希望の交響曲 BEETHOVEN:Symphony No 5 in C minor,op.67 |
1.allegro con prio 死線 猛烈な吹雪が、ここ数日、続いていた。 スタッドレスタイアを履き、チェーンも用意してあったが、もともと寒冷地仕様でない車は、極寒の地では役には立たず、あっさりダウンした。 それ以上に、人間はもろかった。 初めて経験する寒さに負け、私は、布団の中で震えていた。意識もぼんやりとしていて、部屋に女が入ってきたのも気づかなかった。女は声をかけたが、私には答える力がなかった。冷たい手が私の額に触れた。えもいわれぬ快楽を感じた。 女は大声を上げ、走り去った。 私は救急車で病院に運ばれた。正確に言えば、その記憶は私にはない。 窓の外は吹雪。轟音をたてて渦巻いていた。 薄い被膜が目を覆っていたが、激しく舞う雪の姿は見て取れた。 急にあたりが騒がしくなり、覆い被さるように男の顔が接近した。まぶたが押し開けられ、強い光が目を射た。 「助かった!」 男が絞り出すような声で言った。 肺炎を起こし、二週間くらい昏睡状態にあったらしい。 「かろうじて命を繋いだのは、あなたの生きようとする意志の力でした」 後に医師はそう言ったが、そんなものがある筈はなかった。 約1ヶ月の入院生活の後、私は病院を出た。 まだ、駄目だ、と医師は言ったが、私には病院へ支払う金がなかった。万一の時のために準備しておいた預金も、その万一が現実となったため、底をついた。 働かねばならない。 死ななかった以上、とりあえず生きなければならない。 2.andantte con mort 彷徨 私がこの街に着いたのは、松飾のとれる日であった。 街に来て、最初に目に付いた「工務店」に飛びこんだ。職を得るためであった。工務店を選んだのは、前にいた町での経験からであった。 現場を抱えている工務店には、手に職のない者でも出来る仕事があった。それにもともと大勢の人を使う棟梁だから、身許の不確かな人間を雇い入れる度量があった。 しかし、この町では、その目論見が外れてしまった。 「この季節に現場仕事なんかあると思うか? あったって出来はしない」 親方は、降りしきる雪を指差していった。それはそうだ。前の町を離れたのも、「もう、仕事はないよ」といわれたからだ。 雪の季節が終わるのはいつになるだろう。私は、薄くなった財布の中身と預金通帳の残高を思い浮かべながら、途方にくれた。 「北へ行こう」と決めたとき、こんな事態は考えても見なかった。必死になれば仕事はなにかある、というのが9年間に得た教訓であった。しかし雪国の現実は、都会での甘い考えを簡単に吹き飛ばしてくれた。 挨拶をして出て行こうとすると、親方の声が追いかけてきた。 「吹雪になるぞ。行くあてはあるのか?」 給料は払わない、飯は食わせる、仕事は掃除。そういう約束で、納屋の2階に1室があてがわれた。納屋の2階といっても、きちんとしつらえた部屋で、組み立てベッドが置いてあった。 春先までの落ち着き先がこれで決まった。 病院を出て、工務店に戻った。 街はまだ雪に埋もれていたが、太陽の光は確実に春の訪れを告げていた。 親方は、ビックリしたように私を見た。 「退院するなんて聞いてなかったぞ」 親方は、病院の費用を負担する気でいたようだった。 行きずりのいわば風来坊、なんの取り柄もない男にかけてくれたあたたかい情けを感じた。同年代の落魄した男への同情だったかもしれない。 その夜、何はともあれ、と快気祝をしてくれた。 料理が並び、親方の家族、下職たちが集まって宴会になった。酒が出た。 病みあがりでも、祝い酒だ、少しくらい大丈夫だろう。と、茶碗酒を勧められた。母の介護にあたった時から酒を飲む余裕がなくなっていたので、十年ぶりに口にする酒だった。 アルコールはすぐに全身を駆け巡り、張り詰めた心をほぐしてくれた。 ゆったりとした気持ちになり、問われるままに、過去を語った。 「これで丸裸になりました。ただ、生きているだけです」と結んだ。 親方は不機嫌になった。 「何をぜいたく言ってるんだ。人間生まれた時から丸裸だ。生きてるだけ? 結構じゃねえか。生きてるだけ、それだけの為に、みんな死に物狂いで働いてるんだ。どんな大会社か知らねえが、おれんとこだって会社だ。じいちゃんの代から、生きてるだけのために頑張ってる会社だあ!」 「すみませんねえ。飲むといつもこうなんですよ。気にしないでくださいね。ほんとはね、この人、この仕事を継ぎたくなかったんです」 おかみさんが、親方をなだめながら言った。 3.allegro 帰還 梅雨に濡れる町は、半年前となにも変わっていなかった。 我が家へ続く道で、知った顔にいくつも出会った。誰も、なにも変わっていなかった。 何度も捨ててしまおうと思いながら捨てきれなかった我が家の鍵が、手のなかで光った。ドアを開けると、わずかにかび臭い匂いがしたが、思ったほど荒れてはいなかった。 いや、荒れているどころか、掃除をしたあとが認められた。 食堂のテーブルにメモがあった。 「お帰りなさい。お父さん。 「こんどこそ、これを読んでもらえることを願っています。 「いつかきっと帰ってくるって、お姉ちゃんと相談して、毎週交代でお掃除に来ています。 「帰ったらすぐ、元気な声を聞かせてください。 「冷蔵庫に、すぐ食べられるものが入っています。日によっては傷んでしまう物もありますから、気をつけてね。 「すぐに電話くださいね! Y子」 妹娘の文字だった。2日前の日付があった。 涙があふれて、文字がにじんだ。 電話なんか出来るもんか。なに話せばいいんだか、わかりゃしない。 冷蔵庫は満タンだった。 4.allegro 明日 小鳥の歌声で目が覚めた。 この半年間、畳の上で眠ったことがなかった。車の中や組み立てベッド。病院のベッドがいちばん高級だった。思い出して、なぜか可笑しくなった。ひとり笑いして、それが可笑しくてまた笑った。何年かぶりの笑いだった。 梅雨の晴れ間。 気持ちのよい、明るい夜明けだった。 腹が減った。きのう、冷蔵庫の中身を片っ端から食ってやったのに、胃袋はまだ食い足りないようだった。 腹が減っては戦が出来ぬ。独り言を言いながら、冷蔵庫をかき回し、調理しないで食えるものを全部引っ張り出した。 10年ぶりに、ネクタイを締めた。ワイシャツは黄ばんでいたし、流行遅れのスーツは手入れが悪かったので、型崩れしてヨレヨレだった。いちばん困ったのはズボンで、やせ細った腰にダブダブであった。ベルトを短くし、思いきり締め上げてやった。靴はカビが生えていたが、これはブラッシングだけでなんとかなった。 鏡に映った自分の姿が可笑しくて、思わず笑ってしまった。 あの当時なら、こんな姿で町に出る勇気はなかっただろう。 今は、笑っただけで気にはならなかった。 生きるための仕事が必要だった。 一日、足を棒にして歩き回った。職安には、同じような年齢のものが群れていた。友人、知人を訪ねたが、みんな自分のことで精一杯であった。9年間にちょっとでも手を染めたところも行ってみたが、一段と深まった不況のせいか、これといった仕事は見つからなかった。 遅い時間になって家に戻った。窓に灯りが見えた。 玄関に入ると、姉娘がいた。いや、飛び出してきた。泣きながら堅く握った両のこぶしで、私の胸を叩きまくった。 私は疲れて眠くて仕方なかったのに、娘は泣いたり笑ったりを続け、なかなか寝かせてくれなかった。 生きるための仕事は容易には見つからなかったが、生きていることを証明する仕事はすぐに見つかった。 「空いた時間に、お茶を飲んで話をするだけでいいんですよ」 ひとり暮しや寝たきりの老人の、いわば友達になる。 なにか、ボランティアを、と申し出た私に、社会福祉協議会の役員を兼ねる民生委員が割り振ってくれた仕事だった。 無償の奉仕活動だから、あまり負担になっては…と言っていたが、やってみると思いのほかきつい仕事であった。 同じ話を何十回も聞かされることは、正直言ってうんざりするが、何とか我慢できる。が、だからと言って、気のない返事ばかりしていると、年寄りたちはすぐに心を閉ざしてしまう。義務感や、哀れみの気持ちでは、とうていなし得ない激務であった。 受持ちの何人かと、繰り返し話をしていて、私はふと気がついた。 わずかな年金を頼りに、ただ生きているだけ、と思われる年寄りたちが依然として明日への情熱を失っていないことに。 ただ生きているだけだった母。疎ましく思い、憎みさえした母。 その母を失った時の寂寥感と孤独感。ただ食べて行くだけ、生きて行くだけのために戦った日々が、考えてみたら私の人生の中で最も充実した時期であった。 そしてその日々は、実は母もまた戦っていた事に私は気づかなかった。 生きるための仕事は、依然として見つからない。 が、私には恐れはなかった。むしろ、明るく輝き始めた明日の光に向かってふつふつとこみ上げてくるものを感じていた。 |