他人の橋

(1)


   1.夏

 「盗った!」
 シャッターを押してファインダーの画像を確定させた瞬間、西影律子はそう感じた。
 興奮で体が震え、ある種の性的快感すら覚えた。プロカメラマンとしてさまざまな被写体にレンズを向けてきたし、盗撮に類することも経験してきたが、こういう興奮を覚えたことはなかった。
 それは、かたくなに拒む被写体の意志をあえて無視しての盗撮だったからだろう。
 奇妙な連想だが、泥棒が堅固な防壁を破って狙った名宝を手中にしたときにこんな興奮を感じるのではないかと思った。
 被写体は、「盗まれた」ことも知らず、引き続きファインダーの中で次々に律子の求める姿勢と表情を作り出している。律子は夢中で連続してシャッターを切った。

 律子が狙っていたのは、川を隔てた道路の向こう側、シャッターを下ろしたビルの前に出店している小さな屋台のオヤジの顔、無精ひげに覆われた仏頂面であった。
 ひげ面には寂しさがあった。諦めがあった。そして「謎」があった。
 これを撮るために大口径の望遠レンズをはじめ、ISO6400の超高感度カメラなどすべての機材を準備していた。

 西影律子は、フリーカメラマンであり、ルポライターである。
 日常的には、ある旅行雑誌と契約していて、出版社の企画にそって各地の観光スポットなどを撮影していたが、これは収入を得るための手段であった。律子自身は、社会の底辺に視点を置き、そのアングルから矛盾を抉り出す社会派をもって任じていたが、この種のものはほとんどお金にならないうえ、めったに発表の機会に恵まれなかった。
 しかし、いま行った撮影は、そのいずれにも属さない、きわめて個人的興味によるものだった。

 「おや、旅の汗も流さないうちに重装備の夜間撮影かい?」
 機材を置きに、雑誌社の一角に借りている自分のデスクに戻ると、仕事を終えようとしていた編集次長の杉田が声をかけてきた。
 「あんまり無理しないほうがいいぜ。岩手はクルマだったんだろ?」
 「うん。クルマは慣れてるからいいけどね、なにしろこの会社のデスクはケチだから、予算不足で温泉にも入れなかったよ。ねえ、少し取材費、値上げしてくれないかしら」
 「ケチは俺じゃねえよ。編集長に掛け合うんだな。尻は押してやるぜ。カゲの尻なら押し甲斐があるってもんだ」
 「おやおや、若い女とみればすぐ尻に触りたがる。悪いクセだよ」
 「誰が若い女なんだい? まさかカゲおばさんのことじゃないだろうな」
 「あ、セクハラだ! 訴えちゃおうかなあ……」
 「おいおい、この程度のことは勘弁してくれよ」
 「勘弁しない! バッキンだ。ビール奢れ!」

 社屋を出て二人は、さっき律子がカメラを向けていた屋台に向かった。
 神田川沿いのこの付近は、大手書籍取次店がある関係で、大小の出版社や印刷・製本工場が並んでいるが、帰宅途中に憩いのひと時を楽しむ飲食店はこの付近にはなく、10分以上歩いてJR飯田橋駅付近まで行かねばならない。そこで、駅まで我慢し切れない客をねらって、簡単な食事もできる屋台が数軒店を出しているのである。
 「おとうさん、お久ぁ!」
 屋台に首を突っ込んで声をかけると、無精ひげの店主はチラッと律子を見て、無言で軽くうなづいた。いつもこんな調子で、あまりにも無愛想なため、この屋台はあまり客の入りがよくない。
 「今日はデスクのおごりだからね。ビール、じゃんじゃん出して」
 「えっ? じゃんじゃん、かい? しまった、そんならもっとどぎついセクハラやっとくんだった」

 笑って乾杯をしながら、律子は後悔していた。
 盗撮をした後ろめたさから、一人では屋台の暖簾をくぐりにくかったためだが、今日は杉田を誘うんじゃなかった。一人で来て、それとなく盗撮の詫びを言うべきだった。
 そんな気持ちを、律子は用意した紙包みに託した。
 「これ、おとうさんへ、岩手のおみやげ、ね」
 ひげ面の静かな目が律子に向けられた。無言だった。代わって杉田が割り込んだ。
 「あれえ? 俺にはみやげはないのかい? ははあ、どうもおかしいと思ったら、カゲおばさんはここの大将に思し召しがあるんだな」
 「そ。おとうさんだもの」
 「なんだ、つまらねえ、おとうさん、か。ま、お父さんにみやげじゃ文句のつけようがねえな」

 律子には父親がいないことを、杉田は知っていた。
 大学を卒業して律子が就職したのは、いまの出版社だった。7年ほど在籍してから、契約制で独立することになった。この間ずっと杉田の下にいたため、律子にかかわる大概のことを杉田は知っている。
 律子の母は、いわゆる「未婚の母」だった。父親のことは誰も知らない。母はこのことについては律子にも口を閉ざし、大学を卒業した律子が出版社に就職するのを見届けるようにして、黙したまま死んだ。
 母は、自分の信念を貫いたのだろう。しかし子には父も母も必要なのだと思う。律子は、「居ない」はずのない自分の父を夢に描いていた。母が拒否しつづけた以上、父に会いたいとは思わなかったが、自分の父親がどういう人なのかは知りたいと思った。

 「もらって、いいのかな?」
 ひげ面がぼそっとつぶやいた。
 「おとうさんなんだろ? もらわなきゃならんよ。なんだか知らんが……どうせ安物だろうがね。ま、物にこめられた娘の気持ちを受け止めてやるのが義務ってもんだ」
 杉田の言葉で、ためらっていた太い指が動き、包み紙を優しく開いた。そしてまるで玉手箱を開くようにそっとボール箱を開け、中を覗き込んだ。
 一瞬、ひげ面の息が止まったのを律子は見逃さなかった。しばらく中を見つめてから箱を閉じ、ひげ面は律子に視線を移した。
 「ありがとう」
 つぶやくように言ったひげ面の目が煙っていた。
 「おいおい、中身はなんなんだよう。俺には内緒かい?」
 中身は南部鉄の風鈴だった。杉田に見せたところで、それはただの安物の風鈴でしかなかったが、ひげ面には「物にこめられた気持ち」がわかったようだった。

 謎がひとつ解けた。律子はそう思う。
 初めてこの屋台を覗いた時から、律子はひげ面の無愛想な店主に興味を持っていた。年齢はわからない。50代か、もしかしたら還暦を過ぎているかもしれない。
 笑顔を見せたことがないが、表情はいつも穏やかである。穏やかなのは、しかし表情だけで、目の奥には得体の知れぬ鋭さがあった。酔客が無理難題を押し付けたり、客同士で喧嘩をはじめることもあったが、ひげ面のひと睨みでことは鎮まった。

 律子は父親を知らない。だから父親というものを小説やドラマで理解した。父親に会いたい、父親が欲しい、と意識したことはなかったが、父でありうる年齢の男には独特の興味があった。
 一種のファザー・コンプレックスといえた。


 屋台の店主を、客たちはさまざまな呼び方をした。マスター、大将、オヤジ、おやっさん、等々。ひげオヤジ、というのもあって、これはもともと店名のないこの店の屋号のようになっていた。
 律子は「おとうさん」と呼んだ。自分の空想した父親像をひげ面に投影したためである。ためらいながら初めて「おとうさん」と呼んでみた時、無表情なひげ面の目の奥にかすかな微笑があったと思う。

 律子は、ひまさえあれば「おとうさん」の屋台に通った。
 酒が好きなわけではない。付き合いはするが、あまり飲まない。屋台や居酒屋の雰囲気も好きとはいえない。
 にもかかわらずこの屋台に通ったのは、いろいろ知りたいことがあったからだ。
 ふつう誰もが知っている自分の父親に関すること、そういうことをすべて知りたいと思った。
 だが、いくらさりげなく水を向けても、「おとうさん」は自分のことを話そうとはしなかった。ずいぶん長い付き合いになるが、律子は「おとうさん」の名前すら知ることができないでいた。

 そのかわり、というわけではないが、律子は一度だけ「おとうさん」の住まいに行ったことがある。
 冬の寒い日のことだった。
 仕事帰りに屋台に立ち寄った律子が熱いおでんをつついていると、警察官がやってきた。
 東京都内では、路上での露天営業は基本的には条例で禁止されている。禁止はされているが、実際には、これを業とするものの生活権の問題もあるので、特別なことがない限りあまり厳しい規制をしていないのが実情だ。
 この日は、どうやら「特別のこと」があったらしく、この付近のすべての屋台に一斉に規制が入ったようだった。
 そういうことを何も知らなかった律子は、許可証や衛生検査証などの提示を求める警察官に食ってかかった。
 くつろぎのひと時を中断された腹立ちもあったが、ここは「おとうさん」を守らねばならない、と思ったからでもある。
 しかし「おとうさん」は、無言で律子を制し、警察官に深々と頭を下げて、屋台を片付け始めた。
 警察官はすぐに立ち去ったが、「おとうさん」はそのまま片付けを進めた。火を落とし、おでん種はタッパーに、汁のほうはポリタンクに移す。皿やコップを棚に戻し、手早く荷造りを終えると、箒と塵取りを持ち出して付近をきれいに清掃した。

 始末が終わると、茫然と立ちすくむ律子を残し「おとうさん」は力をこめて屋台を引いて帰り始めた。ガスボンベや発電機に加え、20リッターのポリタンクが数本積まれているので、屋台はかなり重そうだった。
 駆け寄って、律子は屋台を後ろから押した。
 ふぅっと涙が湧いた。
 何も悪いことをしていないのに、社会の規範から外れているという理由だけで追われる。追われれば、黙って去るしかない。それは何か「おとうさん」の人生を象徴しているように思えた。
 律子は自分のことのように悔しさを感じた。
 途中何度も「帰れ」といわれた。「迷惑だから」とも言われたが、律子は「おとうさん」の言うことを無視し、神田川沿いの道を約2キロ、屋台を押しつづけた。
 都電の面影橋停留所付近で裏道に入った。
 通り沿いは近代的な高層マンションが連なっていたが、裏町にはちまちまとした木造の家やアパートがあった。

 「お茶、飲んでいくか?」
 小さな公園の脇に屋台をおいて、「おとうさん」が言った。その言葉は律子には「さあ、お父さんの膝においで」といっているように響いた。
 「おとうさん」の住まいは、4畳半一間のアパートだった。
 家具と呼べるようなものはなにもなかった。「おとうさん」は燃焼式のガスストーブに点火し、押入れから足折式の小さなちゃぶ台を引っ張り出した。部屋の隅の作り付けの流し台から鉄瓶を持ってきてストーブに乗せた。かなり使い込まれた鉄瓶だが、この部屋には不釣合いな気がした。
 「こんな生活、お嬢ちゃんには想像もできないだろ?」
 窓を背にして座り込んだ「おとうさん」が言った。その通りだった。律子は自分は「お嬢ちゃん」ではなく、むしろ貧乏人の一人だと思っていた。子供の頃、自分の家と比べて友達の家は御殿だと思ったことがある。その生活は、母が死に物狂いになって支えていたものである。
 そういう律子が見てさえ、この部屋には貧しさが感じられた。
 「おとうさん」はここで寝起きし、生活している。家族もいない、何もないこの部屋で……。これは「生活」なのだろうか。

 チリリ、チリチリ……
 澄んだ、美しい音がひびいた。見回すと、ストーブの上の鉄瓶が蓋を震わせていた。
 「いい音!」
 「小鳥のさえずりに似てるだろ? 心を洗ってくれるような気がする」
 「おとうさん」の、ひげ面に似合わない解説だった。
 「南部鉄瓶といってね、昔から最高の鉄瓶といわれている」
 熱いお茶を一杯飲んだところで、律子は追い出された。
 「おとうさん」の住まいに入り込んだことで、少しは心を開いてくれるかと思ったが、鉄瓶の話以外はほとんど何も話してくれなかった。
 「また、遊びに来ていいですか?」
 帰りがけに聞くと、「おとうさん」は冷たく厳しい声で言った。
 「だめだ」

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