見てござる/明神篇


 「ねえ、明神さんよ。あんたの仕事が始まりそうだよ」
 「おう? なんかあったかね?」
 「久作が帰ってきたそうだ」
 「え、あの久作が、か? やれやれ…… また一騒動、持ち上がるのかな」
 「あははは。縁結びとか縁切りの神様ってのもつらそうだなあ」
 「代わってくれんかね、観音さんよう」
 「だめだ、だめだ。私んところはジジババ専門で、色っぽいのは苦手だよ」

 お社の扉が開いて、御幣を持った明神さんが揺るぎ出てきた。
 鳥居をくぐったところで両手を広げて大きく伸びをし、隣の観音堂にひらひらと手を振ってから、大儀そうに急な長い階段を下りていった。
 久作は、名主のせがれで、村いちばんの色男だった……
 ……いや、ただ単に好色なだけだったかもしれないが、手当たり次第に女に興味を持つのは、母親を早くに亡くしたからだろう。
 ……いやいや、本人にはその気がないのに、女どもが勝手に騒いでいただけかもしれない。なまっちろいが、いい男だからな。
 ま、どっちにしろ幸せなやつだが、わしんとこに騒ぎの尻を持ち込むのだけは勘弁してほしいものだ。
 明神さんは、ぶつぶつ言いながら村への街道をとぼとぼと歩いていった。

 とにかく久作の艶話はすさまじかった。
 どこそこの娘と畑で抱き合っていたとか、だれとかが孕んだとか、まあ村の年頃の娘たちは、ひと通りうわさの俎上に上った。
 笑えたのは、まもなく四十に手の届こうと言う母親みたいな後家への夜這い話で、半分だけ笑えたのは亭主持ちの女との密通話。笑い事じゃなかったのは明けて七つの幼女との道行き話だった。
 みんなうわさ話だから、事の真偽は不明だが、怒った幼女の父親は名主の家に乗り込んで、しんばり棒で久作をいやと言うほどぶちのめしたし、女房に間男された間抜けな亭主は、出刃包丁を振りかざして久作を追い回した。
 若い娘の親たちも久作の艶話には眉をひそめ、笑い話で済んだのは、三十後家への夜這い話くらいだったろう。
 たまりかねた名主の父親は、知り人のつてをたどって、ご城下のとある武家へ頼み込み、「文武の修行」と言う名目で久作を村から出した。
 久作を引き受けたのは、武家と言っても足軽の組頭という身分だから、「文武の修行」はあてにはならず、久作の背負ってくる米俵がモノを言ったというのが実情だった。

 その久作が、村を出てから三月とちょっとで帰ってきたと言うのだ。
 「文武の修行」が修ったというわけでもあるまい。
 明神さんは、名主の家に行く前に、村の入り口で日向ぼっこをしている地蔵さんを訪ねた。

 「久作が帰ってきたと言うのはほんとかえ?」
 「あたしが何でうそを言うものか。あたしの仕事は、結界の守護。すなわち、こうして村の入り口で張り番をして、村の平穏を乱すやつらを監視することさね。髷と身なりは以前とは変わっていたが、ああ、確かに久作だ」
 「またまた色模様を繰り広げて、わしらに苦労をかけるのかのう?」
 「わからんが、なにやらしょんぼりしている風だった。なまっちろい若い衆が落ち込んでいると、胸を揺さぶられる女も出てこようと言うもんだ」
 「まいったなあ……」
 「明神さんの力で久作と村の女全部との縁切りってのはできないのかい?」
 「わしは、縁結びのほうが得意でな、縁切りは苦手なんじゃよ」

 明神さんは、あごひげを撫でながら、悩ましげな顔つきで名主の家に行き、神棚に上がった。
 神棚の下では、久作と父親の名主が膝を突き合わせて話しこんでいた。
 明神さんは、お神酒をちびちびと飲りながら、ふたりの話に耳を傾けた。

 「ほんとのことを言いなさい。奥方様とは何もなかったんだな?」
 「あるわけないよ。あんなちんくしゃ。頼まれたっていやだ」
 「ちんくしゃか、うん、わしもそう思う。だけどあれだって女だ、つい魔がさして、ってこともあるだろう?」
 「ないない。あれだったらそこらのノラ猫のほうがマシだよ」
 「お前、ネコにまで手を出してるのか?」
 「まさか! たとえ話だよ」
 「そんじゃ、なんでお手討ちなんて話が出てくるんだ」
 「知らないよ。長いこと子ができなかったのに、あたしが行ってちょうど三月後に子ができたことがわかったので、なんか勘違いしたんだろ」

 「それにしても弱ったな。お前が帰ってきたとわかれば、あの弥左のやつも黙っていまい。また包丁を持ってすっ飛んでくるぞ」
 「助けてくれよ、父さん。あれだって、なにもなかったんだ」
 「弥左の女房とはなにもなかったというのか?」
 「明神さまに誓って言う。なにもなかった」
 久作がチラッと神棚を見上げたので、明神さんはあわててお神酒で赤らんだ顔を引っ込めた。別に顔を引っ込めなくても、人間には明神さんの姿は見えないのに。
 「なにもなかったのなら、弥左はなぜ、お前を追っかける?」
 「足袋を見つけたんだろ」
 「足袋?」
 「だからさ、まだ何にもしていないのに弥左のやつが帰ってきたので、あたしは裏から逃げ出したんだ。そのとき、足袋と褌を忘れてきた」
 「褌だと? 褌まではずしていて、何もしてないって言うのか?」
 「まだ何もしてない、って言っただろ。する前だったんだ。だけど褌なんて誰のでも同じだから、見つかってもどうってことなかった。足袋を忘れたのがしくじりだった」
 「足袋だって同じだろう? 多少大きい小さいはあるかも知れんが……」
 「白足袋だったんだ。この村じゃ、白足袋履いてるのは名主であるうちのもんだけだからね。それでわかったんだろう。そうだ! 白足袋の主は、あたしじゃなくて父さんだった、ということにならんかな」

 「だめだ、こりゃ。久作よ。おまえ、弥左に刺されて死んじまえ。この分じゃ、ほかのうわさも根も葉もあるんだろう」
 「やだよ。ほかのうわさだってみんな似たり寄ったりで、おくみとは手を握っただけだし、おとよは口を吸っただけだ。あたしは、まだ誰ともナニをしたことがないんだもの、死にたかない」

 「ほえっ! この色男、実はまだ童貞かえっ!」 叫んだのは明神さんだった。「そりゃ、死なすのはかわいそうだわい」

 神棚が、カタカタ音を立てたので、ふたりが見上げた。
 「うそだろ。明神さまが怒ってるぞ」
 「うそじゃないんだ。弥左の女房のときは初めてで、どうしていいかわからなくて、もたもたしてたもんだから弥左が帰ってきちゃったんだ」
 「おすえ後家の件はその前だろ? おすえはちゃんと教えてくれなかったのか?」
 「ひどいよ、父さん! いくらなんでも…… あれは父さんの言いつけで書付に爪印をもらいに行っただけじゃないか。おすえさんがぼた餅を食わせてくれたので、肩を揉んでやってたら帰りが遅くなった。それだけのことだ」
 「うむ、そういうことがあった。それにしても弱ったなあ……」

 寸前だったとはいえ、人の女房に手を出そうとしたのは良くない。良くはないが、亭主の留守に若い者を引っ張り込んだ弥左の女房はもっと悪い。
 ……うむう、これはなんとかしてやらなくちゃ。
 明神さんは、神棚から下り、腕組みをして頭をひねりながら社に帰った。

 「というわけじゃが、どうしたもんかのう。観音さんよ」
 「私に相談されてもねえ。私の仕事は、そういう煩悩の世界から、御仏の清浄な世界へと人々を導くことだからなあ」
 「だからさあ、久作がまだ汚れきらないうちに、浄土とやらへ連れて行ってしまうとか……」
 「だめだ、だめだ。本人が求めてもいないのにそんなことはできない。弥左に刺されて死んでしまってからなら、私の領分だがな」
 「じゃ、それでいくか」
 「おいおい、自分の仕事がうまくいかないからって、久作を殺してまで、こっちへ振るなよ。第一、それじゃあ久作はナニを知らずに死ぬんだぞ。あんたはそれでもいいのかい、明神さんよ」
 「いや、それはかわいそうだ」

 チャリーン。
 ガランガラーン。
 「おや、明神さん、あんたとこにお客さんだぜ」
 「あらら? うわさをすればなんとやら、おすえ後家だ」

 おすえ後家は階に膝をつき、両手を合わせて一心に明神さまに願った。
 「明神さま、お願えです。久作どんを助けてやって下せえ。あの子はいい子だよ。いろいろうわさをされるのは、それだけあの子に人気があると言うこと。そりゃあ、若えから羽目をはずすこともあるけどよお、もとはといえばおっ母あの乳が恋しいだけのこと。明神さまが助けてやれば、すぐにいっぱしの男になるだよ」

 それから三月ほどが過ぎた。
 弥左と久作の仲は相変わらず険悪だったが、どうにか刃物沙汰は避けられて村に平和が戻ってきた。

 「静かになったね、明神さんよ。どうやって事を納めたんだい?」
 「うん。わしはな、揉め事が苦手だから、得意技の縁結びを使ったのさ。久作がほかの女に色目を使わないようにするには、さっさと身を固めさせてしまえばいいって思ってな、あの日のうちに、両家の神棚を赤い糸で結んでしまっただけのことよ」
 「弥左と久作の家かい?」
 「なにをばかな。観音さんよ、近頃、おすえ後家の腹がでかくなったと思わないかえ?」

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