紅  蓮


 「おばちゃん、ねえ、おばちゃん……」
 静かに、やわらかく、暖かい声が聞こえました。
 振り向くと、ベッドの端に4〜5歳の女の子が掛けていました。両手をベッドに突いて身体を浮かせ、両足をぶらぶら揺らせています。かわいい真っ赤なブーツが光っていました。
 「ねえ、ねえ、またパパのお話をして?」

 笑顔の愛くるしいこの子は、毎夜やってきて、父親の話をするようせがみます。パパのひととなり、くせなど、何でもいいんです。話してあげると、ひとしきり楽しそうに聞いたあげく帰ってゆきます。
 パパが、大好きだったんでしょう。

 この子のパパは、遠い世界で暮らしています。
 この子にとっては思いもかけぬ出来事で、大好きだったパパと離れ離れになってしまいました。
 パパと暮らした楽しかった日々の思い出に、この子は浸りたいのでしょう。


 でも、この子にとってはすばらしいパパであっても、ママにとってはいい夫ではなかったようです。

 パパには愛人がいました。
 パパは愛人に愛を告白し、結婚を誓いました。
 「愛のない生活には耐えられない。妻とは別れる」
と。
 よく聞く男のせりふでしたが、愛人は、この人は違う、この人は本心から自分を愛し、結婚を考えている、と思っていました。

 愛人は妊娠しました。
 自分の身体の深奥に、彼の愛が結実したことを知ったとき、愛人は幸せの絶頂を感じました。
 彼は子供好きでした。近くの公園で、よその子を抱き上げたり、母親に抱かれた赤ちゃんをあやしたりしている姿から、愛人はそう感じていました。

 彼には、妻との間にまだ子供がありませんでした。
 あんなに子供が好きなのに、夫婦には子供がいない。その事実は、「妻との間は冷え切っている」と言う彼の説明と合致していました。

 愛人は、妊娠したことで、いよいよ彼と正式に結婚できる、人に後ろ指を指されずに並んで歩ける、希望に満ちた日々がやってくる、と考えました。
 それは、おそらく男には理解し得ない「母親になる喜び」とあいまって、まさに誰よりも幸福な瞬間でした。

 しかし、愛人の幸せは、彼に妊娠の事実を告げたときに終りました。

 「迷惑はかけない。どうしても産みたい」
 そう懇願する愛人に、しかしパパは、始末するように厳しく迫りました。
 「いまはだめだ。妻との離婚話が山を迎えている。いま君とのことが向こうにばれ、子供までいるとわかったら、すべてが水の泡になる」

 心の嵐とは裏腹に、あっけないほど簡単に新しい生命は消えてゆきました。

 病院の冷たいベッドを降りて、愛人は、ひとりぽっちでマンションの部屋に帰りました。
 つらい思いをした愛人の心を癒すには、彼の暖かい抱擁が必要だったのですが、愛人を抱きしめたのは、部屋の凍りつくような冷たい空気だけでした。


 「こんなことをしてちゃいけない。子供を産めない身体になるよ」
 3度、4度と、妊娠するたびに手術を申し出る愛人に、お医者さまがそう言いました。
 「妊娠して困るなら、ちゃんと予防しなくちゃだめだ」
 わかっているが、彼がそれを嫌うのだ、とは愛人は言えませんでした。

 そして、木枯らしが吹いて、落ち葉がマンションのベランダを埋め尽くした日、愛人は救急車で病院へ運ばれました。
 「だから言ったじゃないか」
 お医者さまが怒りをあらわにして愛人をなじりました。

 愛人は子宮の摘出手術を受けました。今度ばかりは、手術が終ってその日のうちに帰るわけにはいきません。
 「旦那さんはどうしたんだ。来ないのかね。言ってやりたいことがある」
 愛人の入院中、お医者さまは、毎日、そういって彼を待っていましたが、彼はついに一度も病院に来ませんでした。

 一ヶ月ほど後の寒い冬の日、愛人は退院しました。
 「生活を変えて、自分を大切にしなさい」
 退院の挨拶に行った愛人に、お医者さまはそう言いました。お医者さまに言われるまでもなく、愛人は、すでに彼とのただれた生活を清算する決心をしていました。
 「だって、わたしはもう女じゃないんだもの……」

 病院を出た愛人は、ほとんど無意識に彼の家に向かいました。
 いいえ、彼に会うためではありません。二度と会うつもりはありません。
 彼には連絡をせず、マンションも引っ越すつもりでした。

 はじめて、彼の家を見ました。
 愛が無く、索漠としているはずの家は、しかし、冬の日差しに照らされてあたたかそうに輝いていました。
 手入れの行き届いた庭には、温室が造られており、冬だと言うのに可愛い花が咲き乱れていて、満たされた愛を誇示していました。

 犯すことのできない幸せな家庭…… 愛人はそれを感じざるを得ませんでした。

 終った…… いいえ、もともとなにもなかったんです。
 はかない夢でしかなかったんです。
 彼との思い出が、すべて涙にかすんでゆきました。

 帰ろう。
 でも、どこへ帰ればいいのでしょうか。愛人にはボロボロに傷ついた体と心を癒す家はどこにもありませんでした。


 家のドアが開いて、彼が出てきました。
 4〜5歳の女の子を抱いていました。

 愛人の身体が凍りつきました。
 初めて手術をしたときのことが思い出されました。

 「見ないほうがいい」
 お医者さまはそう言いましたが、愛人は、彼との愛の結晶を確かめずには居れませんでした。
 無機質なステンレスのトレーに載せられた小さなちいさな塊り……
 塊りは、見る間に大きくなり、彼の腕に抱かれた女の子と重なりました。

 あの時、ちょうどあの時、二つの生命が誕生していたのです。
 ひとつは太陽の下で大切に育てられ、もうひとつは誰も知らない闇の中へと消えていったのでした。

 彼が何か言って、女の子の頬にキスをしました。女の子も彼の首に抱きついてキスを返しました。
 彼は満足そうに笑い、女の子を下ろしました。
 女の子は真っ赤なブーツを履いた足で、しっかりと大地に立ちました。
 ……あの塊りは、まだ足もありませんでした。まだ人間の形にもなっていなかったのに。

 再び玄関のドアが開いて、彼のかばんを抱えた女が出てきました。
 出張のとき、彼がいつも持ってゆくかばんです。そのかばんを持って、いつも彼は愛人の部屋に来たのでした。
 女が、彼にかばんを手渡しました。
 かばんがなくなって、女のお腹が大きく膨らんでいるのが見えました。

 その後のことをほとんど覚えていません。
 愛人の手にライターがありました。いつか彼が愛人の部屋に忘れていったライターです。それは、彼と愛人の結びつきを示す唯一の形のあるものでした。
 ライターの小さな炎が家の外壁を焦がし、瞬く間に燃え広がりました。
 人々の怒号が響き、消防車、救急車、パトカーが何台もやってきて、付近はごった返していました。

 炎の中でわたくしも死のうと思ったのですが、火傷を負っただけで助け出されました。
 彼の家が全焼し、家の中にいた娘さんが逃げ遅れて焼死したことは、警察官から聞かされました。
 それを知ったとき、わたくしは、自分の帰るべきところを悟りました。

 未来永劫、悔恨と贖罪に明け暮れる無間地獄……

 「おばちゃん、ねえ、おばちゃん」
 きょうもまた、独房の壁に女の子の声が響きます。