星のレクイエム

(中)



 会社の倒産が決まった日、四郎は、住まいにしていた工場内の宿直室から追い出された。
 もともと「家が決まるまでの一時的な宿舎」だったから、文句は言えなかった。「一時的」が十数年に及んだのは、離婚で妻子がいなくなった四郎にとっては、家とはただ寝るだけの場所であり、寝るだけなら宿直室で十分だったからである。
 会社にしても、仕事の虫のような工場長が、無償で宿直まで兼ねてくれるなら、警備上の費用まで節約できるのだから文句はなかった。

 「一生懸命働けば、必ず認められる」
 その信念のもとに黙々と働いてきた四郎にとって、ある日突然、会社がなくなってしまい、同時に自分の寝る場所もなくなってしまうという事態は、思いも及ばないことだった。
 だから、引越し先すら考えていなかった四郎は、封鎖された工場の門前に積み上げられた私物の山の傍らで、途方にくれた。
 ダンボール箱に詰め込んだ荷物の大半は、おびただしい数の音楽CDとカセットテープだった。あとは着るもので、鍋釜、布団など生活用品はない。それらは、宿直室に常備されているものを使っていたからだ。

 音楽を聴くのは、四郎のたった一つの趣味だった。
 仕事を終えて機械を止めると、工場は静まりかえる。回りは田んぼだし、幹線道路からは離れているので耳障りな車の音は聞こえない。そんな絶好の環境の中で、四郎は眠るまでのひと時を、ちょっとボリュームを上げて音楽に浸りこむ。
 そのひと時が、生きている楽しさを実感するときだったから、四郎にとって音楽は、趣味というよりも生活のすべてであったかもしれない。

 とりあえず落ち着く先が必要だった。
 生きてゆくためには仕事を探さなければならない。失業保険がもらえると聞かされていたが、それは一時的なものでしかない。できるだけ早く次の仕事を探さねばならない。そのためにも住まいが必要だった。
 誰かに相談したかったが、この町には頼れる人はいない。
 親戚はもとより、友人と呼べる人もいない。工場の構内に住み、仕事の虫になっていた四郎には、知人といえば会社関係の人しかいなかった。
 もともと人付き合いのいいほうではなく、音楽以外に趣味を持たない四郎には、心を開く友人はできず、交際範囲の広がりもなかった。

 いつも行くレコードショップの近くの不動産屋で、あっけないほど簡単に家が見つかった。
 庭付きの一戸建てで、平屋だが三部屋もある貸家で、即日入居も可能だった。四郎が希望したのは、一間か二間のアパートだったが、この小さな町では逆にそういう物件は少なかった。
 「こんなに簡単に見つかるなら……」
 思い浮かんだのは、別れた妻と娘の顔だった。妻はまだ若く、娘は幼いままだった。
 あの時すぐに家を借りていれば、愛する妻や娘と別れることもなかっただろう…… もしかしたら…… この家で生活を立て直せば、二人ともう一度ともに暮らすことができるかもしれない……
 案内された家を見ながら、四郎の空想がふくらんだ。

 だが、四郎の空想はすぐに泡となって消えた。
 賃貸借契約書に添付する身上書に、二つの空欄があったからである。
 ひとつは勤務先、もうひとつは保証人および連絡先だった。

 四郎には、かなりの額の貯金があった。
 前の会社の退職金は、離婚に際して、財産分与と娘の養育費の一括払いということで、そっくりそのまま妻に渡してしまったが、その後の給料の大半を積み立てていたからである。家賃の負担がなく、人付き合いをほとんどせず、趣味は音楽を聴くことだけ。つまり食費とつきに数枚のCDを買う費用以外はすべて貯金に回っていたのである。
 失業保険も給付されるので、二、三年遊んでいても食べてゆける。

 勤務先欄が空欄であることは、貯金通帳まで示してなんとか納得してもらえたが、保証人がいないこと、万一の場合の連絡先がないことについては、どうしても了解が得られなかった。
 あきらめるしかなかった。

 その夜、四郎はダンボールの山の傍らで、工場の門柱にもたれて眠った。生まれて初めての「野宿」の経験だった。
 夜空に星がきらめいていた。
 母のことを思い出し、流れ星を探したが、見つからなかった。

 翌朝、思いついて、数年前定年退職したかつての部下を訪ね、持ち歩けない荷物、ダンボールのCD類を預かってもらった。年下の工場長を気遣って、残業に付き合ったり、時折食べ物の差し入れをしてくれたりした。親しいというほどではないが、この町では、相談に乗ってくれそうな唯一の人だった。
 事情を聞いて、保証人にもなるし、家が決まるまで泊まるようにと勧めてくれたが、四郎は断った。そこまで甘える気はなかった。

 荷物を預けて身軽になったので、四郎は電車に乗り、数駅離れた大きい町にある職業安定所を訪ねた。
 会社から渡されていた書類を提出すると、係官は失業保険の手続きについて一通りの説明した後、七日後にまた来るようにと言った。
 「失業保険より、仕事の紹介をしてほしいんですが……」
 四郎がいうと、係官は不思議なものを見るような目つきになった。
 「仕事はもちろん紹介しますよ、あればの話だがね」
 「急ぐんです」
 「ここへ来る人は、皆、仕事を探している、急いでね。でもこういうご時世だからね、なかなかないんだよ、適当な仕事が」
 「どんな仕事でもいい。一生懸命やりますから」
 「だからね、その仕事が見つかるまでの間、安心して探せるように失業保険が給付されるんです」
 「お金よりも仕事を……」
 係官は、黙って隣の部屋を指差した。白いテレビのようなものが3台置いてあって、人々が食いつくような姿勢で画面をにらみつけていた。

 四郎は、町の旅館に宿をとり、一週間、毎日職業安定所に通った。
 列に並んで、「タンマツ」という名だと教えられた白いテレビのようなものの前に座り、ボタンを押して画面に現れる求人情報から自分にできそうな仕事を探す。見つかったら画面に示された番号を控えて係官のところへ持ってゆくのだが、四郎の技術を生かすような仕事はひとつもなかった。
 なんでもいいから、と思って適当に選んで持ってゆくと、係官は印刷された紹介状に名前を書き入れて渡し、会社に面接に行くように指示した。
 「これで仕事が決まる」
 そう思い、喜んでその会社に行ってみると、「うちは若い人がほしいんだがね」とか「募集しているのは女性なんだよ」と断られてしまった。

 こうして一週間が経ち、失業の認定を受けると、今度は四週間後にまた認定を受けに来るように言われた。以後、四週間ごとに認定を受け、四郎の場合は都合240日間、失業保険が給付されるのだという。
 「タンマツの分以外には、仕事はないんでしょうか。毎日見ているけど、同じものばかりで、主なところはもう全部紹介を受けてしまいました」
 「まあ、田舎だからね、企業の絶対数が少ないうえ、従業員の移動も少ないんでね。東京などの大都会なら求人数も桁違いに多いと思うけどね」

 東京。四郎の耳にその言葉が残った。
 確かに、以前働いていた工場は東京の隣の県だったが、大きい工場から小さい町工場まで、軒を連ねるといっていいほどたくさんあった。田んぼの中にぽつんぽつんと工場らしいものが見えるこの地方とは比べ物にならない。
 それに…… ふっと別れた妻の顔が浮かんだ。
 娘にも、無性に会いたくなった。

 数日後、四郎は東京に出た。
 旅館暮らしをして漫然と四週間を待つことはできなかったからだ。
 東京やその周辺なら、いくらでも仕事がありそうだったし、手ごろな家を借りられそうに思えたからだ。
 そして、できることなら、妻と娘に会いたかった。

 駅の交番で場所を聞いて、四郎は職業安定所に向かった。
 東京は忙しい町だった。
 おびただしい数の車が道路をうずめ、人々は皆、せわしげに急ぎ足で歩いていた。
 これなら仕事はある。こんなに忙しい町なら、必ず仕事はある。
 まず仕事を決め、家を探して落ち着き、それから妻に、いや娘に会いに行こう。そして、できることなら、昔のあの幸せな家庭を取り戻したい……
 四郎の胸に希望の火が点った。

 職業安定所に着いて、四郎は肝をつぶした。
 田舎町のそれよりはるかに大きな建物だったが、その建物はあふれ出るほどの人で埋まっており、その人波を掻き分けなければ中に入れなかった。
 広い待合室には、例のタンマツが十数台、ひしめき合って並び、そのすべてに人が群がっていた。よく見ると、入り口までふさいでいる人波は、タンマツが空くのを待つ人の列であった。

 「登録住所の変更ですね?」
 人波を掻き分け「相談受付」と書かれたカウンターで、東京および近県で仕事を探したいというと、中年の女性係官はそういって申請用紙を取り出した。
 「住所はまだ決まってないんです。まず仕事を……」
 「でも連絡先はあるんでしょ? 仮に就職先が見つかっても、連絡先のはっきりしない人はどんな会社だって雇ってはくれませんよ」
 それは道理だった。
 いままでに面接を受けた経験によれば、条件があわないことで門前払いをされたところを除けば、「結果は後日、連絡します」だった。
 四郎の住民登録は、倒産した会社の住所になっている。当然、そこでは郵便も電話も受けられないから、いままでは履歴書の住所欄には、旅館の住所と電話番号を書いておいた。

 先に住まいを、いや連絡先を決めなければならなかった。
 申請用紙を受け取って、四郎は職安をあとにした。手続きの後、早速タンマツの列に並ぼうと考えていたのだが、先にしなければならないことができてしまった。

 とりあえず住まいを決める。そこから始めなければならない。
 東京の街を、四郎は、歩いた。
 ビルの隣にビルがあり、ビルの後ろもビルだった。その向こう側には道路があり、道路を渡るとまたビルだった。
 東京の街は、果てしなく広がっていた。

 ふと気がつくと、すでに日が落ちて、空は真っ暗になっていた。
 空は暗いが、街は真昼のように明るかった。人は昼間より多く行き交い、道は車で埋まっていた。
 四郎は自分がどこにいるのか見当がつかなかった。
 あてもなく歩き、行き当たりばったりに見つけた不動産屋に飛び込んだ。四郎一人が住むには手ごろな物件が多数あったが、借りるにはすべて保証人が必要であった。保証人の要らない物件もあるにはあったが、それらは一流企業勤務という条件がついていて、失業者の四郎には縁がなかった。

 疲れきって、四郎は駅前の植え込みを背にしたベンチに座り込んだ。
 保証人、連絡先……
 その言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた……

 「もしもし」
 肩をたたかれて、はっと目覚めた。いつの間にか寝込んでしまったらしい。
 「大丈夫かね? こんなところで寝ていると悪いやつに狙われるよ」
 目の前に警官が立っていた。
 「あ、すみません。ちょっと疲れてたものだから」
 「いや謝らなくてもいい。ここで寝ちゃいけないといってるんじゃない。このあたりは酔っ払いを狙うすりが多くてね。気をつけてね」

 時計を見ると午前2時だった。
 北陸のあの町だったら、歩いているだけで不審者とみなされる時間だった。
 だが東京のこの街は、依然として真昼のように明るく、人々が忙しげに歩いていた。
 東京の人は、仕事が忙しくて眠る暇もないのだろう。それなら自分にもきっと仕事があるはずだ。そんなことを考えながら夜空を見上げた。流れ星を見つけたら仕事と家が見つかるように祈るつもりだったが、東京の空には星はひとつも見えなかった。

 東の空が白み始めたころ、町を行く人の流れが少しずつ変わり始めた。
 駅のシャッターが上がって、人々がそこに吸い込まれ始めたのである。どうやら電車が運転を始める様子だった。
 四郎も立ち上がって駅に向かった。
 どこへ行こうという目的はない。ただいつまでも駅前のベンチに座ってはいられないと思っただけだった。早く住まいと仕事を確保しなければならない。そのためには…… 保証人が必要だった。

 駅舎に入るとき、なんとなく振り向いた四郎の目に、やや明るんだ空にひとつだけ輝く星が飛び込んできた。明けの明星、それは希望の星だった。星は四郎の脳裏に鮮明な画像を結んだ。
 画像は、妻の笑顔であった。
 東京には1200万人の人が住んでいるという。隣接する県も合わせれば、日本の人口の2割がたが、東京近辺にいることになる。そのうちのたった一人、四郎の保証人になってくれるかもしれない人…… いや保証人よりも何よりも、四郎は妻に会いたかった。娘に会いたかった。

 妻の実家は、東京から電車を乗り継いで1時間半ほど、巨大な工業地帯を有する町にあった。
 約15年ぶりに訪れた四郎は、その町がすっかり変わっているのに驚いた。木造だった駅舎は近代的なビルに建て替えられ、駅前から町の中心部に向かって真新しい広い道路が延びていた。この道路は、昔はなかった。逆に昔あった道がなくなっていて、妻の実家へどう向かえばいいか戸惑ったほどだ。
 駅を出て、町の中心部を離れると、どうにかかつての面影を残した街並みになり、やがて見覚えのある妻の実家があらわれた。
 四郎はほっとすると同時に、もし可能ならば再びこの町に住み、この町で働きたいと考えた。

 まだ朝早い時間だったためか、付近は静まり返っていた。
 どこの家もようやく目覚めて、これから朝の忙しい時間が始まるころである。無関係とはいえないにしても、まだ人の家を訪問する時刻ではなかった。
 四郎は付近をぶらつきながら時を待つことにした。何かの拍子に妻か娘が出てくることも考えられるので、あまり遠く離れないようにした。

 一時間ほどが過ぎ、付近を仕事場に向かうと思われる人々が行き交い始めたころ、玄関のドアが開いた。
 出てきたのは妻の母親だった。頭は白くなっていたが、それ以外は以前と変わらない様子だった。
 手に大きなゴミ袋を提げていた。

 歩きながらチラッと四郎を見て軽く会釈した。近所の人と思ったのだろう。
 なんとなく声をかけそびれていると、数歩先で立ち止まり、振り向いてびっくりした顔をした。
 「四郎さん?」
 「え、ええ……」
 「あらまあ…… まあとにかくお入りなさいな」
 義母は、ゴミ袋を持ったまま戻ってきて、四郎の肘のあたりをつかんで引っ張った。四郎はそれを制し、義母に代わってゴミ袋を捨てに走った。

 家の中は森閑としていた。
 妻と娘に会えるかと思ったが、いなかった。義父の姿もなかった。
 「お父さんが死んでから、独りぼっちになってしまってね。昔の知り合いがたずねてくれると、なんだかうれしくって」
 お茶を出してから、義母は四郎の前に座り、懐かしそうに四郎を見つめた。
 「あの…… 郁美…… 娘は……?」
 妻洋子のことを聞きたかったが、いきなり別れた妻のことを持ち出すのもはばかられたので、娘の消息を尋ねた。

 「あら、知らなかったの? ……そうね、わざわざ知らせることではないから。ごめんなさいね、洋子は、あれからまもなく再婚したのよ。郁美も一緒に行ってしまって。お父さんはずいぶん寂しがってたわ」
 妻は、いや妻だった人は、再婚した……
 別れて他人に戻ったとはいえ、四郎の胸の中では、妻も娘も最後に会ったときのままだった。しかしあの時から15年、時間は確実に動いていて、妻洋子は、もはや四郎の手の届かぬ人となってしまっていた。

 四郎は、義父、だった人の遺影に手を合わせてから、妻の実家を辞した。
 これでこの家とも縁が切れ、わらをもつかむ思いだった、唯一の保証人も消えた。

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