手 毬 花 |
手毬花。 あじさいの異称である。 花群のひとつひとつを指すのか、葉の緑も含めた株全体のまあるい感じを言うのかは知らないが、なんとなくその雰囲気は伝わってくる。 あじさいの花言葉は「移り気」あるいは「冷淡」とも。清楚な白から始まって小気味よい青、あでやかな赤へと変容する花の様から連想されたのだろうが、しかし、あまり好ましくない花言葉とは裏腹に、あじさいを好む人は多いと思う。 しとどに降る雨の中、ちょっと控えめに自分の美しさを訴える手毬花、あじさいが、私は好きだ。 毬子を知ったのは、高校時代だった。 親しかった同級生の安井から毬子への恋を打ち明けられたときである。 春原毬子…… フルネームを聞いてもピンとこなかったが、私のごく身近にいる女だった。 私が通った高校は男子校で、隣接して同じ系列の女子校があった。 この学校はキリスト教系のミッションスクールで、幼稚園を併設した男女共学の小学校と、男女別の中学・高校、そして大学があった。大学と小学校は別の場所にあり、中高だけが隣り合って同じ場所にあるのだが、女子校のほうはお嬢様学校と呼ばれて規律が厳しく、したがって両校生徒の交流はほとんどなかった。 交流はなくても学校が隣り合っている以上、駅やバス停を含む通学路は一緒である。自然に顔見知りもできるし、言葉も交わすようになる。そこに恋が芽生えるのは当然ともいえる。 安井も、言葉を交わしたことはないが、そうして毬子を知ったらしい。 毬子との仲を取り持て、と安井は言う。 「なんで俺が?」 「演劇部だろ?」 両校の生徒同士の交流はほとんどない、と言ったが、二つだけ生徒同士が接触できる場があった。 「聖歌隊」と「演劇部」である。 その両方に私は所属していて、春原毬子もまた部員であった。同じサークルに所属しながら、安井から彼女の名前を聞いてもピンとこなかったのは、この二つのクラブは両校の人気クラブで部員数が多かったためだろう。 なにしろ、そのどちらかに入れば異性と接触できるとあって、音楽にも演劇にもあまり関心のないものまで名を連ねていたのである。私もそういう不純な動機でもぐりこんだ一人だった。 部員があまりにも多いので、役員をしていたり特に目立つ存在だったり、共通の作業がない限り、名前や顔を印象に残すことはない。 逆に言えば、春原毬子は、舞台での役どころと同様、「その他大勢」のなかの一人で特に目立つ存在ではなかったと言える。 それに同じ演劇部といっても、私は台本書き、彼女は舞台に上がって演じるほうだったから、ほとんど接触はなかった。 「好きだって、自分でいえばいいじゃないか」 「そんなこと、面と向かっていえるか」 「じゃ、ラブレターだ。手紙を渡せばいい」 「だからお前に頼んでるんだ。手紙を書いてくれ」 「ラブレターを、俺が書くのか?」 「俺、手紙なんて書けねぇもん」 無理もない。安井は、体操部のエースで、毎年インターハイで入賞するほどの英才だったが、学業のほうはまるでだめで、特に国語は常に赤点だった。 しょせん他人の恋、しかも相手は自分が関心のない女だったから、安井の相談に乗ったと言っても無責任きわまるものだった。 ラブレターは、図書館へ通って、ハイネ詩集などから抜き出した歯の浮くような言葉の羅列で出来上がった。なにしろこちらは芝居の台本屋だ、この程度のものはお手の物だった。もっとも、もともと台本を書きたくて演劇部に入ったわけではないから、台本のほうは高校三年間の在籍中、ついに一本も仕上げたことはなかった。 「これに花でも添えて渡せばイチコロだ」 ラブレターと一緒に渡すのだから当然バラだろう、と言うことで意見は一致した。が、花屋の店頭で安井が二の足を踏んだ。 「これ、どうするんだ?」 「明日、登校途中に渡せばいいだろ?」 「明日の朝まではどうすりゃいいんだ? バラの花束なんか持って帰ったらおふくろが卒倒しちゃう。おまえ預かってくれるか?」 冗談じゃない。俺んちだって同じだ。第一、ニキビ面の制服の高校生が、バラの花束なんか持って電車に乗れるかってんだ。 花はあきらめざるを得なかった。 代わりにポケットに入る程度の小物にしようと言うことになり、二人はその足でデパートに行った。 いろいろと見て回っているうちに、女性の装身具売り場で安井の足が止まった。ショーケースの中の、素木彫りのアジサイのブローチに目が吸い付いていた。 しかしそれは、高校生の小遣いではとうてい手の出ない高級品だった。 これもあきらめるしかなかった。 その後しばらく、この恋の話題は、二人の口に上らなかった。 安井が何も言わなくなったせいだが、私は、バラの花もアジサイのブローチもあきらめたのだから、毬子のこともあきらめたのかと思っていた。 まもなく夏休みに入った。 夏休み期間中、安井とは会わなかった。プールにでも行こうと二、三度誘いに行ったのだが、いつも留守であった。 「毎日、朝早く出かけちゃうのよ。なにをしてるんだか……」 安井の母親がそう言った。 二学期になってわかったことだが、安井は、夏休み中ずっとアルバイトをしていたのだった。アルバイトは、校則で禁じられていたので、親にも内緒にしていたらしい。 「これ、買った」 校舎の屋上で、誰にも見られないように安井は制服のポケットを広げた。顔が上気していた。 薄いピンクのリボンをかけた小箱が入っていた。 二人でデパートへ行ったあの日以来、安井が何も言わないので、すっかり忘れていたが、彼は深く心に秘めた恋のために夏休みを費やしたのだった。 「彼女に渡してくれないか」 「俺が、か? 自分で渡せばいいだろ」 「いや、渡そうとすると、いつも誰かが一緒にいて……」 そっぽを向いて弁解したが、そうではなかろう。この体操部のエースは、鉄棒や吊り輪などで危険な技に挑戦する勇気はあっても、女の子と話をする勇気は持ち合わせていないのだろう。 「いいよ」 気軽に引き受けて、私は、私自身が書いたラブレターと小箱を預かった。 引き受けたものの、安井の言うとおり、これが意外に難題だった。 学校の行き帰り、クラブ活動の間…… 渡すだけだからどうってことはないと思ったが、なるほど毬子のそばにはいつも誰かがいて、なかなかチャンスがつかめなかった。 難題はもうひとつあった。 チャンスをうかがいながら毬子を観察しているうちに、私自身の中でも彼女の存在が大きくなってしまったことだ。 目立たない、その他大勢の中の一人、と思っていた春原毬子が、大勢の女子高生の中でひときわ光って見えた。 当時流行していた乙女カットという髪形がよく似合い、表情が豊かでちょっとしたしぐさにも愛らしさと品があった。 ええい! 毬子は安井の彼女だ! 自分にそう言い聞かせたが、にもかかわらず毬子は毎日、私の夢にまで登場した。 私にとっても特別な存在になったことで、毬子にラブレターと小箱をチャンスはますます遠のいていた。 あっという間に一ヶ月ほどが経過した。この間、安井からは矢の催促で、つくづく変なことを引き受けるんじゃなかった、と後悔した。 「私に、何か御用?」 チャンスは向こうから転がり込んできた。 秋の学園祭に向けての打ち合わせのあった日だった。 たまたま私が一人になったとき、毬子が声をかけてきた。 「え? あ、いや。なんで?」 「ずっと気になっていたのよ。いつも私のこと、見てたでしょ?なにか私に用があるみたいだな、って」 「あ、ああ……」 気圧されて、なんだか変なタイミングになってしまったが、このチャンスは逃せなかった。 「こ、これ……」 ポケットからラブレターと、ピンクのリボンの小箱を取り出して毬子の手に押しつけた。 長い間ポケットに押し込んだままだったので、ラブレターは薄汚れてよれよれになっており、小箱はリボンがずれ、角々が擦り切れていた。 「なに?」 「読めばわかる」 セーラー服の、毬子の胸が大きく揺れた。 いけないものを見てしまったように感じ、また自分の恋を告白したような思いもあって、いたたまれず私はその場から逃げ出した。 三日ほど後、一時間目の授業を安井が欠席した。始業前には、言葉は交わさなかったが、確かに彼の姿を見たはずなのに。 二時間目との間の休み時間に安井を探した。 安井は、体育館裏の人気のないところにうずくまっていた。 カチン、カチンと、大き目の石を地面に打ち付けていた。 安井の肩が震えていた。なんとなく声がかけられなかった。 彼が去った後には、粉々に打ち壊された素木彫りのブローチが残っていた。 その後、安井とは、なんとなく疎遠になった。 毬子とも、また以前のとおり、何のかかわりもない二人に戻ってしまった。 こうして二つの恋と一つの友情が消え、ほろ苦い思春期の思い出だけが残った。 十年ほどの時が経た。 私は、卒業後初めて、演劇部のOB会に出席した。 OB会は、毎年、秋の学園祭に行われる公演にあわせて開かれているが、もともとあまり熱心な演劇部員でなかった私は、それまで一度も出席したことがなかった。 この年は、たまたま当日の予定が何もなかったことと、同じ会社に勤める女友達の山形悦子の「演劇って見てみたい」という希望があって、舞台を見るだけのつもりで母校を訪れたのだが、同期の友人と出会ってしまい、引きずられるようにしてOB会のパーティに出席することになった。 「お久しぶり」 知った顔二、三に挨拶をし、適当に腹を満たして帰ろうと、寿司をつまみながら山形悦子と話をしていると、女が前に立った。 色白のきりっとした美人だった。知性を感じさせる深い瞳が、微笑をたたえて私を捉えていたが…… 知らない女だった。 さりげなく悦子が腕を絡ませてきた。 「あら、お忘れかしら?」 微笑を消さず、ちょっとだけ眉を動かして悲しげな表情を見せた。 「仕方ないわね。あなたはただの郵便配達さんだったんですものね」 吐息をついて、女の胸が大きく動いた。その動きで思い出した。 春原毬子! 「こちら、奥様?」 「いや、そんなんじゃない」 答えたとたん、悦子の腕に恐ろしいほどの力が加わった。 「私、すのはらまりこ。いま、ある劇団の研究生なの。こんどね、役がついて舞台に上がることになったんだけど…… 公演のご案内差し上げてもよろしいかしら?」 「あ、ああ」 「よかった。チケットのノルマがこなせなくて困っていたのよ」 微笑が、何の屈託も感じさせない笑顔に変わった。 「お二人で、見に来てほしいわ」 毬子は、悦子に軽く会釈をして去った。 「わたし、あの人、嫌い」 悦子がつぶやいた。 数日後から、毬子との交友関係が復活した。いや、高校時代は「あの時」以外、言葉も交わしたことがなかったのだから、交際が「復活」したのではなく「始まった」というべきだろう。 「送ろうと思ったんだけど、お話もしたかったので」 そういって、毬子は自分の出演する舞台のチラシとチケットを持ってきた。チラシには主な出演者の写真が載っていたが、毬子のそれはなかった。 「ここ」 恥ずかしそうに指で示したのは、出演者一覧のいちばん端っこだった。すのはらまりこ、と小さく印刷されていた。 「でもね、二十人ほどの正式な劇団員のほか、研究生は五十人以上いるからここに名前が出るだけでも大変なことなのよ」 そう言って毬子は満足げに笑った。 吸い込まれそうな、美しい、かわいい笑顔だった。 こうして始まった毬子との交際は二年近く続いた。 といっても、その二年足らずの間に会って話したのはこのとき一回限りで、あとは電話と手紙だけの交際だった。 劇団の研究生というのは驚くほど忙しく、会ってゆっくり話をすることなど事実上不可能だったからである。 研究生は、演技そのものの勉強はもとより、演技の基礎となるさまざまな稽古事や、劇団の雑務もこなさなければならない。その上、団員ではないから給料が出ないため、自ら収入の道を探らねばならなかった。 なかには親の援助などで優雅な研究生活を楽しむものもいたが、劇団は、世に出て働くことが演技の幅を広げるとして、援助よりも自活を奨励した。 毬子の場合は、比較的裕福な家のお嬢様だったが、親の反対を押し切って劇団に入ったため、働かざるを得ないのだ、と聞かされた。 夜と早朝はアルバイト、昼前から夕方までは各種レッスンと劇団の仕事、睡眠はせいぜい五時間程度なので、慢性の睡眠不足。そういって毬子は笑った。 私もサラリーマンだったので、彼女の空いた時間に合わせて会うことはできなかった。 まだ厳しい暑さの残る秋の夜のことだった。 毬子が、なんの前触れもなく、私の家を訪ねてきた。なにかのパーティの帰りのようで、ダークスーツ姿であった。胸に大き目の、あじさいのコサージュが光っていた。 酔っていた。 「主役がついたの」 秋の公演の主役に抜擢され、その発表会があったのだという。 春秋二回の公演は、総力を挙げて取り組む劇団の根幹ともいえる公演で、この舞台に役を得ることは役者として一流であると評価された証であった。したがってこの大舞台の主な役どころはすべて劇団幹部の俳優が演じるのが常なのだが、今年はこともあろうに、数回端役で舞台に立ったことしかないひよこに主役が割り振られたのである。 昨年まで、永くこの役を演じてきた大女優の引退に伴う指名のよるものだというが、それはとりもなおさず女優すのはらまりこの演技の確かさが評価されたものといえた。 「お酒、ある?」 「乾杯かな?」 「ううん。酔いたいの」 おそらくそれを目指して苦労してきたであろうはずなのに、しかし毬子は浮かない表情だった。 「酔って、何もかも投げ出してしまいたい」 「ねえ、私が今、なにを考えているか、わかる?」 「主役の座を射止めて、興奮してるんだろ? で、情緒不安定になってる」 「そんな精神分析医みたいなこと言わないで、一緒に考えてよ」 「何を考えるんだ?」 「このまま女優になっていいかどうか」 「だって、女優になりたかったんだろう?」 「そう。でもね、ここから先は後戻りができない、いま考えておかなきゃならないって、そう思うの」 「考えることなんか、何もないと思うけどな」 「何もない? 本当にそう思う?」 「……」 「そう。やっぱりあなたはただの郵便配達だったのね。手紙の中身は関係ない。幸福も不幸も、希望も絶望も、お構いなしに配達する」 「女優って、何だと思う? 舞台の上では、他人を演じるの。自分とは縁もゆかりもない他人になりきって。演技が素晴らしければ素晴らしいほど、そこには女優本人はいない」 毬子の目に涙がにじんでいた。 「舞台を降りるとどうなると思う? 今度は、女優という役柄を演じ続けなければならないの。自分自身には戻れないのよ。女優になるということは自分を捨てること。……これはね、今日、引退した先生の私へのはなむけの言葉。主役に選ばれて、みんなはおめでとうといったけれど、先生は言わなかった。そういう道へ私は進もうとしている。よく、考えなければならないでしょ?」 「考えるもなにも、公演の主役はもう決まってしまったんじゃないの?」 「秋の公演のことを言ってるんじゃない。その後のことを考えているの。迷う心を抱えて舞台には立てない。女優を続けるか、自分に戻るか、それをいま決めなければならないの。もちろん、どちらにしても秋の公演は私のすべてをぶつけるけれど……」 「見に行くよ」 「見に来てほしくなんか、ない!」 毬子が叫んだ。悲痛ともいえる叫びだった。 「すのはらまりこを見てほしいんじゃない。春原毬子を見てほしい!」 毬子の訴えに、私には返す言葉がなかった。「女優をやめろ」と言いたかったが、私にはそれを言う資格がすでになかった。毬子に「そんなんじゃない」と言ったはずの山形悦子と結婚の約束をしていたからだ。 「ありがとう、わがままを言わせてもらって。でも思いっきり自分を全部吐き出すことができたわ」 毬子は、そう言って微笑をたたえて帰っていった。すでに女優だった。 毬子の去ったあと、ソファにはあじさいのコサージュが残っていた。 忘れていったのか、置いていったものかは、わからなかった。 「見てほしくない」と言った言葉を守ったのか、すのはらまりこからの公演の案内は、その後届かなくなった。 公演の案内は届かなかったが、すのはらまりこの消息は、いくらでも私の目や耳に入るようになった。すのはらまりこが映画やTVドラマに頻繁に出演するようになったからである。 二十年後、妻の悦子が死んだ。 遺品を整理していると、おびただしい数の郵便物の束が見つかった。 すべて、「すのはらまりこ」からの公演の案内状や年賀状、季節の挨拶状であった。 「あいつめ……」 しかし私には、妻悦子の秘密をとがめることはできなかった。私のデスクの引き出しの、いちばん奥にあじさいのコサージュが秘められているからだ。 あじさいの赤みが増して、花はまもなく終わろうとしている。 あじさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませわが背子 見つつ偲はむ <万葉集> |