湯の宿青山荘


 道の駅〔天城越え〕に車を置いて、川端康成の名著『伊豆の踊子』で有名な旧街道を歩き、河津に下る。河津の七滝温泉で汗を流し、路線バスで出発点の道の駅に戻る、という計画であった。
 ゆっくり歩き、のんびり湯につかっても5時間程度なので、十分明るいうちに戻れるはずである。
 国道414号線の舗装道路をしばらく歩くと、左側に未舗装の旧道が現れる。舗装はしていないが、車が通れる道であり、またハイカーも多いことから、十分に踏み固められていて歩きやすい。
 ずっと登りなので、普段あまり歩くことのない身にはこたえるが、覆い被さる古木の間から、ちらちらと木漏れ日が降ってきて、実に気分がいい。

 ……と、このコースを紹介し続けてもいいのだが、どんな紀行文を読むよりも、ここは『伊豆の踊子』を読んでもらった方がいい。時代は変わったが、旧天城トンネルを挟むこの区間の山道の雰囲気は昔のままなのだから。
 それに、ここでお話しようとしているのは、旧道を歩いての天城越えの感想ではなく、その間に芽生えた淡い恋の物語でもない。たまたま泊まった小さな温泉旅館「湯の宿青山荘」でのほのぼのとした体験談なのである……


 夏でも肌寒い天城トンネルを抜けて2キロほど下ると、道は再び国道414号線に行き当たるのだが、これを行くのでは、わざわざ車を捨ててきた意味がない。
 トンネルを出てすぐに新天城トンネルの上に位置する天城峠越えの山道に進む。
 天城峠からはかなり急峻な下りになり、河津川支流の渓流沿いに、次々に現れる滝を鑑賞しながら河津七滝温泉に向かおうという目論見であった。
 山道は狭く、下りとはいえかなり体力を要するが、渓流というはっきりした目印があるうえ標識もあるので、迷うことはない。

 ……迷うことはない、筈だったが、一時間足らずで到着するはずの七滝のひとつである「釜滝」に2時間ほど歩いても到着しなかった。
 「迷った!」
 そう気がついたのは、右下に流れているはずの渓流の音が聞こえなくなったからだった。

 人に踏み固められたと思われる道はまだ続いている。道があるなら、このまま進んでも「どこか」へは出られると思ったが、人里は近くても山は山だ。野営の準備も、食料の準備もないままに無茶はできない。
 「戻ろう」

 慎重に、記憶をたどりながら来た道を戻る。
 枝道はなかったから、戻れば必ず渓流沿いの道に戻れるはずだった。
 周囲の風景は記憶に一致していた。露出した木の根が階段状になっているところも記憶にあった。間違いなく先ほどの道を戻っているはずだった。

 「おかしい!」
 渓流から離れて10分と経っていないはずなのに、いつまで歩いても流れの音が聞こえてこない。
 ここまで、岐路はなかった。どう歩いても間違えようのない道だった。
 不安が胸を覆った。
 日没まではまだ時間があるが、太陽が山陰に入ったため、あたりは薄暗くなっていた。懐中電灯は持っているが、夜の山道ではほとんど役に立たない。


 ようやく渓流の音が戻ってきたのは、空の青さが薄れ、遠い稜線が赤らんで日没を示した時だった。
 半分、野宿を覚悟して、風をよけられる崖下の窪みを探そうと考えていたが、渓流沿いの道をキャッチできれば、あとは七滝温泉まで一時間とかからない。

 ホッとしたのもつかの間だった。
 河津へ下る渓流ならば、右側にあるはずだった。天城峠から下って、渓流を渡った記憶はない。
 ということは、この渓流は、七滝温泉に下る流れではないと言うことになる。

 しかし、このあたりの渓流はすべて河津川に流れこむわけだから、これに沿って下れば、いずれは街に出ることができるはずだ。
 もちろん、夜間の渓流下りは危険この上ないことは承知している。
 だが、渓流沿いの道は、山道というより生活道路といってよいほどしっかり均されていた。

 あたりはすでに闇が支配していた。
 バックパックから引っ張り出した懐中電灯だけが頼りだった。
 木立の奥で、懐中電灯の光を受けてキラキラ光るのは、野生の小動物に違いない。

 鬱蒼とした木立の中をしばらく下って行くと、突然、視界が開け、灯りが見えた。
 距離はわからないが、そう遠くないところに二つ、三つ。そのずっと先には街と思しき光の集団があった。
 ここがどこかはわからないが、狭い伊豆半島のことである。河津でないにしても、その近くの街だろうから、とりあえず安心していい。

 さらに10分ほど下ると、灯りの本体が姿をあらわした。
 「湯の宿青山荘」
 二階建ての小さな温泉宿だった。

 木造だがしっかりした造りで、二間間口の玄関に温泉宿らしい温かさがあふれていた。
 「いらっしゃいませ」
 おとないをいれるまでもなく、女将さんらしい和装の女性が現れ、三つ指をついた。
 「あ、いや。客じゃぁないんですが……」

 簡単に事情を説明し、道の駅〔天城越え〕に戻りたいと告げると、
 「街まではうちのマイクロでお送りしてもいいんですけど、この時間では、もう中伊豆方面に行くバスがありません。タクシーは行ってくれるでしょうけど、お代金を考えたらこのあたりにお泊まりになって、明朝、行かれたほうがいいと思いますけど……」
 言われてみれば、確かにいまから車へ戻ってもかなり遅い時間になる。そこからさらに、運転して東京まで帰るには少々疲れすぎている。

 ……というわけで、この宿に泊まることになった……

 「お疲れでございましょう。すぐにお風呂をお使いくださいませ。その間にお食事の準備をさせていただきます。
 「お風呂は、内湯と露店風呂がございます。今日は、他にお客様がございませんので、気がねなく、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」

 部屋は十畳に六畳の次の間つき、掃除も行き届いていた。
 値段を聞かないで泊まることにしたが、食事次第ではかなりふんだくられるかもしれない…… そんな心配をしながら浴衣に着替えていると、「おじゃまします」と声があって、仲居さんが入ってきた。

 30歳そこそこのぽっちゃりした、まあ美人の部類に入る人だった。
 「浴衣、大きいのをお持ちしました」
 なるほど、いま着替えた浴衣は丈が短くて、膝のちょっと下までのツンツルテンだった。
 「いらっしゃいませ。お部屋係の安代でございます。
 「お部屋の準備には十分気をつけておりますが、お気になることがございましたら、何なりとお申し付けください。
 「それと、たいへん恐れ入りますが、ご覧のようにこの建物は純木造でございます。お煙草等、火の元にはお気を付けくださいますようお願い申し上げます。念のため、お休み前には非常口をお確かめくださいませ。非常口は、廊下の両端と、そちらの窓を出ていただきますと屋根伝いに非常梯子がございます」

 「今日は、他にお客さんいないんだって? せっかくのんびりできるところに、変なのが飛びこんできちゃって、ごめんなさいね」
 「ご冗談を。お客様がいらっしゃらないと、旅館がつぶれちゃいますわ。それに、ここ、周りに何もない山の中の一軒宿でしょ? お客様がいないと淋しすぎるんですよ」
 「狐狸妖怪があらわれるとか?」
 「かもしれませんよぉ」
 明るく笑いながら、お茶をいれた後、安代さんは部屋を出ていった。

 風呂はすばらしかった。
 小さい宿で客室数も少ないためか、浴槽はそれほど大きくはないが、ヒノキ風呂。お湯はやや温めで、疲れた体を解きほぐすにはちょうどよかった。
 露店風呂は自然石を巧みに配した造りで、湯底に木製のすのこをしつらえて、身体をやさしく受けとめるようにしてあった。
 他に客がいないので、思いきり身体を伸ばして寝そべる。見上げると、びっくりするほどたくさんの星が、狭い夜空にひしめき合っていた。
 部屋に戻ると、待っていたように食事が運ばれてきた。
 「海も遠くないんですが、手前どもでは山家の料理をお楽しみいただいております」
 女将さんがそう言って、一品一品、説明をしながら料理を並べる……
 ちょっと待てよ、これって、仲居さんの仕事じゃないのかな? 些少だが、チップを渡そうと思っていたので、仲居の安代さんが出てこないのがちょっと不満だった。
 他に客がいないなら、忙しいってこともあるまいに。

 「あの、仲居さん、安代さんはどうしたの?」
 特別に思し召しがあるわけじゃないが、気になったので聞いてみた。
 「安代って、あの……」
 女将さんは、人の顔に視線を貼りつけたまま絶句した。
 「安代さんて、30歳くらいで、そばかすの目立つ…… 部屋係だって言ってたけど」
 「あの…… 出ましたか?……」
 「出ましたかぁあ? やだなその言い方は。まるで、幽霊かなんか……」

 「ええ、幽霊なんですよ。
 「申し訳ございません。ここしばらく出なかったんですけどね……
 「実は、30年ほど昔の話なんですが、この宿は火事で丸焼けになったんです。消防署の話では、お客様の煙草の火の不始末らしいんですけど、いえ、お客様は無事でした。その安代がお助けしたんです。お酒を召し上がって、眠りこんでいたお客様を背負って運び出したんですが、自分は大やけどを負って、三日ほど後に病院で息を引き取りました。
 「仕事熱心ないい子だったんですけどね……」

 「その後、時々、出るんですよ。
 「いえ、悪さはしません。ちゃんと仕事をするし、お客さんのお相手で歌を歌ったりしますけど。人が怖がるようなことはしません。
 「自分が死んだってことを知らないんでしょうね。ずっと仕事を続けているつもりなんでしょう。かわいそうに……」

 「歌を? 幽霊が歌うの? ……ご詠歌かなんか?」
 「いいえ。美空ひばりですよ。ひばりさんと、生まれ年と月までが一緒とかで…… のど自慢にも出たことがあるんですよ。え? いえ、もちろん生きていたころのはなしですけど」
 「へえ、幽霊が美空ひばりをね……。最近は電子的に、たとえば石原裕次郎に歌わせたりすることもできるらしいけど、そういうのとは違うわけだね。……うむう、幽霊の歌ってのも聞いてみたいもんだな」
 「ご冗談を」

 「お客様、お気を悪くなさらないでくださいまし。もし、こんな宿では嫌だとおっしゃるんでしたら、すぐ他を手配いたしますけど……」
 「いいよ、いいよ。悪さはしないんだろ? 薄気味悪いのは願い下げだが、歌を歌ってくれるほど陽気なら、お願いして出てきてもらいたいくらいだよ。……そうだ! お酒、貰おうかな。飲んでるうちに出てきてくれるかもしれない」

 「申し訳ございません。その代わり、というわけではございませんが、今日のお泊まりはお代をサービスさせていただきますので……」
 「いいよ、いいよ。ちゃんと払う。その代わり、怖いのは嫌いだからね、おっかない思いをしたら、逆に慰謝料払ってもらうからね、ははは」

 ビール2本とお銚子が3本カラになったが、幽霊の歌姫は現れなかった。
 考えてみれば、幽霊なんてモノは、この世に怨みを残しているから出てくるもので、人の命を救ったほどなら、その場で天国に行ってるだろう。
 一人旅の無聊を、女将さんの見事な作り話で楽しませてもらったということかもしれなかった。

 深夜、美空ひばりの歌が聞こえた。

 ♪ 髪の乱れに手をや〜れ〜ば… 赤いけだしが…

 ははは。これは安代さんじゃない。美空ひばり本人の声だ。おそらく女将さんが、サービスの追い討ちで美空ひばりのCDでもかけているのだろう。……? 美空ひばりのアカペラのCDがあるかどうかは知らないけれど……


 早朝、朝霧に包まれた宿を出て始発のバスに乗った。他に客はいなかった。
 「お客さん、どちらにお泊りだったんですか?」
 この時刻に、土地のもの以外の客が乗ってくるのは珍しいのだろう、運転士が話しかけてきた。
 「青山荘。いい宿だったね。また来ようと思う」

 急ブレーキがかかり、バスが止まった。
 「青山荘って! お客さん! あの宿は30年前に火事で丸焼けになったんですよ。さいわいお客さまは助かったんですが、経営者も従業員もみんな死んだんです! 今は残骸しか残っていません!」