ま る |
まる。 ゴールデンレトリーバー系の雑種、4才のオス。 捨て犬である。 もっとも、まる自身は、自分が捨てられたとは思っていない。 ゴールデンレトリーバーは、スタイルの良い大型犬で、雑種とはいえ、まるも金色のふさふさとした毛を持ち、体高約60センチ、体重40キロ近い堂々たる体格であるが、もらわれてきたときは羊のように毛むくじゃらでころころ太った子犬だったので、まると名付けられた。 4年間、まるは幸せだった。 今は小学校2年生になったぼく、4年生のおねえちゃん、そしてお父さんとお母さん。みんなに可愛がられ、おいしいものをたくさん食べて育った。 秋の、天気の良い日、まるはお父さんの車に乗って山に来た。 いつもなら、ぼくやおねえちゃん、お母さんも一緒なのだが、この日はなぜかお父さんだけだった。 ちいさな湖のほとりの広場で、お父さんとボール投げをして遊んだ。 お父さんの投げたボールを、一生懸命に走って拾ってくる。時には、まだ空中にあるうちにジャンプして口でキャッチする。 まるはこの遊びが大好きだった。 お父さんはボールを投げるのがうまい。高く、遠くに投げる。 ぼくも、最近はかなり遠く投げられるようになったが、ぼくの投げるボールは高さが足りないので空中キャッチができない。 おねえちゃんはへたくそで、ボールがどこへ飛んでゆくかわからない。 お母さんは、ボール投げはしない。ボール投げだけではなく、まるとはほとんど遊んでくれない。犬が嫌いというわけではなく、犬と遊ぶことが好きではないらしい。 でも、その日のお父さんは変だった。 いつもなら、「まる、いくぞ」と声を掛けてまるが走りやすい方向にボールを投げ、くわえて戻ると「よおし、よし」と抱くようにして撫でてくれるのにこの日は無言だったし、軽く頭を撫でただけだった。そのうえ、林の中とか、湖の中など、探しにくいところへばかりボールを投げた。 5回目か、6回目。 お父さんの投げたボールは、林の中の小さながけ下に転がり込んだ。 ボールはすぐに見つかったが、下生えの叢木にさえぎられて、まるは掻き出すのにちょっと苦労した。 どうにか引っ張り出して広場に戻ったとき、お父さんはいなかった。 ボールをくわえたまま、まるはその場に腰を下ろし、お父さんを待った。 そのうち、どこかから「まる、おいで」と声がかかると思ったからだ。 広場にはたくさんの人々がいて、楽しそうな声が響いていたが、どんなに小さな声でも、まるにはお父さんの声を聞き分ける自信があった。 だが、いつまで待ってもお父さんの声は聞こえなかった。 日が傾いて、広場が静かになったが、お父さんは現れなかった。 まるは、ボールをくわえて駐車場に行ってみた。 うちの車はなかった。 うちの車ばかりではなく、所狭しと並んでいた車はほとんどいなくなっていた。駐車場わきの売店もすでに閉まっていて、人の気配はなかった。 日が落ちてあたりは真っ暗になり、まるは、生まれて初めてひとりぼっちの夜を迎えた。 冷たい風が吹いてきたので、まるは売店の前におかれた屋台の陰にもぐりこんだ。焼きそばの匂いがした。 お腹がすいていたが、食べるものはなかった。 「まる、おいで」 夕食が終ると、まるは、おねえちゃんとぼくと一緒に子供部屋に行く。 子供部屋の二つのベッドの真ん中に、まるの寝床がある。 以前は、ぼくかおねえちゃんのベッドにもぐりこんで一緒に寝ていたのだが、まるが大きくなりすぎて、子供のほうがはみ出すようになったため、お母さんが古い絨毯でまるの寝床を作ってくれた。 大好きなおねえちゃんとぼく。二人の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、まるは安心して眠りにつく。 「まる、おいで」 呼ばれて玄関に行くと、お姉ちゃんとぼくが、時にはどちらかひとりだけだが、紐を持って待っている。お散歩の時間だ。 朝と夕方の2回、毎日、まるはお散歩に連れて行ってもらえる。もっとも、お天気の悪い日や、お天気は良くてもぼくやおねえちゃんの機嫌の悪い日は、連れて行ってもらえない。こういう日は、まるの気分も悪くなった。 家は14階建てマンションの9階にある。だから、もちろんまるはひとりでは外に出られなかった。 「まる、おいで」 お父さんがお休みの日は、ぼくやおねえちゃんも楽しそうだったが、まるはもっとうれしかった。 山や海や川、とにかく広々としたところへ、車で連れて行ってもらえるからだ。 まるは水泳が好きだ。 広々としたところを走り回り、水に入って遊ぶ。これはお父さんのいるときしかできない。 「まる、おいで」 お母さんに呼ばれたときはご飯だ。 お母さんは、まるとは遊んでくれない。だからといって、まるが嫌いというわけではないらしく、お母さんの作ってくれるご飯はいつもおいしい。 その意味では、おねえちゃんやぼく、お父さんは落第で、お皿に山盛りのドッグフードしか出してくれない。 「まる、おいで」 呼ばれたような気がして目覚めた。まばゆいお日さまが、すでに山の端に顔を出していた。 売店の入り口に知らないおじさんがいて、まるを見つめていた。 「なんだ、おめえ。どっから来たんだ?」 おじさんは近づいてきて、まるの頭を撫でた。まるは尻尾を振っておじさんの好意に応えた。この人は犬好きだ、本能でそれがわかったし、まるはもともと人懐っこかった。 おじさんは、売店の経営者だった。 「腹、減ってるか?」 手早く開店の準備をしたのち、おじさんはまるにパンと牛乳をくれた。 牛乳は冷たかったが、心地よく喉に流れ込んだ。牛乳のしみこんだパンは、味わう暇もなく一口で胃に納まった。 しばらくすると、駐車場に車が集まってきて、広場に歓声が響き始めた。 まるは、駐車場のかたわらに座って、やってくる車と、降りてくる人たちを注意深く見ていた。 お父さんが来るはずだった。 ぼくとおねえちゃんも来るに違いない。 もちろん、お母さんも一緒だろう。 一日中、まるは家族が迎えに来てくれるのを待った。 「まる、おいで」 その声を、ひたすら待ち続けた。 犬、猫などのペットを飼ってはいけない。 それがマンションの決まりだった。 だが、実際には、部屋の中で、それらのペットを飼っている人が結構いて、近隣との問題がおきない限り、管理組合も黙認する形になっていた。 まるも、子犬のうちはほとんど問題にならなかった。 ゴールデンレトリーバーは、もともとおとなしい犬で、人懐こいし、めったに吠えない。 だから、成犬になってからも近隣との摩擦はなかった。 そのままだったら、まるは幸せな一生を送れたかもしれない。 まるにとって不幸だったのは、隣の部屋が売りに出され、新たに入居した家族が過激なまでに動物嫌いだったことだ。 トラブルは、引越しの挨拶のときから始まった。 挨拶に訪れた隣家の主婦は、応対に出たお母さんの後ろに控えた巨大な犬を発見して肝をつぶした。 「このマンション、ペット禁止じゃないんですか?」 「え? ええ、そうなんですけど……」 「いやだわ。お隣にこんな大きな犬がいるなんて、知らなかった」 知っていたら買わなかった、と、隣家の主婦は、管理組合に訴え、売主や仲介した不動産業者に対してまでクレームを持ち込んだ。 まるにとって、もうひとつ不幸だったのは、飼い主が犬を飼うについての知識に乏しいことだった。 ただ「好きだから」ということで、お父さんが知人から子犬をもらってきたもので、手入れにしてもしつけにしても、すべて思いつくままの自己流でしかなかった。 だから、「うちの犬はおとなしいし、散歩以外は外に出さないから迷惑はかけない」という主張も、飼い主が気付かない臭いや抜け毛の問題まで持ち出されては勝ち目がなかった。 結局、まるを「処分」することになったのだが、子犬ならまだしも体高60センチを超え、体重40キロもある成犬、しかも血統書のない雑種では貰い手はなかった。さりとて保健所に渡して薬殺されるのはかわいそうと、お父さんはまるを捨てることにしたのだった。 「貰い手が見つかった」 子どもたちに、そう嘘を言って、お父さんはまるを車に乗せた。 まるは、山の広場で家族を待ち続けた。 さいわい、売店のおじさんが自分の飼い犬のようにまるの食事を作ってくれたし、広場へ遊びに来た人々が食べ物を投げてくれたりしたので、飢えることはなかった。 山の秋は短い。 紅葉の盛りが過ぎると、もう冬だった。 「おい、ワン公よ、どうする? どういう事情か知らねえが、おめえのご主人さまは、もう探しには来ねえと思うよ」 この犬は捨てられたのだ、おじさんはそう見当をつけていた。 標高約1000メートル。 山頂付近に小さな湖と広場がある以外には、何も魅力のない山だった。 いちばん高いところに電波塔があるだけで、山中のどこにも人は住んでいない。最も近いふもとの町までは約9キロ。誰かが車に乗せてこない限り、犬が迷い込んでくるようなところではなかった。 広場に遊びに来た誰かが、この犬を置き去りにしたのだ。 「この山はな、冬場は誰も上って来ねえんだよ。あまり多くねえが雪が積もるし、道路も凍る。だからね、この店も来年春までお休みってわけだ。な?わかるだろ? このまんまここにいると干乾しになっちまうんだ。俺んちにつれて行きてえところだがね、あいにくうちのかかあは大の犬嫌い。ま、とりあえず街までは連れてゆくからな。自分で身の振り方を考えな」 売店のおじさんはそう言って、まるを自分の車に乗せようとした。 まるは、しかし、ふだんのおとなしく従順な犬とは思えないほど、激しく抵抗し、車に乗ろうとはしなかった。 「知らねえぞ、食い物は何にもなくなるぞ」 あきらめたおじさんは、売れ残りの食べ物をありったけ、焼きそばの屋台の陰に置いて去っていった。 売店の店じまいが合図だったのだろうか、山の広場に遊びに来る人がいなくなった。 冷え込みが厳しくなり、日陰では霜柱が一日中、溶けなくなった。 湖に氷が張り、冴え渡る空にも心なしか小鳥の姿が少なくなった。 「あのなあ、犬、飼っちゃいけねえかなあ」 「いやですよ、生き物は」 「いや、お前が動物嫌いだってことはわかってるんだ。ただなあ……」 「生き物はだめ。前にも言ったでしょ? そりゃさ、うちは子供がいないから、犬でも飼いたいって気持ちはわかるわよ。でも、動物は、だめ。うちは食べ物屋なんだから」 「そうは言ってもなあ……」 「なによ、うじうじして。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。そんなだから、あんたは商売が下手なのよ。まったく。競争相手のいない山の売店で小銭を集めるのなんて、商売のうちに入りませんからね。だいたいあんたはねえ……」 「待った待った。話がそっちへ行くと、ますます何にも言えなくなる。俺が甲斐性無しだってことは認めるから、ま、話だけ、話だけ聞いてくれよ。どうしてもすっきりしねえもんだから」 売店のおじさんは、犬嫌いの奥さんに、かいつまんで山に残してきた犬のことを話した。 おとなしいいい犬だが、どうやら捨て犬らしいこと。犬は主人が迎えに来るのを待っているらしいこと。餌になりそうなものはありったけおいてきたが、それももう食べつくした頃あいなこと。 「犬が嫌がったから置いて来ただって? この薄情もの! あの山ん中じゃ餌なんてありゃしないよ。それにこの寒さ。死んじゃうじゃないか!」 「いや、だからさ、うちで飼えなくても、誰かがもらってくれるまで預かるとか……」 「いいから、早く連れといでよ! あたしはね、動物に死なれるのが嫌なのよ。寿命だって言うんならまだしも、事故とか病気とか。もしその犬が飢え死にしてたら、あんたにもご飯食べさせないからね!」 雪が舞っていた。 まるは、吹き溜まりの枯葉にもぐりこんで眠っていたが、冷たい雪を鼻先に受けて目を覚ました。 寒さには強い犬だが、寒さを感じないわけではない。 それに、もう何日も食べるものにありつけず、体力を消耗していた。 「ここにいてはいけない」 本能が、まるにそう呼びかけた。 奥さんの許可を得たおじさんが、山の売店に着いた頃、まるは深い谷間をさまよっていた。 広場を出たまるは、おとうさんの車で連れてこられたときの記憶をたどり、アスファルトで舗装された道路をふもとに向かって走り出した。道は、湖を半周して、いったん上り坂になる。 約500メートル、一気に駆け上がった峠で、まるは幾重にも連なる山々を展望した。降りしきる雪以外に、動くものはなかった。 ボールをくわえたまま、鼻先を思い切り中空に突き上げて、あたりに漂う匂いのデータを収集してみたが、まるの求める匂い、蓄積された記憶に合致する匂いはひとつも発見できなかった。 「まる、おいで」 しかし、まるには、降りしきる雪のカーテンをかき分けて、ぼくの、お姉ちゃんの、お父さんの、お母さんの声が聞こえていた。 まるは、かすかに積もり始めた雪の道を、再び走り始めた。 急ぎすぎた。 下り坂の大きなカーブで、まるは雪に足を滑らせ、もんどり打って冷たい路面に転倒した。 その瞬間、しっかりくわえていたはずのボールがこぼれ落ち、ころころと坂道を転がり始めた。 すぐに起き上がって追ったが、ボールは曲がりくねったアスファルト道路をそれ、深い谷底へ落ちていった。 ゴールデンレトリーバーは狩猟犬である。 獲物を求め、目標を追って野山を駆け巡り、雪原を疾駆する。どんな困難に出くわそうと、獲物を追い詰めるまで、決してあきらめない。 雑種とはいえ、まるにもその血は流れていた。 まるはボールを追った。 ガードレールを潜り抜け、雑木林の斜面に飛び込んだ。切り立った崖は迂回し、障害物は飛び越え潜り抜けてて、谷底へ向かった。 何度も転倒し、茨に肌を切り裂かれながらも、下へ下へ、谷底へ。 獲物、いやボールを探し出すこと自体はそう難しくはなかった。ボールには家族と自分自身の匂いが濃く染み付いていたし、行き着くところへ行き着いたボールは、それ以上どこへも逃げ出したりしなかった。 冷たい、細い流れの中の岩の間に、ボールは浮かんでいた。 しっかりとボールをくわえなおして、まるは谷底から、山頂を見上げた。 V字谷だった。両側に厳しく切り立った崖。細長く切り取られた空。 まるは、いま自分が降りてきたルートを逆にたどりはじめた。 それは、道に迷わないためには正しい選択だったが、実際には不可能なルート選択であった。 まるが下ってきたルートは、迂回したとはいえ、厳しい斜面であったことに違いはない。時には落ちるように滑り降り、時にはかなりの勇気を持って飛び降りてきた。 滑り降りた個所は何とか攀じ登ることができても、飛び降りた落差を逆に飛び上がることはできない。 もうひとつ問題があった。 長い急坂を下る過程で、まるの足には大きな負担がかかり、間接が悲鳴を上げていた。人が言う「関節が笑う」状態である。 狩猟犬の血を引いているといっても、まるは室内で飼われていた愛玩犬である。訓練も受けていないし、なんと言っても決定的に運動が不足していた。 さらに、ここ数日、食うや食わずの状態であったから、体力が激しく消耗していた。 急坂を攀じ登ったり、ジャンプをする力はほとんど残っていなかった。 道はひとつだった。 まるは、水の流れに沿って、谷底を下流へと向かった。 水の流れに沿って下る。山を下るには合理的ではあるが、それがいかに危険で困難なことか、もちろん、まるは知らなかった。 水は、周辺の最も低いところを、さらに低い場所を目指して流れる。 周りが土だろうが岩だろうが関係ない。幅が狭かろうが広かろうが意に介さず、ひたすら低きを目指して流れ落ちる。 うねうねと曲がりくねり、時には地中の穴に流れ込んで姿を消す。崖があれば滝となって落ちる。 水だからたどる、水にしかたどれないルート。 まるは何度も行く手を岩盤や滝にさえぎられ、何度もほとんど元に戻らねばならなかった。 元に戻って迂回したつもりが、ふたたび同じ場所に出てしまったこともあった。苦労して攀じ登った岩の向こう側は、とうてい降りることのできない断崖だったりもした。 ぬれた岩や不安定な石に足を滑らせたのは数知れず、落石の直撃を受けて一瞬気を失ったこともあった。 こうしてまるは、谷間という格子のない檻に捉えられてしまった。 数ヶ月の後、まるは、山のふもとの国道に現れた。 この間、まるがどれほどの悪戦苦闘をしてきたか、それを知る者はいない。 痩せ細り、泥にまみれていた。体中あちこちに怪我の跡が見られ、中にはまだ赤い血がぬれぬれと光る傷痕もあった。 足を傷めていた。左の後脚を宙に浮かせ、3本の足で辛うじて歩いていた。数歩進んでは立ち止まり、少し休んではまた歩き出した。 その姿から、まるの山からの脱出行がいかに凄惨であったかが想像できる。 しかし、まるの口には、ボールがしっかりとくわえられていた。 「まる、おいで」 声が聞こえたような気がして、まるは立ち止まった。 見回したが、どこにも人影はなく、国道を疾駆する自動車の騒音があふれているだけだった。 付近には田畑が広がり、農家が点在していた。道路沿いには、ドライブインがあったが、駐車場に車の姿はなかった。 しかし鋭敏なまるの鼻は、確実にひとつの匂いを捕らえていた。 この匂いは知っている。 まるは、空中を風に乗って漂ってくるさまざまな匂いの中から、微かな、蜘蛛の糸のようにか細い匂いを選び出し、途切れないように神経を集中して、その源を探った。 蜘蛛の糸のようだった匂いの線は次第に太くなり、やがて強力なロープのようになった。 まるの目は、あまり大きくはない一軒の蕎麦店を捉えていた。匂いの源は、その店にあるようだった。 店からは、飢えたまるには抗しがたい、食べ物の匂いも溢れていた。 まるは、駐車場の端の植え込みの蔭に腰を下ろして様子を伺った。 まるは警戒していた。 この辺りは、蕎麦の産地であるため、道路沿いに「そば、うどん」を看板にしたドライブインが多い。ここまでくる間に、まるは何軒かそういう店を見てきた。 そのうちの一軒で、まるはひどい目にあった。 食べ物の匂いに釣られて、ふらふらと近寄ったところ、店の主人と思しき人に竹箒で思い切り殴りつけられたのだ。 「うせろ! このやろう!」 それはまるにとって初めての経験だった。 まるは、もともとおとなしく人懐こい犬だし、まるの周辺には可愛がってくれる人間しかいなかった。犬の嫌いな人は、初めからまるには近寄らなかったから、生まれてから一度も、人間に殴られたことはなかった。 食べ物の、いい匂いのするこの種の店には近寄ってはいけない。 一回の経験で、まるはそう学んでいた。学んではいたが、いまのまるは食べ物の匂いには抗えなかった。 店の戸が開いて、女が出てきた。女の手に竹箒が握られていた。 まるは身構えた。 しかし、女は、まるには気付かず、付近の掃除を始めた。 まるは迷った。 人間が竹箒を持って出てきた以上、逃げなければならない。 しかし、開いた戸の奥からは、まるが安心して近寄れる匂い、あの山の売店のおじさんの匂いがこぼれ出ていた。 まるにはいま、人間の助けが必要だった。 空腹を満たし、疲れた身体を休め、傷めた足を治すために。 掃除をしながら、女が近寄ってきた。 まるは動かなかった。逃げようとは思ったが、まるの身体にはもうその力が残っていなかった。 女と目が合った。 まるは、竹箒で殴られることを覚悟した。 「あんたあ! ちょっと来てえ!」 女は、竹箒を取り落とし、身を翻すと、叫びながら店の中に駆け込んで行った。 ごんべえ。 まるは、そう呼ばれることになった。 「俺んちがよくわかったなあ」 売店のおじさん、いや、ここからは「あんた」と書くことにしよう。奥さんは「おまえ」。二人の会話から、ごんべえがそう認識したからである。 「植え込みに変なものがいる」 おまえに言われて飛び出してきたあんたは、初めはただの野良犬だと思った。金色の毛は泥と血にまみれてまだらになって見えたし、やせこけた相貌はとうてい山のあの犬を思い起こさせなかったからだ。 だが、犬が大事そうにくわえているボールに覚えがあった。 「そうか。俺を頼ってきてくれたんか」 あんたは地面に座り込み、まるの首を抱きしめた。 「すまなかったなあ。あの時、無理にでも連れてきてしまえば、こんなに苦労はさせなかったのになあ」 あんたを頼ってきたわけではない。山から脱出したら、そこにあんたの家があった、ただそれだけのことで、ある程度の必然性を伴った偶然だった。 こうして、ごんべえはこの家で飼われることになった。 食べ物を与えられた後、ごんべえは獣医の元につれて行かれた。 「この子は室内で飼われていたようだね」 「こんな大きな犬を部屋の中で飼ってたんですか?」 「生まれたときから大きかったわけじゃない。かわいいからと室内で飼っているうちに大きくなって、屋外に移す機会を失ってしまったか、あるいはもともとマンションのようなところで飼われたか」 「どうしてわかるんですか?」 「去勢手術が施されている。それに、運動が極端に不足していたようで、とくに股関節の発達が遅れていてね」 犬に限ったことではないが、動物はその発育に合わせて骨格が出来上がる。特に身体を支え、運動機能を保障するうえで、関節の発達は大事だ。 股関節形成不全。 運動不足のため、身体の成長に骨格、特に股関節部の形成が追いつかなかったというのだ。 「脚は、もうだめだね。いや歩けるようにはなるけどね。しっかりと出来ていなかった骨に、過激で無理な力が加わったので、関節が壊れてしまってる。運動は必要だけど脱臼しやすいから無理に走らせないようにね。怪我のほうは大丈夫だ。多少残る傷もあるけど、すぐに毛が生えてきて、またきれいな犬になるよ」 十年ほどの時が過ぎた。 平穏で、ごんべえにとっても、あんた、おまえ夫妻にとっても幸福な年月だった。 動物嫌いなはずのおまえは、しかし、ごんべえの健康と衛生にこまやかな神経を使い、栄養バランスのとれた食事をつくり、犬舎と周辺の清掃の手を抜かなかった。 「まったく。忙しいのに、手がかかってしょうがないよ」 そうぼやいて見せながらも、そば店の経営以外の、新しく見つけた仕事に、おまえはまんざらでもなさそうだった。 あんたはというと、どこへ出かけるにも常にごんべえを連れ歩き、「新しいカミサンかい?」と友人に冷やかされるほどであった。 「ばか言え、息子だ」 春から秋にかけては、ごんべえは山の売店につれて行かれた。 山では首輪をはずされ、どこでも自由に走り回ることが出来た。水がぬるんでからは、毎日、湖で大好きな水泳を楽しむことができた。 この運動は、健康を維持するためにも、壊れた身体機能のリハビリにも効果を発揮した。 そして。 春先のある日のことだった。 数日まえから、ごんべえは立ち上がることが出来なくなくなっていた。 老衰である。 「あとは神様の思し召し次第だよ」 獣医はそう言って、別れの日の近いことを告げた。 「まる、おいで」 夢と現の混濁のなかに、ごんべえは懐かしい呼び声を聞いたように感じた。 まる? ほとんど忘れていた名前だ。名前とともに、そう呼ばれていたころの記憶も薄らいでいた。 誰かが呼んでいるんだろうか? ごんべえは、鼻先を突き上げて、周辺に漂う匂いの情報を集めた。 「 ! 」 白濁したごんべえの目に、小さな光がともった。 ごんべえは、寝床の隅にほとんど置き忘れていたようになっていたボールをくわえて立ち上がった。どこにそんな力が残っていたのだろうか。 よたよたと、ごんべえは庭を横切り、お店の勝手口のドアを押し開けた。 「あ、ごんべえ。お店に入っちゃだめでしょ!」 おまえの声が聞こえたが、ごんべえは無視した。初めての命令無視だった。 よたよたと厨房を抜け、ごんべえは客席へ向かった。 数組の客が食事をしていた。そのうちの一組、二人連れを、ごんべえの目が捕らえた。 お父さんだ。お母さんがいっしょだ。 ごんべえの目は、白内障のため、ものがはっきり見えなくなっていたが、ぼんやりとした影は古い記憶と一致していた。 それはまさにお父さんだった。 お父さんがこの店に立ち寄ったのは、まったくの偶然だった。お母さんと二人でのドライブの途中、たまたまこの店に食事に立ち寄ったのだが、しかしそれはもしかしたら、まるの執念が呼び寄せたものだったのかもしれない。 ごんべえは、お父さんの傍に腰を下ろし、ボールを高く掲げた。 「よおし、よし」 そう言って、お父さんはまるの首筋をなでてくれる…… はずだった。 お父さんの反応はなかった。 ごんべえは立ち上がり、ボールをお父さんの膝に置いた。 ボールはお父さんの膝をすべり、床に転がり落ちていった。 仕事は終わった。 ごんべえは、よたよたと自分の寝床へ向かった。 「まる?」 ややあって、声が聞こえたが、ごんべえは振り返らなかった。 翌朝、ごんべえは目覚めなかった。 春の暖かい風が、やわらかくごんべえを包み、明るい日差しを受けた黄金の長い毛がきらきらと揺れた。 ごんべえ。 ゴールデンレトリーバー系の雑種、障害犬。オス。年齢不詳。 為すべきことをすべて為し終えて、逝った。 |