寒 月 夜


 「あら? あのお花、なにかしら」
 助手席の珠江の呟きに、昌三は、路肩に車を停めて応えた。
 急ぐ旅ではない。むしろ急ぎたくない旅であった。

 「どれ?」
 「ほら、あそこの段々畑のところの…… 黄色いお花」
 フロントガラスに顔を寄せて玉枝の指差す方を見ると、なるほど山の中腹の段々畑を縁どるように、黄色い花が並んでいた。
 「菜の花かしら?」
 「まさか。いまは1月、それも、おととい七草を済ませたばかりだよ」
 「そうね。いくら四国でもまだ真冬ですものね」
 いいながらも珠江は、身を乗り出すように、グローブボックスから取り出した双眼鏡に目を当てた。

 「あ、やっぱり菜の花だわ。見て」
 うれしそうに、はしゃぐように言う珠江からから双眼鏡を受け取って見ると、なるほどレンズの中には菜の花が揺れていた。

 「♪菜の花畠に  入り日うすれ……」

 珠江は口ずさみながら、シートに深々と体を戻し、目を瞑った。
 「四国は、やっぱり暖かいのね。野沢は今頃、雪の中だわ」

 珠江の故郷は、長野県の北端といってもいい野沢温泉村である。
 この村の誇りは、温泉と野沢菜と、高野辰之博士。国文学者高野博士は「春が来た」「朧月夜」などの唱歌の作詞者として名高い。温泉街の真ん中には、博士の書斎<斑山文庫>を再現した記念館「おぼろ月夜の館」が建てられている。
 そんな関係もあってか、珠江はこの歌が好きで、よく口ずさんでいた。

 「菜の花、とってこようか?」
 段々畑には車は乗り入れられそうになかったし、病気の珠江には、菜の花のある山の中腹までは歩けそうになかった。
 「だめよ。こんな寒い季節に一生懸命咲いている花を折っては」
 「じゃ、しばらくここで菜の花を見てゆこう」

 「♪春風そよ吹く  空を見れば  夕月かかりて  におい淡し」

 珠江の体は癌に蝕まれていた。
 5年前に発症し、このときは手術をし、放射線治療をして治癒にいたった。
 「今後5年ほどの間に再発の可能性があります。この期間を乗り切れば心配いりませんが、再発した場合は、残念ですが……」
 医師は昌三にそう告げた。
 きっちり5年後、昌三の必死の祈りもむなしく、癌細胞は珠江の体の中で再生した。
 「6ヶ月。痛みがひどくなったら入院してもらいますが、それまでは好きなようにさせてあげなさい」

 最期の日は近かった。
 昌三は珠江を旅行に誘った。
 「日本中の神様、仏様を巡礼して、病気を治してもらおう」
 珠江には、そう言った。
 二人が結婚したのは昭和24年春、まだ太平洋戦争後の復興が緒についたばかりの、混乱の時代だったから新婚旅行にも行けなかった。
 結婚後しばらくして、鍛冶屋の職人だった昌三は独立して金属加工の町工場を開いた。工場は、戦後の復興の槌音にあわせて順調に伸び、経済的には余裕ができたが、夫婦二人で旅行に出るような時間の余裕はできなかった。昌三が請けていた大会社の仕事は納期が厳しく、また注文数量を確実にこなさなければならなかったからである。
 「子供たちが大きくなって、働く必要がなくなったら、残った人生は世界中を旅行してまわろうな」

 子供たちはみな大きくなって独立したが、従業員という子供を抱えた昌三は働く必要がなくならなかった。
 5年前、珠江が癌に冒されたと知ったとき、昌三は早く珠江との約束をはたさねばならないと思った。
 そうは思ったが、零細企業だから、仕事を従業員任せにして悠々と旅行を楽しむほどのゆとりはない。工場を畳んでしまおうと思ったが、20人を超える従業員をいきなり解雇するわけには行かない。
 そんなこんなでぐずぐずしているうちに5年が過ぎ、残された時間はごくわずかになっていた。

 昌三は、取引銀行に頼んで工場の引き取り手を探してもらった。
 もともと大企業の下請け会社だから、工場には特に魅力はなかったが、機械をいじくり回すのが趣味のような職人の堅実な経営のため赤字を出したことがなく、設備投資の借金が若干残っているくらいだったから、買い手はすぐに見つかった。

 工場を売った金で、昌三はベンツを買った。
 高級車がほしかったわけではない。それまでは、仕事ではトラック、私的には1300CCのカローラ、それで十分だと思っていた。
 ただ、病魔に冒された珠江の体の負担を考えて選択したらベンツに行き着いただけだった。

 「寒くないかい?」
 「大丈夫よ。温泉のぬくもりが、まだ残っているみたい」
 珠江はそういって微笑んだ。だが、病気はかなり進んでいるようであった。かつてはふっくらとして血色のよかった珠江の頬が青白く削げ落ちていた。
 「行こうか。もうすぐメロディーラインだ」

 昨夜は、松山の道後温泉に泊まった。一昨日からの連泊で、今夜は宇和島に泊まることになっていた。
 四国へは、いうまでもなく、八十八か所の霊場めぐりをめざして来た。
 八十八か所の「お遍路さん」は、本来なら1番から順番どおりに、徳島、高知、愛媛、香川と回るところだが、瀬戸大橋を渡って四国に入り、最初に善通寺とその周辺へ行ってしまったので、逆回りをすることになった。

 予定では、松山から国道56号線を南下し、宇和町、宇和島市へと入るつもりであった。
 予定を変えて、札所のない国道378号線から197号線、佐田岬を選んだのは、旅館に置いてあったパンフレットに「メロディーライン」の文字を見つけたからである。
 メロディーラインという愛称を持つ国道197号線は、西へ向かって細く長く延びる佐田岬半島の尾根を走る。地図で見る限り、その細長い半島は、メロディーラインというやわらかな響きと対照的に、峻厳な断崖絶壁の存在を思わせた。
 国道378号線は、伊予市で56号線と分岐し、海岸線を走る。
 何もないが、行き交う車も少ないので、美しい伊予灘を眺め、さまざまに変化する海岸線を楽しみながらのんびり走れる。
 約40qで海岸線を離れ、山に入る。菜の花に出会ったのはこの山の中だった。
 このあたりは峠越えなのでカーブが連続し、やがて長いトンネルを抜けて原子力発電所を擁する伊方町に入る。
 ここからが197号線、メロディーラインである。

 真冬の晴天日。日差しを受けて、車の中は汗ばむほどの温かさであった。
 佐田岬半島の背骨のような尾根を走るメロディーライン。右に左に瀬戸内海と宇和海が連続して現れては消える。海岸線は、どちら側も切り落としの崖になっていて、切れ込んだ入江の平坦地にはひしめき合うような集落が見えた。
 「五線紙の上を音符が跳ねているみたいね」
 珠江がそう表現した。
 音符は、豊かに高らかに人々の平和と大自然の美を奏でていた。

 メロディーラインに入ってまもなく、道の駅があった。
 伊方町の観光物産センターを兼ねる道の駅「きらら館」は、瀬戸内海と宇和海を同時に展望できる立地になっていた。「きらら館」とは、宇和海に上がる朝日と瀬戸内海に沈む夕日のきらめきを象徴として採ったものだという。
 遠くには、本州や九州と思われる陸地がかすんで見えたが、佐田岬の先端は見えなかった。

 「あれはなあに?」
 佐田岬の先端を目指してさらに走ると、突然、山陰から巨大な風車が姿を現した。
 「風力発電の風車みたいだけど……」
 テレビや雑誌などで目にした事のある風車だった。一切の飾りを廃し、ひたすら研ぎ澄ましたナイフのような細い白い羽根が3枚、抜けるような青い空を背景に、風を受けてゆったりと回っていた。
 その機能美は、太古の昔に造形された自然の風景と対比的にマッチして美し
かった。

 「道の駅・瀬戸町農業公園」。風車はそこにあった。
 ただの飾りかと思った風車は、実際に稼動していて100kwの電力を生み出しているという。
 半島の農業にとっては悪魔ともいえる風を、電力に変えることで、幸せの風へと転換させる…… パンフレットに書かれた一文に、美しくもまた苛酷でもある大自然と調和して生きようとするこの町の意気込みが読み取れた。

 国道197号線、メロディーラインは、三崎町に入って山間から海岸に下り、漁業の町三崎港で終点となる。
 佐田岬先端の灯台は、ここからさらに10q以上先になる。

 曲がりくねった山間の道は舗装はされていたが狭く、大型のベンツでは細心の運転が必要だった。対向車がなければいいと思っていたが、幸いオフシーズンなので車はなかったものの、一度だけ土地の人の軽トラックと行合ってしまった。
 左側は切り立った山肌、右側はガードレールで保護されているが深い崖、道幅はベンツだけでいっぱいだった。事故も多いらしく、ガードレールには無数の傷があり、破損した箇所も多かった。
 佐田岬灯台へは一本道だから、帰りもここを通らねばならない。ガードレールの破損したところから崖下に落ちれば、まず助かるまい。この場所は覚えておこう、と昌三は思った。
 小さな切通しを抜けると目の前にきらきらと輝く海が広がった。
 車の通れる道の終点で、駐車場を兼ねた展望広場だった。
 車が2台、駐まっていた。

 降り立つと、風は穏やかで暖かかった。
 目の前の海は速吸瀬戸の異名をもつ豊予海峡だが、いまは穏やかに見えた。
 「西の果てに来たのね」
 「すぐそこに九州が見えるから、西の果て、っていうのはどうかな」
 「でも、ここから先へは行けないんだから、やっぱり西の果てだわ」

 「みかん、いらんかね」
 農婦の副業らしい物売りが籠を持って近づいてきた。
 「鯵の干物もあるよ、本場の関鯵やけん、おいしいよ。なんか買うて」
 籠にはほかにもいろいろ農水産物が入っていたが、珠江はみかんの袋に手を伸ばした。車の中は汗ばむほど暖かかったから、のどが渇いていたのだろう。

 「灯台までは、まだ遠いのかな?」
 金を払って昌三が尋ねると、農婦は右側の半島の先を指した。緑の山陰に真っ白な灯台が半身を覗かせていた。
 「20分、いやお年寄りやけん、30分かかるかね」
 道は整備されているが、山道なのでかなりアップダウンがあるという。その上、灯台へは、最後に50段ほどの階段を上らねばならないそうだ。
 ここまで来たのだから、西の果ての果てまで行ってみたい気もしたが、珠江の体にはもうそれほどの力は残っていそうになかった。

 車に戻って、二人でみかんを食べた。みずみずしく、甘いみかんだった。
 「戻ってこないつもりなら、灯台まで行ってもいいわよ」
 「ばかなことを……」
 「やっぱり、そうね。そう考えていたんでしょ?」
 「僕がなにを考えていたって?」
 「西の果てへ行って、戻ってこないってこと」
 「……」
 「お寺めぐりをして、なにを祈願したのかしら? 商売繁盛? 家内安全? 病気平癒? 違うわね。あなたがお祈りしていたのは一つだけ。苦しまずに西方浄土へ迎えてください、って阿弥陀様にお願いしていたんでしょ?」
 「……」
 「いいのよ。わかっている。こうして旅に出たのもそのためでしょ? その場所を探していたんでしょ? ここへ来るまで、いくつも危険なところがあったわね? 私ね、その度にあなたが真剣な目つきになるので、ここかしら?って考えていたの」

 珠江のやせた頬が赤く染まっていた。
 気が付くと、すでに日が傾いて海の色も変わっていた。駐車場には昌三たちの乗ったベンツが1台だけになっていた。物売りの農婦もすでに帰ってしまったらしい。

 昌三は黙って車を発進させた。
 珠江にはかなわない。こうして何もかもお見通しなのだ。うそを言っても、隠し事をしても、いつもすぐにばれてしまった。
 病気のことも残された日々がごくわずかなことも、医師には口止めをされ、昌三もそれを守ったが、珠江はちゃんと察知していた。
 珠江はその鋭い洞察力で昌三を支えてきた。何も言わなくても、珠江は昌三の心に同化して、共に苦しみ、共に考えていた。それは、珠江の昌三への深い愛によるものだったと思う。
 珠江がいたから、珠江と一緒だったから、こんな年寄りになるまでなに不自由なく生きてこられた。その珠江を失ったら、自分はどうやって生きてゆけばいいのだろうか……
 あたりはすでに闇が深まっていた。
 山肌を白い光が薙いで行った。灯台の光だろう。

 来るときに心に留めたあのカーブ地点に差し掛かった。
 このあたりからアクセルを踏み込み、一気に突っ込めば、あの破損したガードレールは突き破れるだろう。そしてすべてが終わる。

 「♪ ……さながら霞める  おぼろ月夜」

 珠江の歌が終わった。
 昌三は、アクセルからブレーキペダルに踏み変えて、慎重にカーブを曲がりきった。

 冬の空にくっきりと白い月がかかっていたが、珠江の潤んだ目にはおぼろにかすんで見えた。