古湯悲歌


 「帰ってきちゃ、ダメよ。荷物はまとめて後で送ったげる。あの人の傍を、絶対に離れちゃダメ。……幸せになってね」
 老女将は顔を覗き込むようにしながらそういって、春恵の背をやさしくなぜた。
 春恵は深々と頭を下げ、黙ってタクシーに乗りこんだ。
 運転手は、山代に居る間に仲良くなったヒロちゃんだった。ヒロちゃんは、春恵が今日、東京へ行くと聞いて、小松空港までは自分が送ると言い出した。
 仲良くしてくれた若女将や、同輩の仲居さんたち、板前さんや男衆が、みんな出てきて春恵を送ってくれた。
 みんないい人たちだった。
 できることなら、ずっとこのままこの人たちに囲まれて生きてゆきたかった。

 「ほんとは、俺んとこへ嫁に来てもらいたかったんだ。でも東京のその人って良い人らしいから、ま、しょうがないか」
 いつも軽口を叩くヒロちゃんが、ゆっくり車を走らせながら、ぽつんとそう言った。
 ヒロちゃんの気持ちは、ずっと前からわかっていた。
 ずっとこの町にいられるなら、嫁には行かなくても、ヒロちゃんとは深くなっていただろうと思う。

 山代には何年いたんだろう。春恵は、記憶をたどりながら指を追って数えてみた。
 はじめてこの町に来たのは、薬王院の紅葉が燃えるように色づいた頃だった。だが、春江には紅葉を鑑賞している余裕は無かった。誰ひとり自分を知るもののいないこの町で、住むところと仕事を探すのは容易ではなかったからだ。

 「ヒロちゃん、ちょっと停めて」
 ちょうど通りかかった「男生水」(おとこしょうず)のところで、車を停めてもらい、おいしい湧き水を一口のどに通した。
 持ち金が底をつき、行き倒れ寸前、飢えをこの水を飲んでごまかしているところを、たまたま水を汲みに来た近くの九谷焼の窯場の人に助けられたのだった。

 寒い冬は、その窯場で雑用をさせてもらって凌いだ。
 住民票を持たず、過去も親元のことも話そうとしない春恵は、当初、ただの厄介ものであった。だが、寡黙で、人の嫌がる仕事も率先し独楽鼠のように働く姿は、すぐに人の認めるところとなった。
 大堰宮の桜の便りが伝えられようになった頃、春恵は、窯の主人の口利きで老舗旅館「白銅屋」の下働きとして住み込みで働くようになった。

 ここでも春恵の骨惜しみをしない働き振りがすぐに認められた。
 長年、多くの男女を使いこなしてきた老女将の目が、暗い影を背負ってはいても誠を失っていない春恵の本性をすぐに見ぬいていた。
 しばらく下働きをしたのち、仲居になって座敷に上がるようになった。


 車は、名残を惜しむようにゆっくりと走った。
 十分に時間の余裕があったためだろうが、ヒロちゃんの心のためらいを写しているようでもあった。

 羽田へ向かう飛行機は、春恵を乗せて、定刻に飛び立った。
 締切り時刻ギリギリまで、春恵は搭乗手続きをためらった。ヒロちゃんがつきっきりでなかったら、春恵はこの飛行機には乗らなかっただろう。


 一年ほど前のことであった。
 白銅屋は、加賀市内や周辺のいくつかの会社の賓客接待用の割烹旅館として使われているが、その一つから長期滞在の客を預かった。某大手企業との合弁事業の総責任者で、東京から来た大切な客だという。
 春恵は、その部屋係を受け持った。

 その客が、事業の方は半年足らずで終わって引き上げたのだが、改めて自費で泊まりに来て、「後添えだが」と春恵に結婚を求めてきた。
 春恵は何も答えなかった。春恵からの返事がないため、客は、老女将に話を通してきた。
 老女将は、春恵を高く評価していた。ただの従業員、仲居ではなく、実の娘である若女将と同等に考えていた。
 だから、興信所に依頼して、客の身元を徹底して調査した。

 客の話にはなんの嘘も、裏もなかった。家族関係も、経済的にも、老女将が自分の娘を嫁に出すつもりで考えて、良縁と判断した。
 老女将は、「あなたの気持ち次第ですよ」と、春恵に言った。春恵はしばらく考えてから「お任せします」と答えた。
 話はとんとん拍子に進み、とりあえず春恵は東京に住むことになった。

 雲が、飛行機の下に浮かんでいた。
 初めて乗る飛行機からの風景だが、春恵の心は弾まなかった。
 さよなら、山代…… 老女将さんに言われなくても、もう山代に戻る気はなかった。戻れるはずもなかった。

 老女将が自分にかけてくれた暖かい気持ちは十分にわかっていた。わかっていたから、勧めにしたがって、この話に応じたのだが、春恵には結婚できない事情があった。

 春恵は九州のK市で生まれ育った。
 何事もなければ、〈彼〉と一緒になり、今ごろは何人かの子供に囲まれて、K市で暮らしていたはずだった。
 二人の間に何があったのか、誰も知らない。
 ある日突然、Kの町から二人の姿が消えた。
 駆け落ち、とうわさされたが、駆け落ちをしなければならないような事情はなにもなかった。

 加賀の名湯山代温泉に現れた時、春恵は一人だった。
 〈彼〉はどこに行ったのだろうか。

 東京でしばらく過ごしてから、あの人とともにK市へ行くことになっていた。春恵の両親に会い、入籍のための書類を整えるのが目的であった。

 「老女将さん、ごめんなさい。K市へは、行かれやしない……」
 春恵はつぶやいた。隣席の男が、怪訝な顔をして春恵を見た。
 眼下には、早くも広い東京の街が広がっていた。飛行機は、ぐんぐん高度を下げて行った。

 あの人が、到着出口のまん前で待っているのが見えた。
 春恵は柱の陰に身を潜め、時の過ぎるのを待った。身を隠せなかったら、別の機会を待つつもりだった。
 小松便の乗客がすべて去り、次々と各地からの便が到着したが、春恵は動かなかった。

 老女将さんがいう通り、あの人は誠実な人だと思う。好き嫌いをいう歳ではなかったが、聞かれれば好きだと答えられる人だった。
 ヒロちゃんだって、すごく良い人なんだ。そういう人と一緒になって、幸せになりたいと自分でも思う。
 でも、それはできない。

 ふるさとの、あの山間で、多分いまも眠っている〈彼〉のことを思うと、わたしは幸せになってはいけないんだ。
 〈彼〉の死体は、どうなっただろうか。発見されていれば、春恵は警察に追われる身である。発見されていなくても、春恵が現れれば当然〈彼〉の行方を追及されるだろう。

 捕らえられるのが怖いわけではない。
 この国で、身許を明かさないで生きて行くのはとても難しい。仕事はないし、健康保険がないから絶対に病気になることができない。
 いままで何度も警察へ行こうと思った。なにもかも話して、罪を贖いたいとも考えた。
 だがそのたびに、田舎町でひっそり暮らしているであろう父母が思い出された。春恵の無事を祈っているであろう父母の前に、殺人者となって帰ることはとうていできやしない。


 あの人が去るのを見定めて、春恵は柱の陰から人ごみに身を移し、初めての街、東京へ消えて行った。

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