思い川怨み歌 |
「芙美ちゃん、飲みにいこ!」 ロッカールームで着替えていると、同僚の笑子がささやいた。明日は深夜勤だから、今夜は遅くなっても大丈夫。でも、お酒はあまり好きじゃない。それに笑子のことだから、その後、踊りに行こうと言い出すに決まっている。 それもあまり好きではない。 芙美は寮へ帰って本を読みたかった。読みかけの本もあるし、なによりも一人っきりのゆっくりした時間が欲しかった。 「今日はだぁめ」と、にっこり笑って断ろうと思っていたが、笑子は自分の意思だけ伝えると、芙美の返事も聞かずに走り去った。いつもこうして、引きずりまわされる。 「飲みにだけ行って帰ろう」 多分ダメだろう、と思いながら、芙美はそう自分に言い聞かせた。 行き付けのスナックは、町の歓楽街の中心をなすビルの地下にある。 もともと、こわい筋の人が経営している店だと聞かされていたが、上品で、それらしき人の出入りは感じられなかった。 ママさんは、店へ出るのはここが初めて、という素人だと聞いたが、それがかえって感じよかった。 「芙美ちゃん、いらっしゃい、紹介するわ」 ママさんが呼んだ。この「紹介」で今日のお勘定は、紹介された紳士が持つようになる。もちろん本職のホステスさんがいるから、芙美達はなにもしなくていい。紳士たちは、できるだけたくさんの女の子に囲まれるのが好きなのだ。 芙美は、ほんとうは、これがいやだった。この店での飲み食いのお金ぐらい持っているし、知らない男性と屈託もなく話をするのは苦手だった。 笑子だってお給料は芙美と同じだから、つけまわしが目的でないことはわかる。 エミちゃんは、賑やかなのが好きなんだ。 ママさんに呼ばれた席へ行くと、今日はちょっと趣が違っていた。 一緒にきた笑子は別の席に追いやられ、ママさんは微笑みこそ浮かべていたが、真顔だった。 「こちら堀本さん。本屋さんなの。芙美ちゃん文学全集欲しいって言ってたでしょ」 そう言えば、ママさんも本が好きで、お客さんがいないと、カウンターの片隅で文庫本を読んでいる。 こうして紹介された堀本さんに、芙美は夢中になった。 恋をしたという意味ではない。初めて共通の話題を持つ男性と知り合ったのだ。笑子と一緒に遊んでいると、男には事欠かなかった。が、芙美が求める男性はその中にはいなかった。 楽しいひと時だった。まさにひと時で、一瞬に終わってしまったように感じた。 「踊りに行こう」としきりに誘う笑子に「今日は帰る」と、素直に言えた自分が不思議だった。 「彼の電話番号、聞いてきたわよ」 タクシーに乗りこむ芙美の背中から、笑子が声をかけ、メモを握らせた。 深夜勤明けで、泥のように眠り込んでいた芙美を、電話がけたたましい叫び声をあげて起こした。堀本の顔が浮かんだが、芙美は打ち消した。自分の番号を教えた覚えはないし、あの堀本が、ひとに聞いていきなり電話してくるようには思えなかった。 ママさんからだった。病院の近くの喫茶店からで、堀本が一緒にいるという。 いやだ、こんな顔で行かれやしない。 すぐ行く、と答えたのに、1時間近く経ってから、芙美は喫茶店に駆け込んだ。堀本が煙草をくゆらせていた。ママさんはいなかった。用があるので先に帰ったという。 また楽しいひと時だったが、短すぎる、ひと時だった。 「文学全集、買わなかったの?」 ママさんからナースセンターに電話がはいった。そうか、一昨日はその為に堀本は来たのか。本の話に夢中になって、文学全集の契約のことは思い出しもしなかった。堀本も、その件には触れなかった。 ママさんは不機嫌そうな声だった。 ハッとした。ママさんと堀本さんはどういう関係なんだろう。 なぜか不安で、注射器を持つ手が震えた。 ドクターの指示で、早退した。熱っぽく、身体の芯が重かった。前の時からまだ半月も経っていないのに……。 いちばん落ち着けるはずの、寮の部屋が腹立たしいほど寂しかった。 「眠らなくちゃ」 自分にそう言い聞かせて目を瞑った。ふわっと堀本の笑顔が浮かび、眠るどころではなかった。いてもたってもいられなかった。 笑子が手に入れてくれた電話番号…… ためらいながらダイアルしてみた。 堀本が出た。明るく、包みこむような柔らかい声だった。 ふうッと涙が込み上げた。今までの不快感がウソのように消えた。なにを話したかは覚えていない。 ひとつだけ、今日! 夕方! 会える! 堀本が車で迎えに来た。助手席に座ると、堀本の匂いに包まれた感じがして幸せだった。 街並みからそう遠くないところを、川が流れている。名前は知らない。 川辺に小さな料理屋があった。まだ夏の匂いを残した風が、川面を渡って涼やかに吹きこんでくる。 「おいしい?」堀本の問いに、芙美はうなずく。「よかった」 芙美は思わず笑う。この「よかった」が、堀本の口癖だとわかった。 「よかった」と言って微笑む堀本がたまらなく好きだった。 「芙美。堀本さんとデートしたんだって?」 翌日、笑子がささやいた。コトッ、と音を立てて芙美の心の中でなにかが転がった。なぜ? なぜ、笑子が知ってるの? 黒い思いが広がった。 昨夜、ゆっくり食事をし、寮へ送ってもらって別れた。なにか物足りなかった。もう少し一緒にいたかったのに……。 その後、堀本はどこへ行ったのだろう? 笑子と一緒だった! そう思った。 「そんなことあるわけが無いだろう?」 文学全集購入の手続きで堀本に会った。笑子の話をすると、堀本は言下に否定した。にこやかな目に真実が見えた。疑いはすぐに消えた。この人のそばにいれば、安心だ。芙美の心は豊かに広がった。 芙美の勤務にあわせて、何回かデートが重ねられた。 堀本は何時も紳士で、寮の前まで送ってくれて、手を握って別れた。 が、今日は違った。 川べりで抱きすくめられ、芙美は堀本の体温を唇に感じた。こみ上げるものがあった。煙草の匂いがしたが、気にはならなかった。 結婚という言葉が芙美の耳に繰り返しこだました。堀本がそう言ったのだ。 堀本には東京に妻がいて、離婚協議中だった。話がまとまり、次の日曜、手続きのため東京へ行くと言う。 芙美は、不思議な気がした。堀本が未婚かどうかなんて、考えても見なかった。そんなことに興味はなかったのに、離婚が成立した、と聞いたとたんに不安になった。 幸せが消えて行く……。 堀本は帰ってきた。 「ほら」と言って、離婚届のコピーを示した。志保、という文字が芙美の脳裏に焼きついた。堀本さんを不幸にした憎い女。そんな奇妙な思いを抱いた。 この日初めて、堀本は芙美の中に入った。芙美は泣き、ずっと震えていた。 芙美は幸せだった。が、ずっと不安が続いていた。 間違いなく、堀本は自分のものになった。前より以上にやさしくしてくれるし、会話も楽しかった。 問題は、その会話の中身だ。ママさんや笑子のことに話が及ぶと、つまらなそうな顔をして話をそらしてしまう。会社の事務員さんのことだって、あまり話したがらない。 志保さんのことになると、黙り込んでしまう。 笑子を介して、堀本は婦長に呼ばれた。もちろん芙美のことである。 ドクターに指摘されるまでもなく、婦長は、芙美の行動が不審であった。まじめで几帳面、明るくはきはきしていたのに、最近はほとんどものを言わなくなり、ボンヤリとして、物思いにふけることがしばしばであった。 病院では、ちょっとした不注意が重大な事態に発展することがある。小さな問題も見過ごしには出来ない。 芙美が結婚するらしいことは、すでに耳にしていた。だから、妊娠しているのではないかと、婦長は思っていた。が、堀本の話を聞いて、仮に妊娠していたとしても、情緒の安定を欠く時期ではないことを知った。 堀本は不思議に思った。芙美は可愛い女だ。多少しつこくは感じるが、世話焼きで、甘えんぼだった。何時も腕につかまったり、背広のすそを握り締めていたりして、片時も離れようとはしなかった。 婦長の言うことが事実なら、それは自分の知る芙美とはあまりにもかけ離れた姿だった。 芙美は退職し、堀本の部屋に同居を始めた。 芙美は幸せだった。 が、堀本は、とんでもない不幸が舞い込んだことをすぐに悟った。 片時も離れないのはいいとしても、周囲の女性達に異常な敵意を示す。隣の主婦と立ち話をしただけなのに、「やめて」と泣いて頼む。笑子をはじめ仲のよかった友達を食事に呼んで、気晴らしをしてやろうと思っても、「絶対にいや」と言う。 ある日のことだった。朝、仕事へ出かけようとすると、芙美は一緒に行くと言い出した。何とか説得して出かけたが、帰ってみると、芙美は暗い部屋で塑像のように身じろぎもしないでいた。 堀本の顔を見たとたん、にっこりと微笑み、何事も無かったように動き出したが、部屋の中は、朝、堀本が出かけた時のままだった。食事をした様子すらなかった。 芙美は病院に移された。 堀本は、この時初めて、芙美の両親にあった。 「ご迷惑をかけまして」という言葉とは裏腹に、芙美の両親の目は、明らかに堀本を非難していた。 なにも非難される道理はない。が、病んだ一人娘を目の前にして、持って行き場のない悲しみと怒りを、堀本にぶつけるしかなかったのだろう。 病室の小さな窓から、小さな空が見えた。 小さな空は、青い、青い、秋の空であった。 |