マムシのおきよ |
『マムシのおきよ』と渾名されていることを、もちろん〈きよ〉は知っている。仕方のないことだと思っている。嫌われ者…… 自分だって、自分のことを好きとは言えないのだから。 もともとは、食らいついたら離さない、必ず成約にこぎつける彼女の営業姿勢を評したものだったが、社内では、忌み嫌われるものと意味して使われていた。 「辞めようかなぁ・・・」 たったいま、成果なく戻ってきた後輩セールスレディが、つぶやくようにいった言葉を聞きとがめ、〈きよ〉は 「やる気がなければ時間の無駄よ。さっさと辞めなさい」 と言ってしまった。 彼女はびっくりするほど大きな泣き声を上げ、デスクに突っ伏した。 〈きよ〉にはわかっていた。 彼女は今日、真剣に見込み客と戦ってきたのだ。メイクの崩れに浮かんだ疲れの深さが、それを表している。〈きよ〉もさんざん経験したことだった。 成約をあせるあまり、客を追い詰めてしまったのだろう。セールスが真剣になりすぎると、客の方は引いてしまうものだ。そのあたりの呼吸は、経験で身につけて行くしかない。 セールスには、叱咤激励はつきものだ。 ただ、今のような場合には、慰めや励ましの言葉も無駄で、黙って見守ってやることが一番なのだ。まして叱咤は厳禁で、断崖のふちに立つものの背中を押すような結果にしかならない。 それなのに…… 「私って嫌な女」。しんから、そう思う。 後悔の念がわいたが、「ごめんね」と、素直にわびる言葉が出なかった。 かわりに「泣くんなら化粧室に行きなさい。それがたしなみでしょ」と追い討ちをかけてしまった。 火に油を注いだ形になり、オフィスが凍りついた。 〈きよ〉は33歳、独身である。 過去、何人か好きになった男性はいた。が〈きよ〉を好きになってくれる人はいなかった。自分で自分が好きでないのだから、好きになってくれる男性が現れないのは仕方がないといえた。 〈きよ〉は美人の部類に入る。目尻が上がり気味なのできつい感じはするが、だからといって嫌われるタイプではない。 〈きよ〉自身、容姿には不満はなかった。 〈きよ〉が嫌いなのは自分の名前だった。 学校時代から、友達は、由美だとか志穂だとかステキな名前だった。有紀ちゃんも扶美ちゃんもいた。みんなかわいい名前だった。 〈きよ〉だなんて、おばあちゃんみたい。せめて、清美とか希世子とかにして欲しかったのに。 名前以上に、家族も嫌いだった。 父はいない。〈きよ〉が子供の頃…… そうだ、弟が生まれてすぐ、父は家を出ていった。母のお腹が大きくなり始めた頃から、父と母の間が険悪になっていたが、〈きよ〉にはその理由はわからなかった。 「きよ。お父さんといっしょに行こう」 父はそう言った。でも、泣き崩れる母を見ていると、父について行く気にはなれなかった。 母が好きだったわけではない。むしろ父の方が好きだったと思う。 母は美人だが、いわゆるがさつな女だった。なんでもきちんとしないと気がすまない〈きよ〉には我慢できないことが多かった。たぶん、父もそう感じていたのだろう。 加えて、支えを失った母が、女として簡単に崩れ落ちていった姿が見苦しかった。 弟も嫌いだ。自分とは「父」が違うらしい、ということは後にわかったが、嫌いなのはそのせいではない。ひとりで生きて行く気力もなく、〈きよ〉の財布から、わずかな金をくすねることしかできない男。 だから〈きよ〉は家族を捨てた。 〈きよ〉が出て行くとき、母は泣いた。父が出ていったときと同じだった。 街の中央にある城址公園でひとときを過ごすのが〈きよ〉の休日の日課だった。 川の流れを下に見て、木立の間からせりあがる黒塗りの天守閣。そのコントラストがたまらなく好きだ。黒塗りのお城はほかにも見られるが、〈きよ〉は小さくてもこの城がいちばん美しいと思う。 〈きよ〉のお気に入りのベンチに先客がいた。缶ビールを片手に、ぼんやりと天守閣を見上げている男…… 見知っている顔だった。同じ会社の、ごく最近転勤してきた、別の課の課長だった。 ここで顔見知りに出会うのはいやだったから、〈きよ〉はきびすを返して戻ろうとした。 「おきよさんじゃないか」 男の声が追いかけてきた。 おきよさん…… 〈きよ〉のいちばん嫌いな呼びかけだった。 会社では、誰からも「おきよさん」と呼ばれている。定冠詞の『マムシの』を思いきりボリュームを絞っているのがわかる。苗字の「吉田」で、呼び捨てにされたほうがまだマシだと思った。 その、嫌いな名で呼ばれた。気が重かった。 休日は誰とも話したくない。まして会社の人はいやだった。 しかし〈きよ〉は、それを露骨に出すほど子供ではなかったし、まして会社全体でも指折りのトップセールスだ。いくら休日でも、社交辞令を忘れることはなかった。 やむなく無味乾燥、なんの役にも立たない世間話に付き合うことにした。 が、思いに反して、この課長〈角田〉との会話は、〈きよ〉にとって、初めてといっていいほど楽しいものになった。それは、転勤してきたばかりの角田が『マムシの』という定冠詞を知らなかったためばかりではなかった。 会話が弾んだのは、内容がこの城の歴史から始まり、各地の城や神社仏閣、仏像など、〈きよ〉の唯一とも言える趣味に関係していったからだ。角田は、転勤で各地を回り歩いているためか、著名なモニュメントには詳しかった。 仕事のこと、会社のこと、〈きよ〉のプライバシーにはまったく触れない会話だった。 だが、互いのプライバシーに話が及ぶまで、さして時を要さなかった。 次の休日、約束をしたわけではなかったが、同じ場所に缶ビール片手の角田の姿があったからだ。 「休日は、なんにもすることがないんだ」 そう言って、角田は笑った。さびしい笑いだった。 角田は独身だった。正確には、バツイチといわれる離婚経験者だった。角田は、しかし、その問題を含めて、過去の話には触れたがらなかった。 〈きよ〉もまた、家族のことを含む過去の話はいやだった。 過去に触れまいとすれば、話は未来のことしかない。なんの制約もない男と女が頻繁に会って「未来」を話題にしたとすれば、それは互いの夢のすり合わせになる。 社内での〈きよ〉の評価が、少しずつ変わってきた。 本人のいないところでも「定冠詞」が使われなくなりつつあった。周りが変わったのではなく、〈きよ〉の方が変わったためであった。あたりが柔らかくなり、冗談にも付き合うようになった。 セールスの腕にはいっそう磨きがかかり、全国トップを争うようになったが、ありがちの陰口は聞こえてこなかった。 聞こえてくるのは、角田の「きよ」と呼ぶ耳元のささやきであった。 角田のささやきを聞いているうちに、〈きよ〉は自分の名前が思ったほど悪くない、と感じ始めていた。 その変化に歩調を合わせるように、〈きよ〉と角田についてのうわさが広がり始めた。うわさには、悪意を含むものももちろんあったが、総じて好意的といえた。 だが、会社は、この種のうわさに好意を示さなかった。 通常2年といわれるこの会社の転勤サイクルに反し、1年足らずで角田に転勤辞令が下された。一応は、栄転だった。 化粧室情報では、〈きよ〉は近く退職し、角田の転勤先で挙式する、というのが最有力であった。 二人の間にどんな話し合いがあったかは知らない。 角田の送別会で、〈きよ〉は満面に笑みを浮かべ、 「ご栄転を心からお祝いいたします」 と述べた。微笑みの裏側に止めど無く流れつづける別れの涙があることには誰も気づかなかった。〈きよ〉は、張り裂けそうな自分の心に「私はマムシ!」と言い聞かせていた。 〈きよ〉はまだ、自分の身体のいちばん奥で新しい命が育ち始めていることを知らなかった。 |