守 鶴 坊 奇 伝 <真説・ぶんぶく茶釜> |
日はすでに落ち、山道は闇に融け込もうとしていた。木立の向こうには、仄かに灯りが見え、どうやら村がありそうだった。 旅の僧は、その灯りを目指して足を速めた。 「もしお坊さま。その道は危のうございます」 女の声に旅の僧は足を停めた。振り向くと、背負子を担いだ村娘が追ってくるところだった。 「先日の大雨で橋が壊れました。昼間なら通れますが、このように暗くなっては、危のうございます。ちょっと遠回りになりますが、山側の道をおいでなさいまし」 言いながら、追いついた村娘は先にたち、慣れた足取りで街道をそれて細い山道に進んでいった。 旅の僧は立ち止まり、目で村娘の背を追ってから首をかしげた。 「どうなさいました?」 僧がついてこないのを知って、村娘が立ち止まった。 「何故にそのような悪さをする?」 「は?」 「その山道は崖上に続くのであろう。そこから何人の人が落ちて死んだ? いや、お前はそうやって何人殺した?」 「殺した、などとおそろしい。私はお坊さまの難儀を救おうと……」 「だまれ!」 一喝した僧は、ひらりと飛び上がり、三間ほどの距離をひと飛びして降りたつや、間髪いれずに手にした錫杖を村娘の顔面に振り下ろした。 「ぎゃっ!」 頭を割られた村娘は、血まみれになって山の斜面を転がり落ちていった…… 「痛むか?」 額の痛みで意識が戻った。 目の前に旅の僧の顔があった。まあるいふくよかな顔だった。慈愛に満ちた目が微笑んでいた。 僧の背後には高い山がそびえ、空には満月がかかっていた。 谷川のほとりに寝かされていて、錫杖で打たれた頭の傷も、山を転がり落ちる時にできた傷も、きれいに洗われていた。傷口は薬を塗られ、柔らかい布で包まれていた。布は、僧が自分の衣を裂いたもののようであった。 「話はできるかな?」 「くをーん」 「よしよし。では話してみるがよい、お前の胸の奥にある、悪心の元になっていることを」 「をうぅ」 「おお、そうか。化装をしていないと人の言葉はしゃべれぬか。ははは。だが、私にはわかるぞ。私と話すときには言葉は無用じゃ。私は、地蔵。心を開き、念ずればよい。そうすれば私の心とひとつになって、人であろうと動物であろうと、草木であろうと理解し合うことができる。さあ、心を開いてみよ。まず、名前はなんと言う?」 「シカク」 僧の法力により、村娘の化装を解かれたのは狸だった…… シカク(四角)は生まれて間もないころ、母親を失い、父親に育てられた。 「人間は怖い生き物だから、決して近寄ってはいけないよ。お前のお母さんも人間に捕まって殺されたのだから」 そう言っていた父親が、人間の仕掛けたわなに落ち、殺されてしまった。 人間たちは、森の木陰で息を潜めるシカクの目の前で父親を裂き、肉を火で焼いて食べてしまった。 恐ろしい出来事だったが、シカクはただ恐ろしがって震えていたわけではなかった。 「戦ってやる! 殺してやる!」 シカクは、吹きこぼれる血の涙にかけて、悪魔のごとき人間を打ち滅ぼすことを誓った。 森の奥で、シカクは自分を鍛えた。人間への深い怨念に支えられて…… 数年後、シカクは猪のように逞しい身体の狸に成長した。そしてもうひとつシカクは、どんなものにでも姿を変えられる能力を身に着けていた。 シカクは人間との戦いを開始した。 女に化け子供に化け、木に化け山に化け、さまざまなものに化装して人間を騙し、死へと追いやった…… 「それで怨念は晴れたかな?」 地蔵がやさしくシカクに問いかけた。 「晴れはすまい。なぜならお前に殺された人間は、自分の罪業を知らないまま死んだのだから。知っていれば後悔もしようが、知らなければ謝る気も起きはしない。それにな、死んだ人間は、苦しみがない。生きていればこの世の苦しみにあえがねばならないが、死んでしまえば御仏の手の内で、むしろ苦界から抜け出たようなもの。お前の怨念に応えようがない」 「シカクよ、考えてみるがいい。お前の父母を殺した者たちが、それを悔い永く苦しんで初めてお前の復讐が成るのではないか? 人々が、すまなかったと手をついて、涙を流して詫びてこそ、お前の怨念が晴れるのではないか?」 「怨念を捨てよとは言わぬ、復讐をやめよとも言わぬ。怨念は、父母への思慕の裏返しだし、復讐はお前の生きる目的だろうからな。よい。人間への復讐を続けるがよい。ただし、憎しみを持って人を殺しても何の益もない。かわりに愛を復讐の道具としてみよ。苦しむもの悲しむもの、嘆くもの呻くものを助け、自らの道を歩む力添えをしてみよ。人はそのときに初めて己の罪業を知り、前非を悔いるであろう」 シカクには、地蔵の言うことが十分に理解できた。 これまで度々、自分が殺した者の妻や子が、悲しみ怒り、自分への復讐を誓うのを見てきたからだ。それはまさしく、自分自身の姿であった。哀れみの心で、ともすれば崩れ落ちそうになる復讐の意志を、父母への思慕をかきたてることにより固めてきた。それは憎しみに憎しみを積み重ね、果てしない無間の地獄をさすらうものの姿であった。 シカクは、地蔵に従うことにした。 「よしよし。では私の仕事とお前の復讐とは、意図することは違ってもやることは同じだ。私の手助けをしておくれ」 「手助けなどとんでもない。私は地蔵さまの下仕え。なすべきことをなんでもお命じください」 地蔵はにっこりと微笑み、シカクの肩を抱いて言った。 「愛するものよ。ただいまより、お前の名を守鶴と改める。鶴は古より、人の願いをかなえる鳥といわれる。鶴はまた、平和の象徴でもある。その鶴を守るもの、それがお前だ。この仕事を成し遂げた後、やがて来るべき世には、お前は私とともに天に上がるであろう」 「背中、流しましょう」 岩場の野天湯に身を沈め、星空を見上げていた大林正通は、突然声を掛けられたので、あやうく頭まで湯に滑り落ちそうになった。 星明りしかないこの時刻、人里はなれた山の湯にやってくる物好きはいないだろうと思っていたが、どうやら先客がいたようだ。 目を凝らし、闇を透かしてみると、浴槽の端の大きめの岩が動いた。 その岩が声の主のようだった。 泳ぐように近寄ってきた岩は、真っ黒に日焼けしたいかつい顔の中年男だった。頭を丸めているところを見ると、正通と同じ僧と思われた。 顔はいかついが、まあるい黒い目が人懐こそうだった。 岩は、正通の背中に回ると、毛むくじゃらの大きな手に手ぬぐいを絡ませて、正通の肩をこすり始めた。 「ま、待ってください。これでは畏れ多い。私は修行を始めたばかりの若輩者です。まず私の方から流させてください」 「いえいえ禅師さま。私は身分の低いものゆえ、どうかお気になさらずに。私にとっては、ひとつ湯に入れていただくだけで冥加でございます」 「禅師って、私はまだ修行を始めたばかりの雲水で、禅師と呼ばれるようなものではありません」 実際、大林正通は、もともと源土岐氏の武家の出で、出家して美濃の国、龍泰寺の華叟正萼禅師に師事し、現在、修行のため、諸国行脚の途中にあった。 「いいえ、大林正通さま。あなたは一寺を興し、やがては曹洞禅門の大寺のご住職となられるお方です。小さなことは気にかけず、ゆっくりお湯を楽しんでいてください」 驚いたことに、岩は正通の名を知っているばかりか、その将来を予見するようなことを言い出した。 何者だろう? いぶかしむ正通にはかまわず、岩は、太い指で若僧の肩をがっしりと捕まえ背中どころか足の指先まで、全身をくまなく丹念に洗い上げた。 身体の芯までしみこむ温かい湯と、強いもみ洗いによって、身体にたまっていた諸国行脚の疲れが垢とともに溶け出して、正通は陶然となった。 岩は、守鶴と名乗った。 所属する寺はなく、師は地蔵菩薩さま、といった。 湯から上がり、正通は湯宿の用意した洗いざらしの湯帷子に着替えたが、守鶴は、埃にまみれたままの、ぼろぼろの墨染めの衣をまとった。 あまりの見苦しさに、正通が自分の着替えを着るように勧めたが、守鶴は「なにこの方が楽だし、心が落ち着きます」と言って受け付けなかった。 翌早朝、旅支度を整えて、正通は宿を出た。 あたりは深い霧に覆われ、遠くに高い山が浮かんでいた。 あの山を目指してゆこうか。正通はそう考えた。 雲水には、行くあてはない。文字通り、行く雲、流れる水となって行脚を続けるのである。行く先々の自然に触れ人に触れ、見識を広め深めながら、ひたすら仏の教えを身体に刻み込んでゆく。 感じるままに路傍で、川岸で、あるいは山中で座禅を組み、深い思念の底に沈んで、悟りの境地を求めるのが修行である。 昨日は、厩橋(現前橋市)の街で、この伊香保の地に水沢寺(すいたくじ)という古刹があると聞き込み、足を向けたものであった。 水沢寺は密教(天台)の寺で、正通とは宗旨が違うが、同じ仏の道を歩むものとして手厚くもてなしてくれた。旅の疲れを取るように、と温泉を紹介し湯宿を手配してくれたのも、この寺の住職であった。 あたたかく迎え入れてくれるもあり、冷たく追い払われるもある。それが雲水だった。 「これより、お供をさせていただきます」 霧にまかれた山道を歩いていると、突然傍らの樹木がそう言って正通に並んで歩き始めた。 守鶴だった。 岩になったり樹木になったり、不思議な僧だった。 昨夜、湯から上がると、守鶴はいずれへともなく消え去った。 「一寺を興す」「大寺の住職になる」…… 正通は、その予言めいた話をもう少し聞きたいと願ったが、「いま話さずとも、時間はたっぷりあります」と笑って去った。 この日から半月ほど、若くてこぎれいな雲水と、いかつく小汚い雲水という不思議な二人連れは、上州赤城山のふもとの村々を歩き回った。 そして…… 応永33年(1426)春。 二人は、館林の街外れにいた。 「ここです。ここに寺を建てましょう」 守鶴がいった。 正通は、にっこりと微笑んで、傍らに咲いていた白い花を摘み、大地に挿していった。 「寺が建ちました」 掛け合い漫才のような二人のやり取りは、しかし僧籍にあるものなら誰でも知っている深い意味があった。 曹洞宗の宝典「従容録」に次のような記述がある。 「世尊、衆と行くの次で、手を以って地をさしていわく、この処よろしく梵刹を建つべし。帝釈、一茎草をもって、地上に挿んでいわく、梵刹を建つることすでに竟んぬ。世尊微笑す」 (お釈迦様は、弟子たちと歩いるとき、ふと立ち止まり大地を指差して「ここへ寺を建てるとよい」といった。供の中の帝釈天が一本の草を持ってきてそこへ挿し「これで寺が建ちました」と言うと、お釈迦様はにっこりされた) 二人の立っているところは、低地で、付近一帯は草生い茂る湿地帯だった。ふつう寺と言うものは、山中や、巨木に囲まれた地に立てられる。このような草深い野原に建てられる例は少ない。 にもかかわらず、二人の心は一致してこの土地にひきつけられる霊力を感じていた。 だが、言うまでもなく二人には、ここに寺を建てるだけの金はなく、また有力な後援者もいなかった。 二人は付近の町や村を歩き、善男善女のささやかな喜捨を得て、小さな庵を建てた。 庵には山号もなく、寺名も定まってはいなかったが、正通はここに居を定めひたすら禅の修業と、訪れる農民たちへの説法に明け暮れた。 守鶴はといえば、庵の脇に作った小屋に寝起きして、托鉢と農作業で正通の修行を支えていた。 誰が見ても、守鶴は正通の下僕であり、主人の生活を維持するため当然の仕事をしていたわけだが、正通は、守鶴を従者とは考えていなかった。いやむしろ、正通は守鶴こそ自分の師であるとまで考えていた。 だから、守鶴が自分の起居する場所として小屋を作ったときも、守鶴を庵の主として、自分が小屋に入ろうとまでした。だが守鶴は頑としてこれを受け入れなかった。 「一寺を興す」と守鶴は予言したが、庵はいつまでたっても貧乏な庵のままであった。 しかし、「下僕」の守鶴を師と仰ぐほどにへりくだり、付近の人々の悩みや苦しみに親身になって相談に乗る正通の人柄が好まれ、庵を訪れる信者の数が次第に増えていった。 こうして、なんと40年の歳月が経過した。 大林正通の存在は曹洞禅門本山の知るところとなり、応仁元年(1467)本山格寺院、相模の国、足柄の大雄山最乗寺の住職として招聘された。 これに前後して、時の城主、赤井正光が帰依、寺領として8万坪を寄進し、自ら開基大檀那として伽藍を建立。ここに、青龍山茂林寺が成った。 青龍山茂林寺が大林正通によって開かれてから約150年が経過した。 大林正通禅師は、もちろんすでにこの世にないが、禅師に従ってきた守鶴坊は、まだこの寺にいて、代々の住職に仕えていた。 茂林寺は、この間、三世蜜天和尚の代には、後柏原天皇の勅願所の綸旨を賜るなど、なお隆盛を極めた。 守鶴。 不思議な坊さんだった。 茂林寺の主のような存在だから、どこでも出入り自由だし、寺領内のどこにでも住まいを建てることができるのに、庫裏の裏手に、まるで犬小屋のような小さな小屋を建てて起居していた。 決して表舞台に立とうとしないので、茂林寺には守鶴という坊さんがいることは誰でも知っているが、その守鶴のことについて知っている人は誰もいなかった。 第一、茂林寺開山のときからなんと150年もこの寺にいるのに、そのことに気付くものはいなかった。代々の和尚にしてから、なにかにつけ守鶴を頼りにしながら、どういう経緯で、いつからこの寺にいるのかすら知らなかった。 守鶴は、もちろんこの寺のことなら縁の下の石ころの数までわかるほど、なんでも知っているし、よく経を読み、仏法についてもその知識の深さは住職を凌ぐほどだった。 だから、日常は下働きの僧として住職に仕え、修行僧の相談相手になり、また檀家や寺を訪れる善男善女の世話係をしているが、何か問題が起こったり、困ったことができると、誰もが守鶴坊に相談した。 そして守鶴は、どんな難題でも即座に解決した。 元亀元年(1570)夏のことであった。 七世月舟和尚の代のこと、この寺で「千人法会」が開かれることになった。千人法会というのは、千人の人(それほど多くの人)を集めて法話が行われることだが、準備をしている人々の間から、大変な問題が提起された。 千人もの人に、どうやってお茶を振舞ったらよいか、ということである。 第一それだけの湯を沸かす茶釜がない。 ひとつの茶釜で十人、いや二十人分の湯を沸かすとしても、五十個ほど茶釜が必要になる。とてもそれだけの茶釜を集めることはできないし、よしんば茶釜が集まったとしても、なんでもいいから湯を沸かせばいいと言うものでもない。 寺には清められた湯堂というものがあって、ここで沸かしたものでなければせっかく地方から集まった人々に申し訳が立たない。 困りはてた世話役が、守鶴に相談を持ちかけたところ、守鶴はにっこり笑って「まかせておきなさい」といった。 いよいよ千人法会の当日、人々が集まりだして、湯堂でやきもきしている世話役のところへ、守鶴がなんの変哲もない茶釜をぶら下げてやってきた。 茶釜の一個や二個なら、湯堂においてあるし、それでは足りないから頼んだのに…… 世話役は恨みがましく思った。 不思議なことが起こった。 守鶴の持ってきた茶釜は、いくら汲み出しても湯が無くならないのである。 次から次へ、千人の人々の喉の渇きを、守鶴の茶釜はひとつでまかなってしまった。 この茶釜は、「紫金銅 分福茶釜」と名付けられ、寺宝として今日まで残されている。 さて、茶釜問題が終わってから、さらに17年が経過したある冬の日のことであった。 寺の境内で、かくれんぼをして遊んでいた村の子供たちのうちの一人が、庫裏の裏手にある守鶴の小屋にもぐりこんだ。 このとき、守鶴は、小屋の中でまあるくなって昼寝をしていた。 昼寝をして、例によってかあさんの夢を見ていた。 不覚だった。 眠っているときは、守鶴は化装を維持できなかったので、ふさふさとした大きな尻尾が丸出しになっていた。 気配で目覚めた守鶴は、子供に尻尾を見られたことを知って、この寺を去るときがきたことを感じた。 狸の姿のままで手をつき、子供にいま見たことを誰にも言わないでいてくれるように頼んだ。 天正15年(1587)2月28日、守鶴は誰にも告げず、茂林寺を去った。 あの子供以外に、守鶴がいなくなったことに気付くものはなかった。 数十年の後、この寺と狸の深いかかわりが人のうわさになった。 それは、あの時の子供が老いて、死を迎えたとき、約束を破って、守鶴が狸だったことを家族に告げたためだった。約束は破ったが、それはむしろ、守鶴の名誉を守り、その業績を讃えるためであった。 だから遺族たちは、寺の本堂のそばに小さな祠を建てて守鶴を祀った。 寺と茶釜と狸のうわさは民話となって後世に伝えられ、巌谷小波によって、今日、誰もが知っている童話にまとめられたものである。 |