裏街悲歌


 「はるちゃん、いまのお客さんから、これ」
 店長が、レジから数枚の百円硬貨を出して春恵に握らせた。深々と頭を下げて受け取ったが、気が重かった。先輩のおばさんたちの怨念のこもった視線を背後に感じたからだ。

 ここ、東京・池袋の、場末のモツ焼屋で働きはじめてからまもなく二ヶ月になる。安いことだけが取り柄の居酒屋だから、店も薄汚いし、お客さんも薄汚れたのが多い。
 安いモツ焼やモツ煮込みを、安い焼酎で流し込んで、うすっぺらい財布からなけなしをはたいて行く。あとは電車賃くらいしか残らないだろうに、お客さん達は割と気前がいい。
 「つりはいいよ。あの姐さんにやっとくれ」

 果てしもなく広い東京で、仕事はすぐに見つかると思っていたが、いかがわしいところを除けば、春恵のように身許のはっきりしない者が働けるところはほとんどなかった。
 《女店員募集》の張り紙を見て飛びこんだこの店にしてから、その日のうちに働き始めたが、「あとで出してね」と、住民票の提出を求められている。
 どうしても出せ、と言われれば、店を辞めるしかない。
 が、店長は、事情を察してか、単に忘れているのか、その後、春恵に住民票の要求はしなかった。

 一生懸命働けば、きっとわかってくれる…… それが、春恵の哲学だった。

 そう若くもなく、美人ともいえない春恵だったが、寡黙でこま鼠のように働く姿は誰からも好感が持たれ、チップを置いて行く客が多くなった。
 春恵はかつて、ある温泉地の老舗旅館で仲居をしていたことがある。
 そのときの経験では、チップと言えば千円札が単位で、2〜3千円は当たり前だった。そのチップはすべて若女将に預け、後日、すべての仲居に平等に配分されたものである。
 それがここでは、お客さんに言われた通りに渡すのがしきたりだったから、人気者の春恵は、他のおばさんたちよりはるかに多い副収入を得ることが出来た。もっとも、はるかに多いといっても、ここでは単位が十円、百円硬貨だから、たかが知れている。
 とはいえ、ここで働く安い時給のパートのおばさんたちにとっては、これは大事な収入源であった。それを新参者の春恵に掠め取られてしまうとあっては穏やかではいられないのも当然だった。

 片付けを終えて店を出るのは、12時過ぎである。
 チップが多かった日はとても疲れる。忙しいからではない。忙しさでいうなら、温泉旅館の仲居の方がずっと忙しい。チップが多い日は、おばさんたちの激烈ないじめにあうから、気骨が折れるのだ。
 今日も、とても疲れた。
 「ハルエ! イッショニ、カエロ!」
 店を出て、ゲロや小便の匂いの立ち込めた街に出ると、待っていたようにジニーが現れた。フィリピン人で、春恵のアパートの隣の部屋に住んでいる。6畳一間の、古い木賃アパートで、春恵は一人だが、ジニーは仲間四人と同居している。仕事は踊子という触れこみだが、実際は「バイシュンヨ」と、ケラケラ笑いながら、ジニー自身が打ち明けた。
 ジニーは春恵にとって、東京でたった一人の友達であった。
 仕事がなくて食うや食わずでいたとき、「タクサンツクリスギタノ……」といって食べ物を持ってきてくれた。
 誰にも頼れないと思っていた大都会で、相手を傷つけまいとする思いやりをもって救いの手を延べてくれた異邦人、それがジニーだった。

 「どうしたの? こんな早い時間に……」
 ジニーの帰宅時間は通常、明け方だった。なにかあったのかな。
 「マリア、ビョーキ。クスリ、ホシイ」
 同室の仲間が熱を出して寝ているという。カタコトの日本語は話せても、文字は読むめないから、薬局で必要な薬を買うことができないのだ。
 病気!
 住民登録がなく、健康保険証を持たないものにとって、これほど厄介なものはない。
 それは、春恵自身が実感していることだった。
 まして、ジニー達は、いわゆる不法滞在者だ。ビザの期限はとうに切れ、パスポートも怪しい世界の管理者に預けっぱなしだという。
 誰にも頼ることは出来ない。すべて、自分で解決しなければならない。

 マリアの病気は、売薬で何とかなるような状態ではなかった。
 火を吹くような高熱で、ほとんど意識がなかった。
 「病院へつれて行かなきゃ! このままでは死んでしまうわ」
 「ビョーイン、ダメ! オカネナイ! ニューカン、ツカマル!」

 ジニー達にとって、入管は死よりも恐ろしい存在らしい。
 春恵は結局、マリアを自分の部屋に移し、ジニー達には出てこないように念をおして救急車を呼んだ。

 「こんなになるまで、何故放っておいたいたんだっ!」
 春恵は医師に怒鳴りつけられた。「同室の友人」と説明したので、これは叱られても当然だった。
 肺炎だという。死ぬかもしれない、といわれた。
 懸命の治療が行われ、「あとは本人の生命力」といって医師は去った。
 春恵は、病室の外のベンチで待った。入室を禁じられたからだ。
 ジニーに病状を知らせたいと思ったが、アパートには電話がないので連絡をとるすべはなかった。ここは春恵が最後まで責任を持ってマリアを守らねばならなかった。

 健康保険証を持たず、外国人であり、身許もはっきりしないということで、病院は当然、警察に通報した。
 予想したことではあったが、警察官が来たとき、春恵は心臓が飛び出しそうになった。自分のことではないとわかっていても、どんなことから自分の身許が追求されるか知れない。

 「ほんとにここで、同居していたのかね?」
 マリアの身許を確認する必要がある、ということで同行してきた警察官は、春恵の部屋を眺め回してあきれ返った。
 スーツケースと若干の衣類のほかには、食器が数点あるだけで、家具類は全くなかった。
 マリアのものは、あわてて運び込んだものだけしかなかったし、春恵はもともとカバンひとつで「引っ越してきた」し、いつまた「引っ越さねば」ならないかわからなかったので、布団以外には、持ち出せないものは買わなかったからだ。

 ジニー達は、消えうせていた。
 家主や、管理を請け負った不動産屋も事情を聞かれたが、保証人も求めないこの手のアパートでは、入居者個々の事情などわかるはずもなかった。
 マリアは、入院したまま、入管に管理されることになった。
 フィリピン大使館からも人が来たが、マリアという名前しかわからないのではほかに手の打ちようもなかったようだ。
 春恵は、身の回りの世話をすることを願い出て許された。

 マリアが回復し、入管に身柄を拘束された日、事情を聞きたいので警察署に来るように、との命令とも要請ともつかぬ通知を無視して、春恵は上野駅から北へ行く電車に乗った。
 この間、警察と接触しすぎた。いつ「××純子だね」と本名で呼ばれるか、ハラハラし通しだった。そうなったら… それはそれで仕方ないが、何も自ら警察に近付くことはない。

 行くあてはない。でも、なんとかなる。今までずっと、何とかなってきたのだから……。
 「イッショケンメイ、ネ」
 電車のドアがしまる寸前、一人見送りに来たジニーが抱きついてそうささやいた。