笹 舟 |
白い指が、踊るように動いて、笹舟が出来上がった。 振り向いて小さく微笑を投げてから、女は水辺に屈み、笹舟を流れに押しやった。 緩やかな流れが、追ってくる人の歩調に合わせるように、笹舟をゆっくり運んでいった。 「子供っぽい、って言われるかもしれないけれど、わたし、笹舟が大好きなんです。夢を運んできてくれて、代わりにいやな思いを遠くへ捨てに行ってくれるような気がして……」 いい女だ。思いきり抱きしめたい。 正志はそんな衝動に駆られたが、ついさっき見合いの席で会ったばかりの女性に、そんな振る舞いができるはずもなかった。 この人と結婚しよう。ぜひともそうしたい。 正志は36歳になる。 長身で、整った顔立ちをしている。著名な大学を卒業し、一流企業に勤務して経済的にも安定しているので、相手が見つからないというわけではなかった。 実際、今まで何人かの女性と交際し、結婚への道を歩んだこともある。 だが、どういうわけか、いよいよ本決まりという段になると、些細な問題から話が壊れてしまった。 結婚をあせる差し迫った事情もなく、この歳になると結婚そのものが少々馬鹿らしいものに思えてきて、生涯独身を通すというほどの気もないかわりに、結婚願望のようなものもなくなっていた。 本人はそれでよかったが、周辺は黙っていなかった。 とくに母親が心配し、実家の兄、つまり正志の伯父に相談を持ちかけていた。 伯父は某中央官庁の高級官僚だったので、そのルートで苦もなく「良縁」を探し出してきた。 それで今日の「見合い」という段取りになったのだが、いまどき「見合い」など馬鹿らしいし、そんなことで自分の人生を左右されてはたまらない、と正志は思っていた。 ただ、伯父貴の顔は立てねばならんだろうし、「見合い」というものの経験がなかったので、面白半分に応じた。 「見合い」で結婚相手を探さなければならない女など、ロクなもんじゃなかろう、と考えていたが、正志は自分の考え方を訂正しなければならないと感じていた。 狩野詩織…… 仲人役の伯父が最初に写真を持ってやってきたときの話に一点の嘘もなかった。見掛けばかりでなく、頭もいいし、妙な気取りも感じられない。 ……いい女だ。 笹舟を追うように、流れに沿った小径を詩織と並んで歩きながら、正志はすでにこの「見合い」の返事を決め、新生活の夢を描き始めていた。 「あっ! 舟が……」 詩織の小さな叫びで我にかえった。 流れを見やると、笹舟は水の中から突き出た岩に引っかかり、転覆しようとしていた。 この笹舟に自分の幸せが乗せられている、正志はそう感じていた。 転覆させてはならない。 ズボンを汚すのはちょっとためらわれたが、正志はすぐさま水際に膝をつき、笹舟に手を伸ばした。 ……水面に人の顔が映っていた。 自分の顔だと思っていたが、ちょっと違っていた。 「良枝!」 幼いころの記憶がよみがえった。 「まあにいのお嫁さんになるの」 隣に住む良枝は、「大きくなったらなにになりたい?」という大人の問いかけに例外なく、そう答えていた。 正志とは二つ違い。 隣家とは家族同様の付き合いをしていたため、正志はよく良枝のお守りを命じられた。そのため、二人は一緒にいることが多かった。良枝は正志になつき、お守りに関係ないときでも、いつでも正志のそばにくっついて離れなかった。 正志には迷惑な話だった。 男の子どうしの遊びの場へも良枝はついてきて、決して離れようとしない。勝ち負けのある遊びで正志が負けそうになると、良枝は目にいっぱい涙をためて割り込んでくる。 「邪魔だから、帰れ!」と脅しても、少し離れたところで正志が帰るのを待っている。 こんな調子だから、男友達には冷やかされるし、女友達はできない。 正志は良枝に、ある種の憎しみすら感じていた。 ある夏の日…… この地方の風習で、七夕飾りを川に流した日のことだった。 子供たちは、誰言うとなく笹舟づくりに興じていた。大きい舟、小さい舟、ゆがんだ舟、壊れてしまった舟…… たくさんの笹舟が川を下って行く。 正志の横には、例によって良枝がへばりついていた。 良枝には、笹舟づくりはまだ無理だった。正志の作る笹舟を水面に浮かべるのが良枝の役目だった。 正志の心に悪魔が入ったのはこのときだった。 笹舟をできるだけ流れの速いところへ浮かべるため、良枝が川面に身を乗り出したとき、正志の手が良枝の背中をトンと突いた。 誰も見ていなかった。 誰も見てはいなかったが、周囲に大人がたくさんいたので、水に落ちた良枝はすぐさま助けあげられた。 ちょっとした事故であった。 「まあにい! まあにい!」 良枝は大声で泣き叫び、正志に抱き着いて離れなかった。ずぶぬれの良枝は小刻みに震えていた。身体が氷のように冷たかった。 「よっぽど、まあにいが好きなんだね」 大人たちは言って、笑った。無事だったことで、誰もが安堵していたが、ひとり正志だけは、首筋にしがみつく良枝の意外なほどの強い力に恐怖を感じていた。 この「事故」が原因であったかどうかはわからない。時間の経過から考えると関係は薄いようだが、この後良枝は風邪を引き、肺炎を併発して、あっけなくこの世を去った…… 水に映った良枝の顔は、美しく成人した良枝のそれであった。 「まあにいのお嫁さんは、私」 こぼれるような笑顔で、良枝は正志にそう言った。 正志の手から笹舟が落ち、流れに波紋を広げたが、良枝の微笑みは崩れなかった。 やがて笹舟は転覆したまま流れに乗って動き出し、良枝もともに消えていった。 詩織との縁談も、どちらから言うともなく消えていった。 |