虚 空 楼

お香りさん 序章


 助けてください、天神様。私に知恵を授けてください……
 香子は、天神社の石段下で手を合わせ、苦しい胸のうちを必死になって訴えた。早朝、まだ誰も起きてこない時刻に、日課のように香子はここに来て祈った。子供のこと、夫のこと、義母のこと……。そしていまから始まる、辛い一日のことを……。
 祈りは、むしろ呪詛であった。

 いまどき馬鹿げた話のようだが、香子の結婚は親同士が決めたものだった。
 いま思えば、そんな話に唯々諾々と従った夫、良一の優柔不断さはそれで明らかだったのだが、この町有数の老舗の長男との結婚は人もうらやむ玉の輿で、性格がどうのと言った事にまで考えは及ばなかった。

 結婚してすぐ、夫に女がいる事がわかった。
 女が、臨月の腹を抱えて怒鳴り込んできたからだ。大騒ぎになったが、義母が奔走して事を鎮めた。
 生まれたばかりの赤ん坊を引き取り、女には金を与えて町を去らせた。良一に似た、愛らしい女の子であった。
 これがその後のすべての揉め事の発端となったのだが、治まりがつくまで良一は自らの意思をはっきりさせなかったし、なにも行動しなかった。

 香子は当然、実家に戻ったが、世間体を気にし、事を丸く納めようとする両家の両親、とりわけ義母の死に物狂いの説得に、香子は負けた。

 表面的には事は丸く収まったのだが、香子の心が死んだ事に誰も気づかなかった。いや、良一はすぐに気づいたが、それこそまず第一に解決しなければならない問題として考える思いやりはなかった。
 愛のない、なんの意味もない、心のつながりの欠けた家庭が一つ出来あがり、香子は憎しみすら感じる赤ん坊を育てる事になった。

 事が静まると、良一は当然のごとく香子を抱いた。始め香子は抗ったが、この家を出る決断をしない限り、避けられない事と思いを定め、行為の間死体になっていることに決めた。
 女が拒否し心を閉ざした行為には、なんの喜びもないことは当然であった。
 良一は、遠い町に去ったはずの女とすぐに縒りを戻していた。

 香子に子が出来ない事を、義母が責めるようになった。子が出来ないのではなく、出来ても黙って始末していたのである。香子のその胸のうちを知るものは誰もいなかった。
 義母は香子に負い目を感じていた。が、家と店を守る事を女の本分と考える義母には、香子を人として女として尊ぶ思いは生まれなかった。

 人の思いに関わりなく、時は過ぎて行った。香子の両親も、義父もこの世を去り、香子は独りぼっちになっていた。いや、ひとりぼっちになったのは、実家からここへ戻った時からだった。
 そしていま、香子は、憎んで余りある〈娘〉に、不思議な愛情を感じていた。

 中学を間もなく卒業しようという〈娘〉は、いつも香子の味方だった。娘は何も知らされておらず、ただ素直な目で見て〈母〉の置かれた立場に憤慨していた。父と祖母を嫌う娘であった。

 天神様の境内に『春風楼』と呼ばれるお篭堂がある。お篭堂といっても、柱の上に二層の屋根が乗っかっただけで、壁はなく、まるで建築途中の建物のようにみえる。
 実際、もともとは五重塔を建てようとしていたとのことであるから、建築途中といっても間違いではなかろう。
 香子は、〈娘〉をたびたびここに連れてきた。高台にあって、眼下に広がる町、故郷の山、そして海が見える。香子が〈娘〉をここに連れてきたのは、始めは高台から突き落とすためであった。たびたび高楼に上り逡巡し、果たせぬままに今日にいたった。
 そしていま、この場所は〈母〉と〈娘〉が二人きりで心を通わせる楽しい場所に変わっていた。

 〈娘〉に、包み隠さず、すべてを話してしまおう、と香子は決めていた。
 実の母ではないこと、実の母にはやがて会えるであろうことを……

 きのう、義母から告げられた話…… 例の女と良一との間に、さらに二人の子供が出来ている事、そのうち一人は男子なので、店の跡取にしたいと考えていること、事ここにいたっては女を「めかけ」として認めること、等であった。

 そして義母が言った最後の一言が、香子のすべてを破壊した。
 「あなたは正妻として、今まで不自由なく暮らしてきたと思うの。日陰の女のことも考えてあげて」

 今朝、天神様にお祈りした時、香子はこの家を捨て去る時が来たことを教えられた。
 自分が去れば、かわってあの女が子を連れて入ってくるだろう。優柔不断な良一と気が合って、とにもかくにも十数年続いているのだし、〈娘〉だって、もともとあの女の子なのだから、すべてが丸く収まる。……そう思った。

 香子の心は決まった。自分ひとり損をするような感じだが、遠い昔に捨ててしまった自分を取り戻すと考えれば、今の日常よりはるかにマシと考えられた。
 黙って出て行こうと思ったが、〈娘〉との別れが辛かった。

 「いやあ!」
 〈娘〉は泣き叫んだ。〈母〉も泣いた。
 涙の向う側に〈娘〉の凝視があった。凝視は絶望の色をたたえていた。
 〈母〉を残し、〈娘〉は天神様の階段を駆け下りて消えた。
 ちいさな胸に、あまりにも大きい衝撃であったのだろう。
 話すんじゃなかった。ずっと私が耐えればよかった。自分がなにも言い残さなくても、自然にわかることだったのに。香子は後悔したが、遅かった。
 頭の良い娘だから、誰が日陰の女だったか、なぜ日陰の女が家を出て行くのか、きっと分かってくれると思ったのに。

 荷造りをしているところにパトカーが来た。
 中学校の校舎屋上から女生徒が飛び降りたという。

 葬儀を終えてすぐ、誰にも挨拶をせず、香子は家を出た。
 涙はすでに枯れ果てていた。

    何処へ行く。東の方へ行こう。
    何処まで行く。          (山頭火)
 
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