入のない母子三人の生活はすぐに行き詰まった。 情報誌をあさったり、友人のつてをたどったりして仕事を探したが、乳幼児を抱えた主婦にできる仕事はほとんどなかった。 いや、ないわけではなかったが、ほとんどまともに働いたことがなく、仕事を遊びの延長程度にしか考えていなかった孝美の条件には合わなかった。 真冬の冷たい風が、孝美の襟元を襲った。 身体が冷え切っていた。 無意識のうちに、足が盛り場に向いた。 街はまだ、正月の賑わいの跡を残していたが、虚ろだった。 遊びなれた街だったが、厳しい寒さのせいだろうか、いつもの華やかさが感じられなかった。 道行く人の足も速めで、それぞれ行く先へ急いでいるようだった。 宛てがないのは自分ひとり…… なんでもそろっていて、いつでも楽しいはずの街が、孝美の目に灰色に沈んで見えた。 遊び仲間の溜まり場になっているカフェに入ってみたが、見知った顔はなかった。 冷え切った身体に心地よいはずの暖房すらなにかよそよそしく、コーヒーはただ苦く熱いだけだった。 帰ろう…… 帰る? どこへ? 帰るところは、実家しかなかった。 ぶつぶつ愚痴を言うことしか知らない母、気難しくて怒りっぽい父のいる実家…… 楽しいことなど、ほとんどなかった実家…… それがいま、孝美が唯一帰ることのできる場所だった。 五年ぶりに、実家のある私鉄の郊外の駅に降り立った。 駅舎も駅前の商店街の様子も五年前とはすっかり変わっていたが、吹き過ぎる風の香りになにか懐かしさを感じた。 商店街の中ほどに小さい和菓子屋がある。中学時代に友人の家だった。 通り過ぎながら覗くと、ショウケースの向こうにその友人の顔があった。中学時代とちっとも変わっていない…… 孝美はハッとした。 彼女もこちらを、孝美の顔を、確かに見たはずなのに、表情が変わらなかった。まるで知らない人を見ているようだった。 あんなに親しくしていたのに、孝美に気付かなかった。 私、そんなに変わったのかしら…… 街の様子は変わっていたが、実家は五年前と少しも変わっていなかった。 カギのかかっていない玄関の引き戸を開けると懐かしい匂いが溢れてきた。 家の中は静まり返っていた。 生まれてからずっと生活していた家だったが、以前のように屈託なく入ってゆくには、なんとなく気後れがした。 なにか声をかけようと思ったが、「今日は」では他人みたいで変だし「ただいま」というのも違うように感じた。 ためらっていると、ひょいと父が顔を出した。 「おう、おかえり」 なんにもなかったように父が言った。父の目は穏やかだった。 怒鳴りあって飛び出したあの時以来、五年ぶりに見る父。頭には白いものが目立ち、少し痩せたように見えた。 「かあさん。孝美が帰ったよ」 奥へ、あたりまえのように言う父の言葉が不思議だった。孝美の顔さえみれば「ちょっとこっちに来なさい」と言ってお説教をはじめるのが父のはずだった。だから今日も、いきなり怒鳴られることを覚悟していた。 「なにしてるんだ? 入んなさい」 そういって、父は奥へ消えた。 孝美は、鼻の奥がツーンとなるのを感じた。 「ここはお前の家だよ。いつだって好きな時に帰ってくればいいんだよ」 帰る家がなくなってしまったことを告げると、母は静かにそういって微笑んだ。 「なにも心配することはないのよ。父さんだって、口はうるさいけど、いつだって孝美の味方なんだから……」 母は、一眠りしたいと言う孝美のかたわらに自分も横になって、孝美が眠るまで優しく背中をたたいてくれた。子供のころのように……。 マサユキと別れた後、母子3人の生活の基盤となる「仕事」は見つからなかったが、マサユキに替わるカレシのほうはすぐに見つかった。 外国製の車を乗り回す、長身のカッコいい青年で、父親の経営する会社の役員をしており、将来は父親の後を襲って社長になる、と聞かされた。 「まだ修行中の身だから親の監視の目がキツイ」 という割にはヒロシはひま人で、頻繁にほとんど無目的のドライブに孝美を誘い出した。 それは昼間であったり夜であったり、連日であったり、時には1週間ほど連絡がなかったり、きわめて不規則だった。 それに、外国製の高級車を乗り回している割には、ヒロシはあまり金を持っていなかった。 ヒロシとは、結婚を約束したわけではなかった。 ホテルのベッドでのひと時に、そんな話も出ないではなかったが、「まだ親掛りだからね、あんまりわがままはいえないんだ。もうすぐ仕事を任せてもらえるから、そうなったら結婚を考えようと思ってる」とヒロシはいった。 「仕事を任せてもらえれば、孝美には苦労はさせない」 ヒロシはそうも言った。孝美にしてみれば、それは結婚の約束のようなもので、だからヒロシとの関係は最優先で続けていこうと思っていた。そして、食事やホテル代など、デート代を孝美が負担することも多かった。 この不規則、不安定な関係があるために、孝美は仕事らしい仕事が出来ず、したがって生活費は、律儀にマサユキが送ってくれる七万円のみに頼ることになった。 もっとも、孝美自身、近い将来ヒロシと結婚して、安定した生活が送れるようになる、と本気で考えていたわけでもない。 むしろ足りない生活費のやりくりに終われる日々を、ヒロシと共に遊びまわり、ヒロシの激しい愛撫にのめりこむことで紛らわせていたともいえる。 |
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