お香りさん |
「香子さん、私のお母さんになってくれないかしら」 頬を赤らめ、照れた笑顔で茂美が言った。あまりにも唐突だったので、香子はその意味を理解できなかった。 「ごめんなさい、突然、変なこと言って。あのね・・・・・・」 真顔になった茂美は、唇をかみしめ、両手を握りしめてしばらく考えた後、意を決したように、言葉を選びながら説明を始めた。 茂美の母親は、彼女を生んでまもなくこの世を去った。 だから茂美は、母に抱かれたこともなく、母の顔も知らなかった。母が遺したアルバムの結婚前の写真と、父との結婚式の写真のほか、新婚旅行で撮ったという数枚の写真で、母の人となりを想像するだけだった。 小さな製菓会社を経営する父は、周りの度重なるすすめを断って、男手一つで茂美を育て上げた。大変な苦労であったろう。 茂美は、そんな父が好きだった。誇りにも思った。自分への深い愛情を感じたし、同時に亡き母に誓った愛が本物であったのだと思う。 中学に入ってから、父の身の回りのこと、家庭内の雑事を、茂美は自分の仕事としてすすんでやるようになった。 高校を卒業すると「大学へ行け」という父の命令を拒否して、家業と家庭内のすべてを切り盛りする、事実上の「主婦」の座に自分をおいた。 そして10年を超える日々が過ぎ去った。 茂美に恋人ができた。 それまでも好きな男性がいなかったわけではないが、父のこと、家のことを考えると、結婚に踏み切るまでには至らなかった。 今度は違った。彼の愛が茂美の全身を包み、茂美の心は彼への愛でいっぱいになった。 が、まもなく還暦を迎えようとする父のことを思うと、簡単には彼の胸へ飛び込んでゆくことはできないと思った。 そんな茂美の悩みの中に、解決策として、たびたび浮かんでは消える思案があった。 父が、結婚してくれさえすれば。・・・・・・安心して後を任せられる女性と。 そういう人、居ないかしら…… ……居る! 香子。 数年前、京都市内で手広く製菓店を営む父の友人から紹介され、住み込みで働くことになった中年の女性。寡黙で笑顔の少ない女だが、心が強く、働き者だった。人が厭う仕事をすすんでこなすため、他の従業員を始め、取引先や町内の人々など、誰にも好かれ信頼されている。 とりわけ、社長である父の信頼はあつく、なにかにつけ「香子さんと相談をして…」決めている。 茂美は、自分のことがなくても、何となく香子に母親を感じていた。 香子の胸を嵐が襲った。風がとどろき、波が逆巻いていた。 〈娘〉。小さな胸に、あまりにも大きな衝撃を受け、自ら命を絶ってしまった〈わたしの娘〉。片時も忘れたことのない〈娘〉への思いが、切実に自分を求める茂美と二重写しになった。 〈娘〉に幸せをあげなくちゃ・・・・・・ それが〈母〉の役目。 でも、私は幸せになってはいけない女なの・・・・・・。 ごめんね。あなたが考えているような形で、あなたのお母さんになることはできないわ。 でも、あなたが心配していることは助けてあげられる。 あなたがいなくなっても、お父さんが不自由を感じることはありませんよ。 なにも心配しないで、あなたは自分と彼の幸せのことだけ考えてね。 そして。 結納の朝、香子は胸にざわめきを感じていた。いいしれぬ不安が胸を覆っていた。 香子は、山口県のある大きな天神社の門前で産まれ育った。 子供の頃からの習慣で、毎日天神様に手を合わせ、ことあるごとに御神籤を引いて御神宣をいただいた。 ここ、伏見に来てからは、町内にある御香宮神社に手を合わせていた。 『お香りさん』と呼び親しまれ、『名水100選』に数えられるおいしい水が湧出することで有名な神社である。 御神籤を引く指先が震えた。 御神籤は、七夕の笹に下げるような短冊形で、セロファンの袋に入っている。任意の一枚を引くのだが、どれにするか迷った。こんなに迷ったことはなかった。 やっと心を鎮め、御神籤を手にして本殿脇にある御神水の鉢に向かう。 『お香りさん』の御神籤は、水占いだ。何も書いていない御神籤を御神水に浸すと、薄紅色の神託が浮かび上がってくる仕組みになっている。 「ああっ!」 水に浮かんだ薄紅色の文字を見て、香子は気を失いそうになった。 『凶事あり。心を潔め、誠を尽くすべし』 今日は、今日だけは、平穏でなければならないのに…… 履き物を脱ぎ、神殿の石段にひざまずいて、香子は必死に神に祈った。 冷たい石段が膝を凍らすのも、異様な雰囲気で祈る姿を不思議そうに眺める周囲の目も、全く気にならなかった。 すべての罰は我が身に、すべての幸せを〈娘〉に・・・・・・ 石段脇の「名水」はこんこんと湧き出ていた。「名水」は神の涙だった。 「凶事」は、結納の式の最中にやってきた。 母として式に列してほしいと、茂美が願い、父もそれを許したが、香子は固辞して次の間に控えた。 もし「凶事」があるとすれば、それはかつて〈娘〉を死に至らしめた自分に原因があると考えたからである。互いに愛し慈しみあう父娘に凶事などあろうはずはなかった。 電話のベルが鳴った。 半ば本能的に、香子は「凶事」の来襲を悟った。 主を出せと言う執拗な要求を香子ははねつけた。身が引き裂かれようとも、これから始まる〈娘〉の幸せに水を差してはならない。 「あんた、奥さんかい? 女中を置くほどの身分でもないだろう。じゃあ間違いなく伝えてくれ。・・・・・・玉木屋が逃げた。期限は過ぎてる。今日中に、貸し金200万返せってね」 荒い言葉が、事態が尋常のものでないことを感じさせた。 結納の儀は、型どおり滞りなく終わった。 市議会議員だという仲人は、この婚礼を取り持つことの慶びを述べ、忙しいからと、そそくさと帰っていった。 茂美の頬が紅潮していた。左手の指に指輪がきらめいて、幸せが動き出したことを告げていた。 「200万だろう? 心配いらない。準備してある」 電話の件を告げると、主はこともなげにそういった。 取引先であり、古い友人でもある経木屋の玉木屋が傾いていることは、借金の保証人の依頼に来る前から知っていた、と言う。200万くらいなら直接援助してもよかったが、本人の希望で保証人という形にしたのだそうだ。 「もともと、やったつもりだから・・・・・・」 主はそういって笑った。 和菓子の製造販売業「みづき家」は、一応老舗であった。一応、というのは家業として歴史が古いと言うだけで、先代までは家人だけで細々と製造販売していたからだ。 今の代になってから、工場を持ち、十数人だが人を使うようになった。 社長、水木誠は、同業者の組合はもとより、商工会議所などの経済団体にも積極的に顔を出し、町内会などのつきあいも厭わず、商売の規模の割には、有力者との評価を得ていた。 水木は、すぐさま金を準備して金融会社へ行ったが、夕方、浮かぬ顔で帰ってきた。 心配した茂美がしきりに訪ねたが、水木はなにも言わなかった。 凶事はまだ終わっていない、香子はそう感じたが、水木の一番身近にいるとはいえ、ただの従業員としては、あまり立ち入ることはできなかった。 一ヶ月経った。 茂美の婚礼の支度は、着々と進んでいたが、水木はずっと不機嫌だった。心に屈託があり、何事か考えあぐねている様子だった。 どこへ行くとも言わずに、ふいっとでかけ、夜遅く帰ってくることがたびたびあった。 幸せな慌ただしさに包まれるはずの家に、活気が感じられない一月だった。 香子は、毎日、『お香りさん』に祈った。 が、御神籤はずっと〈凶〉であった。 またひと月が経過した。 年が変わり、茂美の結婚式まで2ヶ月足らずとなったある日、水木は珍しく酔って帰ってきた。泥酔に近い状態だった。 酒の町・伏見に生まれ育った水木だが、酒はあまり好まなかった。 飲めないというわけではなく、客先の接待や、寄り合いなどではそれなりのつきあいはしてきたが、これほどに酔ったことはなかった。 「おまえはなにも心配することはない。安心して嫁に行け」 しきりに事情を聞きただそうとする茂美にそういって、水木は着替えもせずに眠ってしまった。 容易でない凶事がこの家を襲っている。 床についたが、香子は眠れなかった。いろいろな思いが頭の中を駆けめぐっていた。何事かはわからないが、自分の手に余ることであろうことは想像できた。神に祈ることしかできない自分が歯がゆかった。 夜明け近くになって、部屋の外に人の気配を感じた。 忍んでいる、と言うのではなく、ためらっている様子であった。ため息が聞こえた。 水木だ。水木が何かを打ち明けようとしている・・・・・・ 香子はそう感じた。 苦しみ、喘いでいる水木が哀れだった。その苦しみから一時でも逃れることができるなら、香子はどんな無理でも聞こうと思っていた。 しかし、気配はやがて消えた。香子は物足りなく思ったが、仕方のないことであった。 翌日、香子は水木の私室に呼ばれた。 昨夜の泥酔が嘘だったと思えるほど、水木はさっぱりした顔つきで、笑顔すら浮かべていた。 いろいろ心配かけてすまなかった、そう前置きして、水木は語りだした。 玉木屋の借金は、総額3,000万円に達していた。 水木は200万円だけの保証をしたつもりでいたが、実は3,000万円の根保証をしたことになっていたというのである。 どうにも納得できないので、何人かの弁護士に相談したが、法的に何の問題もなく根保証契約は成立しているということであった。 玉木屋が夜逃げしてのち、この2ヶ月の間に各200万円、3回の返済期日が到来し、ここまでの分は何とか決済したのだが、問題はこのあとにあった。 玉木屋が倒産を見越して夜逃げ資金を作ったのか、残債の決済期日が十日ごとになり、金額も500万円に跳ね上がっているというのである。 みづき家の経営状態は健全であった。だからこそ、3,000万円の根保証が成り立ったのだが、だからといって、家業に毛の生えた程度の規模のみづき家がそれだけの現金を動かせるわけではない。 水木は、とりあえずこの高利の債務を始末しようと考え、銀行に借り入れを申し込んだ。しかし、みづき家自身、事業の拡大に当たって借り入れを起こしていたし、運転資金の借り入れもあって、融資枠はほとんど残っていない。 相手の金融会社は、解決策として、残債の元利を合計して、改めて「みづき家」の借り入れに付け替えることを提案しているが、そのためには別の保証人が必要というのだ。 水木は、心当たりの友人知人に保証を依頼したが、誰もこれに応じてくれなかった。それどころか、噂を聞いた一部の取引先は、みづき家危うしとみて、売掛債権の早期決済を迫り、かつ以後の納入を現金決済とするよう求めてきていた。 商売を継続していれば、決して清算できない金額ではない。 だから、何とか店を維持しようと努力したが、打つ手打つ手が悪い方向へ向かい、身動きできない状態になっているという。 「香子さんにお願いしたい」 自分はこれから事態の解決に専念するが、茂美の結婚にだけは影を落としたくない。しっかりした娘だから世話はかけないと思うが、嫁きおくれても初婚なので、何かと面倒をみてやってほしい・・・・・・ 水木の面に、戦いに赴く男の気迫があった。 香子は静かなほほえみでそれにこたえた。 『艱難に耐えて吉。誠は揺るがず』 神宣を伝える水はまだ冷たいが、梅の蕾の膨らみが春は近いと告げていた。 仲人の市議会議員が、すさまじい剣幕で怒鳴り込んできた。 茂美が、先方に「破談」を申し入れたというのだ。 水木も香子も知らないことだった。 覚悟していたことだが、香子は、自分の役目がただの花嫁の付人でないことを悟った。 仲人の相手は、香子が引き受け、水木に、茂美に会いたいという要求をはねつけた。仲人は、水木を、茂美を、そして香子をなじったが、香子は一歩も引かなかった。 若い娘にありがちな、ささやかな気の迷いであることを力説して、この婚約にはいささかの変更もないこと、仲人の顔をつぶすような結果には決してしないことを誓約した。 仲人はまた、すでにみづき家の信用不安の噂を聞いていて、その真偽を探ろうとしたが、香子は巧みに論点をそらせてしまった。 ほほえみを浮かべ、ゆったりと動じる気配も見せず、仲人の労苦を謝す香子の堅陣を、ついに突き崩せず、仲人は帰っていった。 「水木の家と会社のことは、私が一番よく知っているの! 父を守り、みづき家を守るのは、私の責任なの。みづき家がつぶれるかもしれない、父が破産するかもしれない、そんなとき、結婚式がどうだこうだって、ふわふわしていられる?」 茂美は香子の説得を拒否し、自分を捨てて渦中に飛び込む意志を披瀝した。 香子は、ふっと御香宮神社の神門を思い浮かべた。 この門は、元は豊臣秀吉が築いた伏見桃山城の大手門であったと聞く。この門の軒下の蟇股には、中国の二十四孝を題材にした彫刻が施されている。 楊香・・・・・・ 猛虎に襲われた父を、身の危険を顧みず助けた娘。その様子が浮き彫りにして描かれている。 香子には、茂美と楊香が重なって見えた。 自分を捨てる、言葉で言うのは簡単だが、深い思い、愛情がなければできることではない。 茂美の決意を聞きながら、香子は自分の〈娘〉のことを思い出していた。 自分が産んだ子ではなかったが、あの〈娘〉とは深い絆があった。その絆を断ちきったのは自分だった。その結果、〈娘〉は死を選んだ。 香子が一生背負わねばならない罪業だった。 水木父娘の間には、香子が立ち入ることのできない聖域がある。 しかしその聖域に、すでに深く関わっていることを、香子は感じていた。 水木に頼まれるまでもなく、自らの罪業ゆえに、茂美の幸福を守りきるのが自分の責務だと感じていた。 水木には覚えのない「借金」の返済期日が到来した。 この時点では、「みづき家」には、決済しうる現金性資産が存在していた。 しかし、玉木屋の借金の連帯保証は、水木個人がしたもので、会社には関係がなかった。いくら社長であり、代表者だからと言って、会社の金を私的に流用することはできなかった。 まして、会社の信用不安が噂されている時期である。一時的にでも流用し、仕入れ代金の決済や従業員の給与支払いが滞ったりしたらひとたまりもない。 健全経営と言っても所詮バランスの上に成り立っているだけである。そのバランスが崩れれば、大企業といえども簡単に崩れ去ってしまう。 水木はこの問題解決のために、寝食を忘れて奔走したが、結局、期日決済はできなかった。 金融会社の取り立てが始まった。 期日未到来の分も「期限の利益」を失い、一括返済を迫られた。 金繰りに駆け回る水木に代わって、取り立ての応対と、店の営業は、茂美があたった。 取り立ては日増しに厳しくなり、頻繁にかかる電話に加え、身なりのよくない男たちが押し掛けてくるようになった。 当然、従業員たちは動揺し、商品の製造販売に影響が出始めた。 この間、香子は、茂美の〈彼〉に会い、両親にも繰り返し面談していた。 両親は、茂美の「破談」の申し入れをすでに受け入れていたので、当初、香子には会おうとしなかった。が、〈彼〉本人が破談を承知しなかったこともあり、玄関先を動こうとしない香子をようやく受け入れてくれたものである。 「つぶれそうな家、会社の娘なんかもらえるか!」 京都・四条通で商店を営む父親は、のっけからそういって、香子の話を聞こうとしなかったが、みづき家にやってくる借金取り顔負けの訪問攻勢に、次第に態度を和らげていた。 「いまの問題が片づいたら、もう一度考えよう」 ようやくその一言を引き出して、香子は水木と茂美に報告した。 やつれ果てた水木は、涙を流して喜んだが、茂美は「もう終わったことだから・・・・・・」と取り合おうとしなかった。 みづき家は、結局「つぶれ」た。 仕入れがままならなくなったため、営業を続けられなかった。もともと内容が悪かったわけではないので、破産という事態は免れ、同業の大手会社に買い取られることになった。 土地建物をはじめとする資産を再評価し、買掛金、借入金等の負債を引いて株式の評価額が決まる。この株式価額が買い取り価格となるのだが、こういう場合、株式はほとんど紙切れでしかない。 簡単に言えば、借金が残らない、というだけである。 水木個人は、破産した。 会社と言ってももともと家業だから、自宅を含む土地建物は会社名義になっており、個人資産は残らなかった。残ったのは、連帯保証した借金だけで、これは免責が認められた。 茂美は、当分の間、買い取られた会社に勤務することになった。 香子も、会社に残ることは可能であったが、退職した。再起をはかる水木に支えが必要だと思ったからである。 水木と香子は、互いになにも言わなかったが、ごく自然に、当然のごとく、香子が退職金で借りた借家にともに暮らすことになった。 香子はスーパーのパートの口を見つけ、水木はある倉庫の警備員になった。 再起を図る水木に、何人かの友人がそれなりの仕事の口を斡旋したが、「親の代からの財産を守りきれなかったのは、力がなかったからだ。裸一貫、ゼロから再出発したい」と、水木は断った。 夜勤を含む警備員の仕事は厳しい。特に、大学では経営学を学び、親の代からの会社の社長を勤めた水木には、身体を酷使する仕事はかなり堪えたようだった。 初めての給料日、祝いだといって、水木はずっと口にしていなかった酒を買ってきた。 香子も相伴し、久しぶりに笑いも出る夕食となった。 そしてこの日、二人ははじめて床を共にした。 深夜、香子は背筋に凍るような冷たさを感じて目覚めた。 水木は安らかに、深い永い眠りの中にいた。 時が移った。 京都の町に初雪が舞った日、御香宮神社で、奇妙な結婚式が執り行われた。 新婦は、最近門前町に開店した和菓子舗「みづき」の中年の女主人。新郎の席には白布に包まれた箱が置かれていた。 参列者は二人、赤ん坊を抱いた幸せそうなカップルだけだった。 |