他 人 の 橋 (2) |
2.秋 「夏休みにね、私、お墓参りに帰ろうと思ってるの。デスクぅ、兵庫県の仕事ないかなあ」 「ねえよ。あってもカゲには回さねえよ」 「あれっ? なんか拗ねてるみたい。おみやげの件かな?」 「そ。俺は悪代官だから、袖の下に弱いの」 「編集部の皆さんには、小岩井牧場のお菓子、買ってきたでしょ?」 「ふん、俺は十把一からげで義理果たされるほど軽い存在かい? ミルクパイなんぞ食いたかねえんだよ。カゲのパイなら別だがね」 「あ! またセクハラ! おとうさん、ビール! 煮込みつき!」 「おいおい、バッキンはビールだけだぞ!」 「おとうさんは、田舎どこ? 私は姫路。家族は誰もいないけどね」 「……」 水を向けてみたが、答えはなかった。やっぱりだめか。これまでにも何度か軽い冗談話に絡ませて、「おとうさん」の個人情報を探ろうとしてみたが、いつも無言でかわされてしまった。 正面切ってたずねたこともあるが、同じだった。 だが今夜は、一つ情報を入手したと思う。 キーワードは「南部鉄」。 岩手県での仕事の下調べで「南部鉄瓶」という言葉を見出して、律子はハッとした。ひげ面が、どうやら大切にしているらしいあのさえずる鉄瓶を思い出したからだ。 湯を沸かす道具として、いままで律子の周りには鉄瓶はなかったので、それはただ古い時代のものとしか思わなかったし、「南部」といわれても「南の方」としか理解していなかった。 が「南部」は南の方ではなかった。東京から言えばはるかに北の、岩手県盛岡市を中心とした青森、秋田県の一部を含む旧南部藩の領地のことだった。 その「南部」を冠した特産品のなかに鉄瓶があった。銅製の蓋を使った最高級品「京鉄瓶」に比肩する優良品だが、「南部鉄瓶」は一般庶民にも手の届くものとして普及したという。 律子の耳に「鉄瓶のさえずり」がよみがえった。 あの鉄瓶には、ひげ面の大事な思い出が詰まっているのではないだろうか。そう思えた。 南部鉄の風鈴にひげ面は、反応を示した。ただのみやげとして受け取ったなら、すぐさま屋台の軒につるしてもよかったはずだ。屋台に風鈴は似合う。 しかし風鈴は、杉田に見せることもなくしまいこまれた。 なぜか…… 理由は二つ考えられる。 贈り主への特別な感情があるか、南部鉄そのものに何らかの思い入れがあること、だった。 表面的には拒否しつつも、「おとうさん」と呼んで接近する律子を心の底では受け入れているのではないだろうか。そして、「おとうさん」は岩手の人ではないだろうか。 そう思う。 「岩手の原稿、できるだけ早くあげてくれよ」 言いながら杉田がひげ面にバッキンを払った。 数日後、岩手の原稿を杉田に渡して、律子はひとりで屋台に行った。プリントした「盗撮」の写真を見せて詫びをいうためであった。ついでに焼き増した岩手の写真も数枚、紛れ込ませた。 ひげ面は、岩手の写真は興味深げに見ていたが、自分の写真は一瞥しただけで律子に返した。 「怒った?」 「いいや」 「黙って撮ったのは悪かったと思ってる。でも、おとうさんはどうしても撮りたかったの。許して」 「許すも許さないも、人のすることは止めだてできないからね」 「ごめんなさい。ところで、おとうさんは、岩手の人でしょ?」 「……」 「岩手の、どこかしら?」 「……」 「今回、私、盛岡を中心に花巻、遠野を回ってきたの。そのあたりなら少々詳しくなったわ。でも、だめかな、全部レンズを通してしか見ていないから。絵にならないものは、記憶にも残らない……」 「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 「えっ?」 「いや、なんでもない」 それっきり、ひげ面は黙り込んでしまった。 「ぅざけんじゃねえ、っつうんだ。だろ? 大将」 「……」 「会社が生き残るために、従業員に死ねっつうんか? それが40年、いいかぁ、40年だぞぉ、会社のために安月給に文句一つ言わず働いてきた人間にいう言葉かぁ?」 「……」 「昔は180人もいた会社がいまじゃ100人足らず、こんだぁそれを半分にするってぇんだ。半分、半分でずぅっと行けば、最後はに残るのは1人。これは社長だろうな。……そんなにまでして生き残りたいかねぇ。どうせ死ぬなら、いまのまんまで皆で戦って、皆で死のう、ってなぜ言えねぇかねえ。倒産? 結構じゃねえか。100人そろって首くくりゃ、誰も文句はいわねえ」 「……」 「大将よぉ、こんど社長連れてくっからよぉ、意見してやってくんねぇか」 「いいよ」 泣いたり喚いたり、酔っ払いがひとしきり騒いで帰っていった。 「社長さん、連れてくるかしら? つれてきたら面白いわね」 「茶化しちゃいけない」 笑いながら言った律子に、ひげ面が厳しい目つきで答えた。 「あの人は、ここへは誰も連れてこない。自分だけの、一人っきりになる場所だからね。一人になって、自分の思いをさらけ出す。悲しみ、苦しみを全部吐き出して、明日からまた笑って人生の戦いをはじめるんだ。そういう人間の心の底を、茶化しちゃいけない」 「……。親身になって、話を聞けばいいのかしら?」 「いいや。放っておくことだ」 「風鈴、ありがとう。いい音ひびかせてる」 唐突にひげ面が言った。目が和んでいた。珍しい、というより初めてのことだった。 「だけど、もうこれっきりにしてくれ。お嬢ちゃんとあたしは、店の客という以外には何の関係もないんだから」 「何の関係もないなんていわれると寂しいな。人と人との関係なんて、出会いから別れまでいろいろあるんじゃないかしら。お店の客として知り合ったからといって、永久にその関係でなけりゃならないわけはないでしょ? おとうさん、私のこと、嫌い?」 「……」 「私はおとうさんのこと、好き。お店のおやじさんとしてではなく、私のいちばん身近な人、として」 言ってしまって律子は、はっとした。ビールの酔いにまぎれて、ふいと口を突いて出た言葉だったが、本心だった。 「おとうさん」と父親に擬してはいたが、実は律子の性は、ひげ面に男を感じていた。 「好き嫌いじゃなくて、お嬢さんとあたしは別の世界の人間だってことよ。それぞれの世界の間には、深くて広い川が流れている」 「川には橋があるわ」 「渡っちゃならない橋もある」 「でも、橋は渡るためのものでしょ?」 「他人様の渡る橋…… あたしには関係がない」 「お父さんが渡ってこないなら、私が渡ってゆく」 「馬鹿なことを……」 ひげ面は、そのまま口を閉ざした。 9月に入って、律子は忙しくなった。 行楽シーズン入りで仕事が重なってきたこともあるが、もう一つ、律子にとっては初めての、そして念願だった個展の開催が近ずいたためだ。 律子は、生活を支える仕事として観光写真を撮るかたわら、社会の片隅にいる恵まれない人々にレンズを向けてきた。 日本は、今なお戦火の絶えない中東の国々をはじめとする世界の底辺に比べれば、はるかに恵まれている。しかし、行き届いているように見える福祉の狭間にあって、生きてゆくこと自体に困難を抱えている人々、それを助けようとわが身を削って奮闘している人々がいる。 そういう人々に、律子は焦点を当ててきた。 それは、父親のいない貧しい家庭で育った律子自身の訴えでもあった。 スポンサーのつかない個展は、展示用の作品の作成はもとより、会場の確保やディスプレイ、ポスター類や案内状の作成など、すべて自費で自分自身で手配しなければならないので、思い通りのものしようとすると、大変な資金と労力が必要になる。 発表したい作品はたくさんあるが、資金面の問題で、律子はいままで個展の開催に二の足を踏んできた。 それが、ほとんど突然といっていいほど急に解決したのは、実はデスクの杉田の「陰謀」とも言える協力があった。 「カゲよぉ、ここんとこ遠征ばかりだったから、今度は近場の仕事を探してきたぞ。ギャラはめっちゃ安いけど、やりがいはある。どうかな?」 といって杉田が示した企画書は、月刊雑誌の編集企画ではなく、同じ会社の出版事業部のものだった。今年度に入る直前、3月のことだった。 「文京区観光案内=落ち葉のさんぽ道」 企画書の表題はそうなっていた。 「つまんねえ仕事だろ? カゲおばさんの出番じゃねえ、って断りたいところだけどね、これ、実はあんまり儲からないんで出版部自身がぶん投げちゃってね、それをこの杉田さまが拾い上げたって代物なんだ」 要するに文京区と文京区観光協会の共同企画で、区民や観光客向けのちょっと詳しい冊子を作ろうというものだった。 「これなあ、パンフレット作りだけなら、なるほど出版部がぶん投げたほどのもんだけどね、ちょいと裏があってね……」 声を潜め、いたずらっぽい笑顔で杉田は続けた。 「あのな、カゲおばさんの撮った写真は、パンフレットのほかに一部、区のPRポスターに使ったり、シビックセンター内ののディスプレィなどにも使う。そんで、いいかあ、ここが肝心なんだが、ギャラが安い分の埋め合わせをしろって掛け合ってね、パンフレットの発行にあわせて『西影律子写真展』をやっちゃおうって段取りだ」 「私の個展?」 「そう。表向きは、観光写真展だけどね…… で、それにかかわる費用は全部タダ。要するになんだかんだのドサクサに紛れこませちゃおうってわけだ。もちろんカゲの関係者へのPRや招待状の費用は自前だけどね。どうだ? ギャラは安いけど、断るかい?」 「断るもんか! やっとセクハラの代償にありつけるというのに」 東京都文京区。 この町は、都心にありながら、その名の通りまさに文京地区である。東京大学、御茶ノ水女子大学をはじめいくつもの大学があり、護国寺や振袖火事で名高い吉祥寺など著名な神社仏閣、小石川後楽園、六義園などの歴史的な庭園も多い。 町並みは、いわゆる山の手のはずれにあるため、古くからの屋敷町もあれば気の置けない下町もある。 古来、そういう雰囲気が好まれたのだろうか、本郷、小石川というと、坪内逍遥、夏目漱石、樋口一葉といった文豪、高村光太郎、石川啄木、井上哲次郎といった詩人たちがこの町に住んだ。ほかにも永井荷風、徳田秋声、佐藤春雄、大町桂月…… 等々、ゆかりの人々は枚挙に暇がないほどだ。 律子の契約出版社も、南のはずれだが、この文京区にある。 したがって、縁は深いはずだが、律子は文京区のことはほとんど知らなかった。そこで、文京区の詳細な地図を買い、また区役所ですでに発行されているパンフレット類を集めると同時に、空いた時間には区営の小石川図書館に足を運んで、下調べをした。 「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 図書館で何冊かの本をひらいていると、そんな短歌が目に飛び込んできた。最近、どこかで耳にしたような気がした。作者は石川啄木。若くして逝った天才歌人である。 石川啄木の名は知っているが、短歌にはまるで興味がなかったから、その作品といっても、せいぜい「たわむれに母を背負いて…」くらいしか知らない。それなのに、この歌をなぜか知っている…… 律子は、なんども繰り返して読みながら、記憶の糸を探った。 「おとうさんだっ!」 ズバッと脳裏いっぱいにひげ面が浮かび上がったため、図書館の静寂を忘れて思わず声をあげてしまった。向かいの席の学生風の若い女がすごい目つきで律子を睨んだ。 そうだ。間違いなくおとうさんだ。 なんの話をしていた時だろう…… おとうさんがこの歌をつぶやいた。 なんとなく違和感を感じたものだった。 荒々しい人生を送ってきたと思われるひげ面と石川啄木は似合わない。 あれは、何かのメッセージだったのではないだろうか。 「デスクぅ! 岩手の原稿、追加取材したい。間に合う?」 「間に合うわけないだろ。もう印刷に入ってるんだ」 「止められない? 大事なこと忘れてたの」 「なんにも忘れてない。忘れてりゃ、俺が気がつく。それが俺の仕事だ」 「石川啄木! 渋民村!」 「なんだとぉ? 石川啄木だぁ? カゲおばさんよ、いやおばあさんになっちゃったのかな? 気をつけて口をききなよ。岩手といって啄木をミスるデスクだと思ってたのかい? はばかりながら、一度は文学を志した杉田様だ、詩歌についてもそこらの青瓢箪よりゃはるかに詳しいんだぜ」 「だったら、啄木は……」 「あのなあ、うちの雑誌の読者はうら若きおねいさん方が多いんだぞ。いまどきのおねいさん方はキムタクは知っててもタクボクは知らねえの。だから、渋民も岩手山もいらねえんだよ」 それはそうだ。自分自身を考えてもわかる。 旅行雑誌の読者がなにを求めているか、なにを見たいか、なにをしたいか、同じ目線で、カメラを担いで走り回っている律子である。文学にも詩歌にも、一通りの知識は持ち合わせているが、現に目と鼻の先の盛岡まで行っていながら、石川啄木と薄幸の天才歌人をはぐくんだ渋民という田舎町のことなど、ちらりとも考えはしなかった。 文京区の仕事に取り掛かり、あの「やはらかに……」の歌にぶつからなければ、いやひげ面の口からあの歌を聞いていなければ、いまだに渋民のことなんか思いつきもしないだろう。 興味があるのは、石川啄木でも渋民でもない、おとうさんのひげ面だった。 杉田が応じない以上、石川啄木をめぐる岩手の追加取材は断念せざるを得なかった。 どっしりと腰を据えた岩手山を背景に、果てしなく広がる水田、その水田を 切り裂くように北上川が延びてゆく…… 岸辺には風に揺られる柳…… 「やはらかに 柳青める 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」 律子は、脳裏に浮かぶ空想の風景に、そっとシャッタをきった。 |
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