冤 罪 |
「来週、鈴木が出てくるんですって……」
「鈴木って?」 どう応えていいか迷ったので、峰村はとりあえずとぼけて聞き返した。鈴木といえば、この場合、頼子の夫だった鈴木雄二以外に知り人はいない。 「あら」 頼子は謎めいた微笑を浮かべて、峰村の顔を覗き込んだ。 「やっと忘れてくれたのかしら?」 鈴木雄二は、いま拘置所にいる。 強盗殺人、有人建造物放火などの罪に問われ、死刑が確定した。 一年前の事件だ。あるパチンコ屋の景品交換所が襲われた。犯人は店員を刺し殺して金を奪ったうえ、放火して逃走した。 その容疑者として捕まったのがパチンコ屋の常連客の鈴木雄二である。 目撃者がいた。 目撃者は、パチンコ屋の裏手にある景品交換所方面から駐車場へ走り去る鈴木雄二の姿を見たと証言した。その直後に出火に気づき、火事と走り去った男を結びつけて考えたものだった。 この証言により警察は鈴木を逮捕したわけだが、目撃者は「確信がないから」と法廷証言を拒否した。証拠は他にもあったから、検察官は、目撃者を強いて法廷に立たそうとはしなかった。もしこの時、検察官が強引に目撃者を証言台に立たせようとしていたら、事件は違う方向に導かれていただろう。 証拠は、景品交換所から奪われた紙幣だった。鈴木雄二の財布の数枚の紙幣から殺された店員の指紋と血痕が検出された。 決定的だったが、鈴木は犯行を否認した。 紙幣は、景品を交換して受け取ったもの、と主張した。事実、この日、鈴木がかなりの出玉を景品に交換したことは店員により確認された。ただし、鈴木が交換した景品は、せいぜい2万円ほど。いっぽう、指紋や血痕により盗難品と推定された紙幣は9枚だった。その差額について鈴木は「ちょっと多いと感じたが、くれるものはもらっておけと思った」と陳述した。 「出てくる、ってどういうこと? 死刑には仮釈放ってないだろう?」 「知らないわよ。ともかくそういう通知があったの」 変だ。 懲役刑の場合には、受刑中の態度などで、更生したと認められれば一定期間の仮釈放の後、刑期を短縮して社会復帰ということになる。 死刑の場合には、基本的に判決確定から6ヶ月以内に法務大臣の命により刑が執行されることになっているが、現状では、ほとんどの死刑囚がこの期間を超えて拘置されているのが実情だ。それはともかく、この6ヶ月、という期間は言ってみれば刑執行の順番待ちのようなもので、刑そのものではない。したがっていくら長く拘置されていたとしても刑に影響を与えることはない。 これを裏返すと、順番待ちの期間は、刑を受けているわけではないので、拘置所にいる必要はない。自宅で待っていたっていい、ということになるが、これはまあ、死刑囚が町をぞろぞろ歩いていたのでは社会の安寧が損なわれる、ということで拘置所にとどめ置かれることが法に定められている。その代わり、拘置所での生活は、刑ではないから外に出ることこそ出来ないが割合に自由だ。 外には出られないはずの鈴木が、出てくるという。 これは確かに変だ。 鈴木は犯行を否認している。再審の請求もしているらしい。再審が決まったのか。しかし再審をするにしても、無罪判決が出るまでは容疑者には違いないから、拘置を解かれることはない。 「通知って、どういうもの? なにか文書が来たの?」 「ううん、警察からの電話」 「でも鈴木との離婚は、本人も承知して成立しているんだろ? 関係ないじゃないか」 「でも鈴木は他に行くところがないから、気をつけろって言うのよ」 これも変だ。 仮出所の場合は、事前に出所後の落ち着き先を決めておかねばならない。たいがい親兄弟妻子などの身内の元に身を寄せて、裁判所の指定する付近の保護司と定期的に連絡を取り、社会復帰の状況を報告しなければならない。 仮出所のない死刑囚が、落ち着き先もなく野に放たれるのか。これといった落ち着き先もなく出所できるのは、刑期を満了した場合のみだ。死刑囚の場合には、刑期の満了とは、骨になったことを意味する。 もう一つ、受刑者が野に放たれるケースがある。恩赦や大赦が発令された場合であるが、これも受刑期間や受刑態度が考慮され、無原則に放免されるわけではない。 なにか想定外のことが起こったのか。それとも頼子が嘘を言っているのか。 頼子とは、行きつけのスナックで知り合った。 「峰村さん、こちら、こんど入ったユキコさん、この仕事は初めてなんです。よろしくね」 ママが紹介してくれたが、そのときは頼子に特に興味はひかれなかった。水商売は初めて、と紹介されたとおり、何事につけ気が利かなかった。若くもなく、とりたてて美人というわけでもない。客商売だというのに地味な服装で、華やかな雰囲気がなく、しいて言えばその点が目立った程度だった。 ただ、知的ではあった。 後に知ったことだが、本をよく読んでいるらしく、文学や歴史の知識は豊富だった。かわりに、スポーツ芸能関係の知識はほとんどなかった。たとえば近頃、新聞テレビで話題になって、社会現象とまで評されたボクサー一家のスキャンダルについてもまるで知らなかった。 要するに、きわめてまじめな文学少女といったところで、話題らしい話題がなく、水商売には不向きな女だった。見ていると、面白みがないからどの席についても次第にはじき出され、一人でポツンとしていることが多かった。 飲み屋が女を置くのは、酔客の座を盛り上げて売り上げのアップを図るためだ。男の好みはさまざまだから、大体はどんな女でもいい。暗ければ暗いなりに、そういう女を好む客もいるものだ。 ママはそう考えて、ユキコを峰村にぶっつけた。 峰村には仲間がいない。いつも一人でやってきてカウンタの片隅でひっそりと飲んで帰って行く。カネ払いは悪くないので、もう少し絞ってやろうと考えて、隣に女を座らせてみたが、変わらなかった。美人をあてがっても、にぎやかな女をぶつけても同じだった。必要最小限の会話しかしないため、女のほうがしらけてしまう。 どうせしらけるなら、初めからしらけている女がいいかもしれない。これでダメならユキコはクビだ。表の「女性募集」の張り紙を見てやってきた女だからしがらみはない。 そう考えたのだが、ママの狙いは的中したようだった。 峰村とユキコ。初めはカウンタに並んで座っているだけだった。 時折ユキコが酒を注ぐだけで、話はほとんどしなかった。大音量のカラオケ、酔客の取り留めのない会話、ホステスたちの嬌声などが作り出した独特の音場の中にあって、そこだけ次元の違う空間が浮かんでいるようであった。 「ダメかな」 数日後、ママがユキコの解雇を考え始めたころであった。ようやく峰村とユキコの異次元空間が揺れ始めた。 キッカケは、暇をもてあましたユキコが、手遊びに持ち出したルアーの疑似餌だった。 「釣りをやるの?」 「やらないわ。これは死んだ亭主のよ。釣りは亭主の趣味」 「ほう。形見、ってわけか」 「そんなんじゃなくて」 ただ綺麗だから仕立て直してキーホルダーにしているという。 「旦那、なんで死んだんだい?」 「この場合、病気って言えばいいんでしょうけどね。でも実はまだ生きてるの」 「なんだ、それ?」 「シケイシュウなの」 カラオケの喧騒の中で、ユキコが声を潜めて言った。 「内緒よ。ママさんに知れたらクビになっちゃうわ」 クビにはならなかったが、まもなく頼子は店をやめた。水商売は不向きだとわかったから、というのが理由だった。店はやめたが、峰村との交際は続いた。峰村が求めたからだ。 峰村は体も求めたが、古いタイプの女なのか、頼子はたくみに避けて許さなかった。 峰村は紳士だった。その関係は出来なかったが、恋人同士のような関係が続いた。 「弁護士に聞いてみれば?」 「なにを?」 「鈴木が出てくる理由さ」 「気になるの?」 「当然だろう? 出てきた鈴木には女房のところしか行くところがない」 「別れたのよ、本人も同意して」 「なら、なぜ警察が通知してくる? 他に行くところがないんだろ? 必ず来るさ」 「いやだわ」 「君の部屋に、俺が行こうか?」 「とか何とか言って、ドサクサ紛れに潜り込もうってこと?」 「ばれたか。あはは」 笑いに紛らせたが、峰村にはこれ以上頼子との関係を深める気はなかった。必要な情報さえ取れれば良い。そのために若くもなく、大していい女でもない頼子に接近したのだ。 「国選弁護士よ。裁判所の言いなりで、鈴木の無罪主張なんて知らん顔だったわ」 「でも確定した死刑囚が出てくる理由くらい知ってるだろう」 これは何がなんでも知る必要があった。そのためにこそ、頼子と交際してきたのだ。 鈴木雄二の逮捕のきっかけを作った目撃者は、峰村だった。 あの日。 峰村は景品交換所の中にいた。すでに係員を刺し殺し、灯油を撒いて火をつけるところだった。 そこへ人が来た。鈴木雄二だった。見られたと思ったが、景品交換所の、映画館の切符売り場のような小さな穴では中の様子はわからなかったらしい。その周辺部分はマジックミラーになっていて中からは外が良く見えるのに。 差し出された景品は、釣り針のセットだった。十数個あった。@p−交換率を知らなかったから、峰村はとっさに手許にあった札束から数枚を抜いて小銭とともに差し出した。札束を手にして鈴木雄二はなにか言いたげだったが、結局それをポケットに押し込んで行ってしまった。 火をつけて外に出たとき、駐車場から鈴木雄二の車が走り去るのが見えた。注意深く辺りを見回したが、見ているものはいなかった。あの時、鈴木雄二を犯人に仕立て上げるシナリオを思いついたのだった。 シナリオ通り、鈴木雄二は逮捕され裁判にかけられることになった。 逮捕された後しばらくは、新聞やテレビで極悪非道の犯行の情報を知りえたが、まもなく報道は途絶えた。マスコミがこの事件に興味を失ったからだ。特に裁判の途中経過など、特別なことがない限り、ほとんど報道されない。 峰村は情報に飢えていた。その後の経過を知りたかった。 景品交換所にあった金は思っていたより少なかった。が、地道に働いていては得られる金額ではなかった。借金返済などにすぐにでも使いたかったが、足のつくことを恐れて我慢し続けた。血のついた紙幣は一枚一枚洗い丁寧に乾かして段ボール箱に詰め、天井裏へ押し込んである。 裁判の傍聴に行ってその後の経過を知りたいと思ったこともあったが、証言を拒否した目撃者が事件に興味をもったとなると、ひょんなことから火の粉をかぶらぬでもない、と考えて自重した。 それほどに慎重に事を運んできたのだ。もう少しの間、あとちょっと、鈴木の刑が完了するまで、情報が欲しい。そのための頼子だった。 あの飲み屋で、女を物色していたわけではない。 ところがママのヤツ、何を勘違いしたのか、こともあろうに頼子をあてがったきた。ま、これはこれでよかった。おかげでその後の捜査状況のほとんどを頼子から手に入れることが出来た。さらに鈴木雄二が拘置所を出てくるという、とんでもない情報も得られたのだ。 偶然とはいえ、うまい情報源を手に入れたものだ。頼子とはもうしばらくつながりをもっておこう。なぜ死刑囚が出所してくるのかがわかるまで。そして鈴木雄二の死刑が執行されるまで。 「何を考えているの?」 「いや鈴木雄二がなぜ出てくるのかをね」 「そんなに気になる?」 「気になるさ。君が死刑囚と縒りを戻すんじゃないか、とね」 「冗談はやめて。鈴木雄二が出てきて困ることはないでしょ?」 「困りはしないが、なぜ出てくるのか知りたい」 知りたい。知らねばならない。この場合、鈴木雄二の動きは警察の動きそのものだからだ。つまり警察が、死刑判決を覆すほどの何かを掴んだ、ことに他ならない。何を掴んだのか。 死刑囚が拘置所を出られる理由はたった一つしかない。 明白に無実と決まった場合だ。 この場合でも無条件で出所できるわけではない。再審で無罪判決が出されるまで、拘置は続く。法制度を維持し、裁判所の威信を保つためだが、警察、検察側の事情もある。それなりの証拠に基づいて公訴を提起した以上、黙って敗北を認めるわけにはいかない。当然、真犯人の逮捕に乗り出すだろう。いまのところその動きは感じられないが、その情報が欲しい。 「やはり弁護士に聞いたほうが良いと思うよ」 「わかった。聞いておくわ」 頼子は答えたが、興味なさそうだった。興味はなくても良いが、放っておくといつになるかわからない、では困る。 「今すぐ聞くんだ!」 峰村の剣幕に驚いたのか、頼子は携帯電話を取り出してダイアルした。 「刑が執行されたんですって。出てくるというのは、お骨が返還されるって言う意味だったらしいわ」 緊張が解けた。なんだかわからないが、新証拠でも出て、再審が決まったのかと思ったが、これにて一件落着だ。 翌日、一番うるさいサラ金に借金を返した。 三日ほど後、いや四日だったかもしれない。頼子が自宅を訪ねてきた。 男が一緒だった。メガネをかけた貧相な中年男だった。 ふん、これが鈴木の国選弁護士か。もう弁護士には用事はない。 「用があるんじゃないかと思って」 連れてきたというのか。用はない。お前にももう用はない。 ゆっくりと、頼子がバッグから紙切れを取り出した。 「峰村次男、強盗殺人ならびに有人建造物放火容疑で逮捕する」 物陰から屈強の男たちが現れ、目にも留まらぬ速さで手錠を峰村の右腕にたたきつけた。 「き、き、君は・・・」 「警視庁特種捜査課警部、加納頼子」 「じゃ、鈴木雄二は・・・」 「一年前に釈放され、故郷に帰ったわ」 立ち去りかけた頼子が振り返って言った。 「あなたがお金を遣うのを待ってたの。ね。弁護士に用があるでしょ?」 |