ルームメイト |
カチッ。ドアが閉まる音がした。洗面所のドアだ。 続いて廊下からキッチンへと進む足音…… (えぇと…… 状況をいちいち説明するのは面倒だから、ご自分で体験してみてください。いま、その場で目をつむればわかる。家族の動き回る「音」が聞こえるはずです。その「音」で、誰がなにをしているかわかりますよね? そう、その音です) いまは、どうやら夕飯の支度をはじめた様子だ。 「また出たな、幽霊め」 幽霊かどうかは、確かめたわけではないからわからない。まして夕方とはいえ、外はまだ明るいのだから、幽霊と決め付けてしまうのは考えものだ。 ただ、一人住まいの私のマンションの室内で、原因も不明なままこういう音が響いているのだから、とりあえず、これは幽霊の仕業と断ぜざるを得まい。 この音幽霊が出るようになってから、半年ほどになる。 梅雨前線を台風が刺激したとかで、すさまじい大雨が降った日のことだ。冷蔵庫が空っぽだったので、食い物を求めて近くのスーパーへ行き、横殴りの雨でずぶぬれになって帰ってきた時のことだった。 なにしろ傘がまるで役に立たないほどの風雨の上、家路を急いで疾駆する自動車の跳ね上げる泥水をかぶり、まさにどぶねずみといった姿であった。 すぐさま着ているものを全部脱ぎ捨て、風呂に入ってホッとしていると、いきなり「誰か」が風呂場のドアを開けて入ってきた。いや、入ってくる「音」がした。音だけで、実際にはドアも開かず、誰も入ってこなかったのだが、続いてシャワーを浴びる音、さらに鼻歌まで聞こえたのである。女の声だった。 これ、実際にシャワーを浴びる姿が見えるのなら言うことはないのだが、音だけ、というのはかえって無気味なものだ。 これが、幽霊との初のご対面?であった。 はじめは誰かのいたずらか、上階の音が響いてきているのかと思ったが、いたずらにしてはそれらしい細工も見当たらないし、上階の音は、ここに住み始めて1年ほどになるが一度も気になったことがないほど、下の階にはほとんど響かない構造だった。 ちなみに上階の住人は、若夫婦にいたずら盛りの男の子二人、ベッドから飛び降りるは、椅子をひっくり返すやらの大騒ぎをしているそうだが、それらしい音が聞こえたことはない。 このマンションは、5年前に安さにつられて買ったものだ。 買ったときすでに中古だったから、もしかしたらなにか「いわく」があったのかもしれないが、購入直後ならともかく、5年もたって幽霊騒ぎじゃ、売主はもとより、斡旋した不動産屋だって「そんなもん知らん」としかいいようがないだろう。 よしんば補償問題に話が発展したとしても、事実関係と被害状況の立証責任が私にある。 立証? 幽霊の存在を? …… 人類の歴史上、常に存在していて、しかもまだ誰もその存在を証明したものがいないほど難解な仕事を、私にやれというのか? 冗談じゃない。私はそれほどヒマ人じゃない。 ……いや、ヒマはけっこうあるが、実を言うと、このところわが幽霊になんとなく愛着を感じており、まったく音が聞こえない日など、病気で寝ているんじゃないか、と心配になったりしている。幽霊が病気になるかどうかは知らないが、要するに、なんとなくルームメイトがいるような、そんな気分になりつつあった。 ま、無理に暴き立てることもあるまい。 別に悪さを仕掛けてくるわけでもないし、脅かしたり怖がらせたりするわけでもない。ただ音だけの日常生活が続けられているだけなのだから…… ……日常生活? 幽霊の? まてよ。いま幽霊嬢は夕飯の支度をしている! 幽霊が飯を食うのかあ? 考えても見なかったが、今までも朝食、夕食らしい音は聞こえた。ってことは、間違いなく幽霊は飯を食ってる。ってことは、食材をどこかで手当てしているってことだ。ふつうに考えれば、買い物もしてるってことになる。 ってことは幽霊が買い物のできる店があるってことで、それは当然幽霊の仲間が経営してるんだろうから…… 幽霊の社会が存在してるってことじゃないか! これは面白いことになってきたぞ! そうだ! 向こうの音が聞こえるんなら、こっちの音だって聞こえてもいいはずだ。 よし! 試してみよう! これが成功すれば、人類史上初の幽霊との交信になり、いろいろわからなかったことが明らかになる。ノーベル賞ものだな、これは。 今まで向こうの音が聞こえる時は、じっと息を潜めていたが、そうと決まれば遠慮は要らない。 私もキッチンへ行き、食卓の椅子に音を立てて座った。 「今夜は、どんなお料理かな?」 ガタン! 何かをひっくり返すような音がして、包丁の音がとまった。 「…… ダレッ?」 「……」 「ダレ、ナノ? ドコニイルノッ!」 「あ、驚かせてごめん。私は酒匂三郎というもので、この部屋の住人です」 「コノヘヤ、ッテ…… アナタ、ユウレイ?」 これは参った。幽霊に「ユウレイか」と聞かれても答えようがない…… そうか、彼女は自分自身が幽霊であるって事に気づいていないんだな。 「いや、私は人間で、あなたのほうが幽霊だと思うんだが……」 「……ソンナ、バカナコト…… コレッテ、ナニカノイタズラ?」 「いたずらじゃありませんよ。実はね……」 「ケイサツ、ヨビマスヨッ!」 「警察? 呼んだっていいけど、霊界の警察じゃ、どうにもならないんじゃないかな。それより、落ち着いて話してみない?」 興奮気味の幽霊嬢を何とかなだめて、かいつまんで事情を説明した。 「ハントシマエ? ソノコロ、ワタシ、ヒッコシテキタノヨ。ナンダカ、イロイロナオトガキコエタケド、ウエノオヘヤノオトダトオモッテタ」 「私の生活音が聞こえたのかな?」 「ソウ、オセンタクノオト、テレビノオト、ソノタ、イロイロ」 「私の場合と同じだ」 「イヤアネ。ウエノオトダッテ、チョットリアルスギテ、イヤダトオモッテタケド…… オナジヘヤジャ、キモチガワルイワ」 ふむう。どうもあまり幽霊らしくない。 幽霊じゃないとすれば、四次元的な問題で、空間がねじれて彼女の部屋と私の部屋がつながってしまったのだろうか。しかし、だとすれば音だけというのはおかしい。 「デモ、イヤネエ、ノゾカレテイルミタイデ……」 「うん、最初の風呂の時は面食らった」 「イヤッ! オフロ、ノゾイタノ?」 「違う、違う。私が風呂に入っていたら、君が入ってきたんだ」 「イヤダワ。キョウカラ、オフロ、ハイレナイ……」 「風呂の時はそう言えばいい。こうやって話ができることがわかったんだから、都合の悪い時は事前に言えば注意して近づかないようにする」 「スガタガミエナイカラ、ヤクソク、マモッテルカドウカ、ワカラナイ」 「姿が見えないから、君の入浴シーンも見えない。残念ながら……」 待てよ。 一つの部屋を、次元の違う二人が共有しているってことかな? 「いい? この現象を正確に認識するために聞くんだけど、今日の日付と君の住所を言ってみてくれない?」 「2001ネン10ガツ28ニチ、ニチヨウビ。ジュウショハ、ダメ! コジンジョウホウハ、オシエナイ」 「埼玉県○○市○○町2丁目13番5号△△マンション201号」 「ドウシテ、シッテルノ!」 「知ってるもなにも、私の住所だ」 「……ワケガワカラナイワ」 「日付も同じ…… つまり、君と私はまったく同じ時間、同じ場所にいるっていうことだ。部屋のつくりも同じ、だから風呂場もいっしょってことだね。周りはどうだろう。道の向こうにスーパーのゴトーヨーカ堂がある」 「アルワ。ミナミノマドノシタハ、コウエン。オトナリハ、クドウサン?」 「まったく同じだ。うむう、何もかも一緒で音も聞こえるのにお互いの姿だけが見えない。いや、姿だけじゃないな、部屋の中の様子も見えない…… よね? 家具類は、まさか共用じゃないだろう?」 「カグハ、ジブンノモノヨ。カベガミヤフスマハ、モトノママダケド」 「壁紙はどんな色? 私のところは、全部の部屋が、薄いベージュで縦スト ライプのエンボスで統一してるけど」 「チガウ。リビングハ、キミドリガキチョウノガラモノ、シンシツハ…… イヤダ! オシエナイ!」 「あははは。いいよ、いいよ、違うってことがわかればいいんだから」 「つまり、外はすべて共通で、玄関を入ったとたんに音だけ共通の別世界というわけだ。おもしろいなあ」 「オモシロクアリマセン。ドンナヒトカワカラナイヒトガ、ドウキョシテルナンテ……」 「同居? そうか、ルームメイトみたいなもんだものね。ということは、安心してオナラもできない」 「イヤァン」 「で、どうする? 私のほうは、若い女性のルームメイトは大歓迎なんだけど……」 「ドウスレバ、イイノカシラ?」 「専門家に相談するしかなさそうだけど…… こういうことの専門家っているのかなあ」(-_-ゞ イナイ、イナイ こうして、どうやら幽霊ではなさそうなルームメイトと意思の疎通を図ることができ、奇妙な同棲生活が始まった。 この同棲生活は、私にとっては総じて楽しいものであったが、ひとつの部屋に複数の人間?が住むというのは、なにかとトラブルも多く、気を使うことが多々あった。 たとえば生活のスタイルが、彼女と私とではまるで違う。 私は、朝3時には起きてステレオをつけ、音楽を聴きながらパソコンに向かい、ネットを楽しむが、彼女は7時まで寝ている。 起きてからの彼女はすごい! 瞬く間に食事をし、化粧を終えて、7時45分には「行ってきまあす」と出勤してゆく。 夜は、私は9時には寝てしまうので後のことはわからないが、彼女は夜中まで音楽を聞いたり、テレビを見たりしているようだ。 私のマンションは、彼女のも同じだが、いわゆる3DKである。 部屋の配置から、考えることは誰でも同じと見えて、私も彼女も同じ部屋?を寝室にし、リビングにしている。残った部屋を、私は客間という名の空き部屋兼物置に、彼女は衣裳部屋にしていた。 夜中の騒音は、私はもともと幽霊の仕業と思っていたし、寝つきのいいほうだから大して気にならなかったが、朝の私の騒音?は、彼女にとって我慢のならない問題だったらしく、さっそく抗議を受けた。 「あなたの生活にケチをつけてるんじゃないのよ。でもね、朝3時に大音量のモーツアルトは非常識じゃないかしら?」 ……早寝早起きは子供のときからの習慣だし、最近は歳のせいか、実は2時には目覚めているのだ。3時というのは、私にとっては寝床でごろごろしていられる時間の限界なのだ。 ……大音量のモーツアルトというが、ボリュームは昼間だったら聞きづらいほどに絞っている。 この問題の解決は、私のほうがふだん使っていない客間、いや物置に寝室とステレオ、パソコンを移動することで解決した。なんだかカミサンに寝室から締め出されたような寂しさを感じたものだ。 これで彼女の寝室は、私にとっては客間という名の、客なぞ誰も来ないから実質的には納戸ということになった。 便利なこともあった。 彼女の部屋に新聞の押し売りが来たことがあった。 押し売り氏は、事前に彼女が一人住まいであることを調べてきたらしく、しきりに断る彼女に半ば脅し気味に契約を迫った。 私は玄関に出て、だいたいこの辺に押し売り氏の耳があるだろうと推定される空間に向かい 「うるせえぞ、この野郎!」 と、怒鳴りつけてやった。 一瞬ポカンとした押し売り氏は、薄気味悪そうな顔をしてそそくさと帰っていった。下駄箱の上に置いた洗剤の箱を忘れて…… と、彼女が笑い転げながら実況放送をしてくれた。 半年ほど、そんな楽しい生活が続いたある日曜日のことだった。 「ちょっとお話があるんですけど……」 彼女が改まった声で呼びかけてきた。 「できたら、お顔を見てお話したいんですけど…… で、私、考えたんですけど、このお部屋にいるからお互いに見えないんでしょ? だったら外ではどうかしら? 下の公園でもいいし、ゴトーヨーカ堂の二階の喫茶室でも……」 「それは私も考えないでもなかった。同じ世界が二つあるというのは考えにくいから、この部屋の外なら、それこそドアの前でもお互いが見えるんじゃないかってね」 「じゃ、いますぐ、公園に行ってみましょ? 公園がダメだったらゴトーヨーカ堂も試してみましょ」 「わかった。すぐ行こう。あ、初対面でわからないといけないから、私の目印を言っておこう。身長180、俳優の中井貴一に似ていて… ベージュのズボンにグリーンのジャンパーを引っ掛けてる。手にタバコと、そうだ、最近はめったに見かけなくなったマッチ箱を持ってる」 彼女が出て行ったと思われる、カタンという玄関のドアが閉まる音を確認してから家を出て、公園に行ってみた。 冬の間、人影のなかった公園には、春が来て暖かくなったせいか、思いのほかたくさんの人がいた。しまった、彼女の服装を聞いておくんだった。 男とおばあちゃんは関係ない。子連れのお母さんも違う。若い、といっても20代かせいぜい30代前半までの女性…… 二人いた。 ひとりは、ゴマキを10歳ふけさせたような美人、同じ年頃のお母さんと立ち話をしていた。もうひとりは山田花子…… ベンチにかけて人待ち顔に周辺をきょろきょろ見回している。うぅん、私が彼女に抱いていたイメージとはちょっと違うが、これに違いない。どっちかと言うと… 言わないでもゴマキのほうがいいんだが、しかたがない。 「あの」 声をかけようとすると、やおら山田花子が立ち上がり、私の後方へ手を振って走り去った。見ると笑福亭鶴瓶ばりの若い衆が近寄ってくるところだった。 違った。よかった。 あとはゴマキだ。 ゴマキは、相変わらずどこかの主婦と立ち話をしている。 立ち話に割って入るほどのずうずうしさは持ち合わせていないので、彼女の目に付くように近くを歩いてみた。 おや? 人違いだろうか? それともやはり見えないのだろうか? 彼女の目線に私は入っているはずなのに反応がない。 マッチ箱を彼女に見えるように胸の辺りにかざしてみたが、これにも反応がなかった。 思い切って立ち話の聞こえるところまで近寄ってみた。 二人とも、私には気づかないようだったが、声は聞こえた。 ゴマキの声は、間違いなく聞きなれた彼女の声だった。私のルームメイトはゴマキだった。 うれしくもあり、悲しくもあった。 しばらく立ち話をした後、ゴマキは主婦に会釈をしてその場を離れた。 公園を一渡り見回してから、公園を出た。明らかにゴトーヨーカ堂へ向かっていた。 一人になったゴマキに声をかけてみた。 反応がない! 姿が見ないどころか、ここでは私の声すら聞こえないようだった。 こちらからは、彼女の姿が見え、声も聞こえるのに! ゴマキはまっすぐゴト−ヨーカ堂の喫茶室に入った。 20席ほどの店内を見回し、入り口近くの席について紅茶を注文した。 私も同じテーブルの隣の席にかけ、コーヒーを注文したが、店員は私には眼もくれなかった。 ゴマキはゆっくりと紅茶を飲み、30分ほど喫茶室にいた。 ずっと一緒にいて、私には、この不思議な事態の謎解きができた。 「いる?」 「アア」 「来なかったの?」 「イッタケド、ミエナカッタヨウダ」 「そう。外でもダメだったのね」 「トイウヨリ、ソトダカラ、ダメダッタヨウダ」 「仕方がないわ。お顔が見えないと話しづらいんですけど…… とても大事なことなので、このままお話します。いいですか?」 「イイデスヨ」 しかし、彼女はしばらく黙っていた。 「……あの、私、近く結婚するんです」 「オオ! ソレハ、オメデトウ」 「……」 「……ケッコンシテ、コノイエニスム。ダカラ、ワタシニデテイケ、ト?」 「出ていけ、だなんて……」 「デテイッテ、ホシインデショ?」 「彼も私もあまりお金がなくて、ほかに住むところがないんです。いえ、あなたがほかに住むところがあると思っているんじゃありません。なにかいい解決方法がないかと思って…… そういうことをお話したかったんです」 「シンパイシナクテモイイ。ワタシニハ、ユクトコロガアル」 「え? ほかにおうちがあるんですか? ご家族のところとか?」 「ソウジャナイ。マダ、ヨクワカラナイケド、タブン……」 私には心当たりがあった。 このマンションに引っ越して間もないころだった。私は交通事故にあった。自転車で国道を横断中に、自動車にはねられたのだった。 自分では軽いケガと思ったが、全身を包帯で巻かれてミイラのようになってしまった。 あの時、私は実は死んでいたのではないだろうか。 加害自動車を運転していたのは、76歳のおばあさんだった。 私が救急車で運ばれた病院へ加害者も来たが、いつの間にかいなくなってしまった。 たいしたケガではないと思ったので、私はそのまま家に帰った。 その後、加害者からは連絡がなく、補償の話もなかった。 不誠実な人だと思ったが、たいしたケガではなかったので、それで食べていかれなくなったわけではないし、運が悪かったと思ってそのままにした。 あの時…… 病院からいなくなったのは、加害者ではなく、私自身だったのではないだろうか? 補償の話も、私がいないので、息子か娘がしたのではないか? だとすれば、加害者が私のところに来なかった理由がわかる。 そうに違いない。それで、今のこの不思議な事態の説明もつく。 主のいなくなったマンションは売りに出され、彼女が買った。 それとも知らず、私はこの部屋に住み続けていたのだろう。 幽霊は、彼女ではなく、私だった。 「どういうことかしら?」 説明を求めるルームメイトに別れを告げて、私は交通事故の現場に立ってみた。「死亡事故発生現場」と書かれた看板が立てられていた。 体がふわあっと軽くなり、宙を飛んで覚えのある病院に着いた。 「マッテイタヨ」 病院にはミイラのように包帯を巻かれた私がいた。 「スマン、スマン。チョットマヨッチャッテ」 「ジャ、イコウカ」 「ドコヘイクンダ?」 「ソレヲキメルノハ、エンマサンダロ?」 「ア、ソウカ。マ、ドコデモイイ。タノシイジンセイダッタカラ」 「ココロノコリハ?」 「……ナイ」 本当は、ルームメイトともう少し一緒にいたかった。でも、そのことはエンマサンには内緒にしておこうと思った。 |