夏 の 習 俗




  (1) 怪   談

 お客さん。ちょっと話をさせてもらっていいですか?

 いえ、いつもおひとりで見えるし、隣り合った人とお話されることもないので、お静かに飲みたいんだってことはわかってるんですがね……
 どうも、なんかこう、胸のあたりにわだかまりが出来ちゃって…… あ、お客さんのことじゃないんですよ。だけど、お客さんにもまるっきり関係のない話でもないんです。

 聞いてくださる? ああ、よかった! あんまり時間がないもんでね。
 これ、熱いやつを飲ってください。いえ、聞き賃てことで、あたしのおごりにさせてくださいな。

 今日からね、この店にも女が入るんですよ。ええ、もうじき来ると思います。
 でね、こないうちに話を済ませたいんですよ。

 この店ね、お客さんもずいぶん長くごひいきにしていただいてるのでお分かりと思いますが、いつも閑古鳥で満員でしょ?
 でね、赤字の貯金もだいぶたまったし、もう商売をあがろうかと考えていたんですよ。

 それが、おとついのことですがね…… あの、時々ふらっと来て、そこの席でビールを飲んで行く…… あのほれ昔の女優の高峰秀子に似た女、ご存知でしょ? ええ、ええ、三十半ばかな? あの女がね、突然、ここで働かせてくれって言い出したんですよ。
 そりゃね、こんな小汚い店でも、あれだけのいい女がお運びでもやってくれりゃあ、客も増えるとは思うんですよ。
 だけどねえ、それなりに給料を払うとなれば、売上が多少増えたって今の値段じゃやっていかれない…… だからって、女目当ての客の鼻毛を抜くって商売は、あたしには出来ないしね。
 そう言って断ったんですよ。
 そしたらね、給料は要らないっていうんですよ。食べてゆくのに困っているわけでもなく、ちょっと考えてることがあって、この店で働きたいんだって、そういうんです。水商売は初めてだから、あまり忙しい店で失敗すると迷惑がかかる、この店ならいつも空いているからちょうどいいなんていって……

 ふざけるな、このやろう! って、包丁を振り回したかったけど、いい女ってのは得だね、いや、もうこの歳だから色恋は関係ないけど…… ま、いってることが間違ってるわけでもないので…… じゃあまあ、いくらでもないけど給料は払うから、好きなようにしてみな、ってことになったんですよ。
 「じゃ、早速」っていってね、おとついは、あたしの替えの前掛けをつけて洗い場に入ったんだけど…… 驚いたねえ。こんな店でも女が入るとこうも違うもんかと思うほど空気が和らいだね。
 そのうえね、待ってましたとばかり、珍しく六組も客が入ってね…… いやみんなおなじみさんなんだけど、いつもより、酒も料理も注文が多いんだわ。
 この分なら、そう恥ずかしくない給料も払えそうだと思ってね、で、今日から正式に来てもらうことになったんですがね……

 けっこうな話だ? ええ、まあ、そりゃ、結構なんですがね……
 ちょっと気になることができたんですよ。
 おとついの客の中でひとり、ほれ最近流行のカメラつきケータイを持っているのがいましてね。
 いえ、まったく気が付かなかったんですが、フラッシュをたかなくても写るとかで、女を隠し撮りしたらしいんです。
 昨日、その客が浮かぬ顔してやってきましてね、女が写ってない、っていうんです。
 隠し撮りだから、写りが悪いとか、何枚も撮った中の一部が写らなかったというならわかる。
 1枚も写ってない…… 周りの客や料理は写っているのに……

 ねえ、お客さん。
 幽霊とか化け物は、写真に写らないって言うよね。どう思う?

 え? ……ああ、お客さんがどういう関係があるか? ですか?
 あの女がね、ふいっとあたしに聞いたんですよ。いつもカウンターの端っこでひとりで飲んでるお客さん、つまりお客さん、あんたのことだがね、今日は来ないのかしら? ってね。
 お客さん、あの女、知ってるんですか?

   (2) 迎 え 火

  8月6日(水) 晴れ
あしたから、釜飯屋さんへ出勤。お仕事をするのは何年ぶりかしら? ちょっとドキドキする。
ちがうなあ、ドキドキするのはお仕事のせいじゃない。
あの人に、もう一歩近づける…… そして何かが始まる…… 
長い間探してきた人、きっとあの人だわ。強く、強く、そう感じる。
あした、あの人は来るかしら? 来てほしい。
しっかり、確かめなくちゃ。

  8月7日(木) 晴れ
ああ、忙しかった!
いつも空いているのに、どうしてあんなにお客さんが多かったのかしら。
お店に入ったとき、心臓が止まりそうだった。あの人がいたんだもの。
変ね。あの人に会いたいと思っていたのに、あの人に会ったらびっくりするなんて……
でも、今日は忙しくて、お話が出来なかった。
お話は出来なかったけど、わかったことがある。間違いない! あの人だ!
あの人はずっと私を見ていた。あの人の視線が、ずっと私に当てられていた。私があの人のほうを見ると、さりげなく視線をはずしていたけれど、私にはわかる。体が、融けそうに感じたもの。
あの人も、何か感じたに違いない。あの人が「なにか」感じた、ということはつまり、あの人がそうなんだわ。
きっとそうだわ。やっと探し当てた!

  8月8日(金) 晴れ
お話が出来た、あの人と! ちょっとだけだったけど…… 
あのペンキ屋のやつが注文なんかしなければ、もう少しお話できたのにぃ!少し手が空いたと思ったら、もうあの人はいなかった……

  8月9日(土) 晴れ
あの人は来なかった。

  8月10日(日) 晴れ 夕方、雨
ずぶぬれになって、あの人がきた。上着を脱がせて乾かしてあげた。
お店じゃなかったら、ズボンも脱がせちゃったのに…… うふふ。
雨が降ると、お客さんの入りもよくない。マスターは渋い顔していたけれど、
おかげで、あの人と少しゆっくりお話が出来た。
あの人の来る日は、いつも雨が降ればいいのに……
そんなこというと、マスター、怒るかな?
あの人に名前を聞かれたので、本名を教えた。「いい名前だね」といっただけで、それ以上の反応はなかった。まだ、気が付かないのかしら?
それとも、あの人じゃないのかしら? いやいや! あの人に決まっている。
まだ気が付かないだけなんだ。きっと、そうだ……
早く、自分を取り戻してほしい。

  8月11日(月) 晴れ
開店時刻に雷がなったので、うれしい、雨だ、と思ったけど、降らなかった。
あの人は、いつもの時間に来て、いつもの席に座った。
おしぼりを持ってゆくと、マスターの目を盗むようにして、引き換えに小さな包みをわたされた。少女の頃のように胸がときめいた。
マロングラッセ! やっぱりあの人だ! 私の好物を知っていた!
偶然かもしれない。それでもいい。
偶然でも、このつながりに触れてきたのは、目覚めつつあるんだと思う。

  8月12日(火) 曇り
「二階で寝てるから、客が来たら呼んでくれ」そう言って、マスターは二階の自宅へ引っ込んでしまった。「盆明けまで、開店休業だろうから、こっちものんびりしようや」
お客さんはあの人ひとり。なんだか、マスターが気を利かせたように感じた。
二人きりになると、あの人ったら、そわそわしちゃって、「帰ろうかな」なんてつぶやいてるの。そのくせ、立ち上がる気配はまったくなし。
立て続けにタバコを二、三本ふかしたと思ったら、
「ド、ドライブ、行かないか? あ、あしたから。休みだろ」だって! 
やったあ!
依然として模糊の中にはあるけれど、朧に道が見え始めたんだわ。

  8月13日(水)

  8月14日(木) 晴れ
ごめんね、私の日記帳。
昨日はたくさん書くことがあったけど、帰らなかったから……
今日、書いてもいいんだけど、書いてしまうと大切なものがまた消えてしまいそうなの。
だから、白紙のままにしておくね。
それから、日記を書くのも今日が最後。
あしたは、あの人と二人で、もと居たところに帰るから。
さようなら、釜飯屋のマスター。短い間だったけど、ありがとう。
さようなら、私の日記帳……

   (3) 送 り 火

 飲み屋のオヤジが、くだらん幽霊話を振ってきた。
 お盆を前にして、怪談話にはもってこいのタイミングだったが、「写真に写らない女」なんて、使い古した手口じゃあ興ざめだ。
 もうちっとましな話でおどかしなよ、とまぜっかえしてやろうかと思ったが、主人公があの女だったので、ついその気になってしまった。

 いい女だ。
 たいしてうまいものを食わせる店じゃなし、勘定もさほど安いわけでもないあの店に通ったのは、時々、あの女に会えるからだった。
 この歳になって、いまさら「恋」ってガラでもないが、できることならあんな女と暮らしてみたいとは思っていた。
 名前はもちろん、うじ素性もわからない女だが、この程度の店に一人で飲みに来るくらいだから、まるっきり高嶺の花ってわけでもあるまい。
 それに、何かの拍子に目が合うと、なにかを訴えるかのような眼差しで見返してきた。ぜんぜんその気がない、という風には見えなかった。
 なにかきっかけがあれば……

 それが、あの店で働くことになったというのだから、正直、しめた、と思ったものだ。
 お運びさんと客なら、話をするきっかけなんていくらでもあるし、そのうち打ち解ければ互いの気心も知れて、チャンスは広がるってもんだ。
 …… と思っていたが、これがすべて、あの女の仕掛けだったとは……!

 あの日、飲み屋の親父がいなくなったのを幸い、思い切ってデートに誘ってみた。断られるかと思ったが、拍子抜けするほどあっさり応諾した。
 ケーキ屋のショウケースで見つけた、あの小さいクセにべらぼうに高い、何とかグラッセ…… あの喜びようは普通じゃなかった。
 あれが効いたと思った。ケチらないでよかったと思った。
 が、違った。
 考えてみればあたりまえのことだが、いくら好物だからといって、ケーキ一個で転ぶ女はいない。いても、そんな女は願い下げだ。

 聞けば聞くほど、不思議な話だった。
 彼女とは12年程前に、結婚するはずだったという。それが不幸な事件のために空中分解してしまったそうだ。
 信じられなかった。いくら考えても、そんな記憶はない。第一、結婚という人生の重大事を、いくら話が消えたからといって、忘れるはずがない。
 「それはね、あなたと私が違う世界にいるからなの」
 そう言って彼女は白い手を私の手に重ねた。冷たい凍りつくような手だった。
 その冷たい感触が、心のいちばん深いところに納められていた、かすかな記憶を呼び覚ました。
 記憶が次第に膨らみ、厚みを増した。
 記憶と現実が交錯し、やがて二つは一つになった。記憶は現実であり、現実は記憶と同一であった。

 速度計は120km/hを示している。
 車は、関越高速道路を新潟に向けて走っている。新潟の、彼女の実家へ向かっているのだ。
 この秋、二人は結婚する。
 すべての準備は、何の障害もなく、すでにほとんど整っていた。
 盆休みを、最後の打合わせを兼ねて、彼女の実家で過ごすことになっていた。
 渋川伊香保ICを過ぎ、赤城高原SAに接近したときだった。
 対向車線側から、中央分離帯を突き破って、巨大なトレーラーが突っ込んできた。

 記憶はそこで終わっていた。
 が、現実はまだ継続していた。

 宙を飛ぶように突っ込んできたトレーラは、まともにこちらの乗用車にのしかかった。トレーラーの荷台に押し潰され、乗用車はぺしゃんこになっていた。
 助手席の彼女が笑顔で言った。
 「わかったでしょ?」
 「ああ、わかった。すべて、わかった」
 12年の時間が消えた。
 12年前、私は彼女とともに死んだ。が、自分の死を自覚しないまま、霊界の狭間を彷徨っていたのだった。
 私は、幽霊だったのだ。

 8月15日、私は愛する妻とともに彼女の実家に帰る。