雨乞い地蔵 伝 承 |
「丁半、駒、そろいましたっ!」 「勝負っ!」 宵の口から始まった丁半ばくちは、半時を過ぎて佳境に入り、いよいよ熱気が高まってきた。盆ござを囲む人々の目が血走り、額にはてらてらと汗が光っていたが、ひとり清吉だけは浮かぬ顔をしていた。 勝負はわかっている。自分の負けだ。 「スッピンの半!」 やっぱり…… これで清吉の駒はすべて消え、借金が膨らんだ。 盆ござから膝を下げ、清吉は立ち上がって部屋を出た。 「清ちゃん、ツキが回ってこないねえ……。もう少し、駒、まわそうか?」 幼馴染で、今は博徒になって、賭場の中盆を勤めていた富蔵が追ってきた。 「ふん、ツキなんか関係ない。どうせイカサマじゃないか」 「お、おい。ここでそんなこというなよ。簀巻きにされちゃうぜ」 「簀巻きにされたっていいよ、富ちゃんと手が切れるんならね」 「またそれをいう。悪かった、謝るよ。清ちゃんを遊びに引っ張り込んだのは確かに俺だからね。この通り、すまなかった」 富蔵は、中腰になって両膝に手を当て、頭を下げた。やくざもののしぐさが板についていた。 富蔵は、清吉と同じ村の百姓の息子だったが、父親が死んだ後、百姓を継ぐのを嫌がって無頼の仲間に入った。 「ところで、親分が会いたいって言ってるんだがね……」 「借金は返せないよ。近頃は、親父が小遣いをくれないし、お袋をだまくらかそうにもネタもなくなっちゃった」 「借金返せっていう話じゃなさそうだぜ。いや、親分は悪い話じゃないって言ってた」 確かに悪い話ではなかった。悪い話ではないが、しょせんやくざものの話である。あまり良い話ともいえなかった。 清吉の家は、村の名主だった。 名主というのは、関西では庄屋、東北では肝煎りと呼ばれる、要するに村長(むらおさ)で、代官の下にあって課税、徴税を中心とする行政事務を行っていた。 もともと村には名主はいなかったが、三代前、つまり清吉の曽祖父が村人を指導して田畑の開拓に成功したとかで、誰言うとなく村長になり、名主に任じられたにと聞いたことがある。曽祖父の名は、清作といったが、名主になってから、代々、清兵衛を名乗るようになったという。 博打うちの元締め、三五郎の話というのは、その曽祖父の代から伝わる古い米びつを持って来い、というものだった。米びつの代償に、博打の借金を棒引きにしたうえ、別に十両もの大金をくれるというのだ。 なぜそんな古い米びつに大枚を払うのか尋ねると、三五郎は渋い顔をした。 「知らなきゃ知らないでいいんだよ。とにかく米びつを持って来な」 「若旦那。なにしてるんです?」 台所の大戸棚に首を突っ込んでいる清吉をみかけて、下働きの小女が声を掛けた。 「ああ、ちょうどよかった、お初。古い米びつを知らないかい?」 言いながら清吉は、付近に人のいないのを見定めて、お初を抱きしめ、唇を吸ってやった。清吉より三つ年下で、頭がよく働き者のうえ、村いちばんの器量よしだった。 お初とは、少し前から人目を忍んで逢うようになっていた。まだ肌身は見せてくれないが、唇を吸うことだけは許してくれていた。 まだ若いので、清吉の嫁取りの話は出ていないが、清吉自身は、お初を嫁にするつもりでいた。 一瞬だけ体を預けてから、お初は身をよじって清吉の腕から逃れた。清吉の手が袖口から侵入し、胸へ伸びようとしたからだった。 「米びつなら、こっちの戸棚ですけど…… 若旦那、ご飯炊くんですか?」 「ご飯なんか炊きはしない。米びつに用があるんだ。いま使ってるのじゃなくて、ひいじいさまの代からの古い米びつなんだがねぇ」 「知りませんねぇ、そんな米びつ」 「蔵にはしまってないかな?」 「米びつは、虫がつきやすいので、蔵にはしまいません。そんな古いもの、あるとすれば物置ですよ」 物置にもなかった。 イカサマ博打の借金はともかく、別に十両もの大金を出すほどの米びつなら蔵にしまってあっても不思議はないが、清吉の知る限り、蔵の中は、年貢の記録や村人の人別帳など名主という役目上の書類がほとんどだった。私的なものはなく、まして金目のものはなかった。 去年の虫干しのときは、さっさと逃げ出してしまったので蔵の中は見ていないが、その前の年の大掃除のときは、そんな古い米びつなど見かけなかった。 待てよ…… 蔵の前まで行って、清吉は考え込んだ。 十両せしめることばかり考えていたが、どれほどのものかは知らないがたかが米びつに、あの業突く張りの博打うちが十両出そうというからには、なにか裏があるはずだ。二十両、いや五十両、もしかしたら百両で誰かに売り飛ばそうとしているのではないか……。 百両はともかく、少なくとも数十両にはなるかもしれない値打ちもの、そんなものがこの家にあるのだろうか……。 名主は、確かに他の百姓より大きな家に住んでいるが、余分な収入があって贅沢をしているわけではない。行政事務を取り扱うためのいわば事務所と、代官所の役人がやってきたときの客間などが大半で、家族が住む部屋などは、一般の百姓と変わりは無かった。 収入にしても、役職上の特別の手当てが出るわけではないので、持っている田畑の面積が広い分だけ、他の百姓より多いという程度だった。 「ひいじいさんの米びつかぁ……」 米びつ自体に何十両もの価値があるわけではなかろう。もし価値があるとするなら、自分が知らないはずがない。 いまでこそ自分は、父親に小言を食わない日はないほどのどら息子だが、いつの日か、いや父親に何か事が起これば明日にでも、父の後を襲って清兵衛を名乗り、この家の当主とならなければならない身だ。 だからこそ、父親はうるさく「名主の心得」なんぞを説こうとする。子供のころからしつけには厳しく、飯粒をこぼしたといっては殴られたものだ。 そうして、清吉は、百姓とは何か、名主はなにをなすべきかを教え込まれ、自分の家系と村の歴史を教えられた。 その自分に「知らないこと」がある……。 古い米びつ、それにはなにか秘密がある…… 清吉は、その疑問を率直に父親にぶつけてみた。もちろん、博打うちが十両出そうと言っていること、その博打うちに借金があることは黙っていた。 「ほほう。米びつについてなにかうわさを聞き込んだな?」 よかろう、といって父は清吉に次のような話をした。 初代清兵衛は、いや当時は清作という名だったが、どこで手に入れたものか不思議な米びつを持っていた。 その米びつは、誰も米を補充しないのに、いつも米が満杯に入っていた。五合使えば五合増え、一升食えば一升増えた。 当時、この村一帯は、手のつけられない荒地だったため、村人は皆、食うや食わずの生活をしており、時には餓死するものも出るほどだった。 そこで清作とその女房は、毎日米びつを担いで村中を回り、必要な人に必要なだけ、米を分けて歩いたという。 清作の配る米で命をつなぎ、体に働く力を得た村人は、みな必死になって働いたため、さしもの荒地も、いま見るような豊かな実りをもたらす肥沃な土地に生まれ変わった…… 村人は皆、清作に恩義を感じ、誰言うとなく村長のような立場になっていた。代官所の役人がやってきて、名主を決めることになったときも、村人はこぞって清作を推した。 こうして名主清兵衛が誕生したのだが、清兵衛は、名主になったその日のうちに、米びつを叩き壊してかまどにくべてしまったという。 「食えないときには大切な米びつだったが、働けば食えるようになった今、もうこの米びつは要らない。遊んで食おうとするものが出ては困るから」 それが初代の考え方だった。 「わしも父から、つまりお前のお祖父さんから聞かされただけで、その米びつは見たことがない。祖父さんも、そのころは生まれたばかりの赤ん坊だったから覚えがないといっていた。つまり、その米びつは我が家の家宝ではあるがその家宝は話だけで伝えられて代々の清兵衛の胸のうちにある。わかるか? 名主としての清兵衛の心構え、というわけだ。お前に米びつの話をしなかったのは、秘密でもなんでもない、そういうわけで米びつは存在しないし、わしも忘れていたからだ」 父はそういって笑った。 「ありもしないものに十両か」 うっかりつぶやいた清吉の言葉を清兵衛が聞きとがめた。 「誰かが十両で買いたいといったのか? 馬鹿なやつだ。そんな事を考えるのは、博打うちかなんかの怠け者だろう?」 「あ、いや、友達に聞いた」 「友達? お前の友達は、みんな怠け者じゃないか」 当時、この村の住人は、全部で三十軒ほどだったが、田畑が肥えて村が富むようになると、次第にさまざまな人が移り住むようになって来た。 近在の、似たような荒地で食い詰めた百姓をはじめ、農作物以外のものを作る職人や商人、さらに、こうして膨れ上がった町を管理するための役所ができて武士もやってきた。 町が富み、人が増えると、怠け心が芽生えてくる。 いくら食っても米がなくならない米びつ…… そのうわさが人々の口に上るようになった。うわさには尾ひれがついて、「なくならない」が「増える」に変わり、「米」だけでなく物はなんでも「金」すらも増える米びつ、に変化していった。 一文入れておけば翌日には百文に、一両入れておけば百両に増えるという、欲の皮の突っ張った怠け者には実に都合のいい米びつだった。 初代清兵衛が予見した通りだった。それは人を助けるものではなく、むしろ人をだめにする米びつだった。 その米びつは、すでにかまどの灰になっていることは、当時の村人は誰でも知っていたが、うわさを口にする怠け者たちには、それほどの宝物を燃やしてしまう人間がいるとは信じられなかったのだろう…… 「米びつのことをお前に尋ねた友達とやらは、誰かは知らんが、どうせろくな人間じゃなかろう?」 父の言う通りだった。その米びつを「所有」している家系の自分が知らないのに、博打うちの親分が知っていた。 「いいか、清吉。魔法の米びつはもう無いが、この村にはもうひとつ、米びつなんかよりずっと大事な宝物があるんだよ。その宝物を、清兵衛は代々守り継いでいる。わしの後はお前だ。お前が守らねばならない」 すべての富は「生産」から生み出される。 この村の生産は、農業だ。農業の根本は「水」にある。 水は、多すぎても少なすぎてもいけない。適量を常に供給できなければならない。つまり「治水」である。 その治水に成功したからこそ、この村は富むことができた。 そして、その治水の総責任者が、村長の清兵衛だった。 「雨乞い地蔵?」 「そうだ。雨乞い地蔵様だ。この村の古くからの村人がこぞって、春の雪解け前と秋の収穫の後に、雨乞い地蔵様にお参りするのはそのためなんだ。外から来たものたちはなにも知らないから、ただの祭りと思っているかもしれないが、雨乞い地蔵様こそ、この村の生命そのものなんだ」 治水はわかるが、それがただの石の塊りにしかすぎない「雨乞い地蔵」とどう関わるというのか。ばかばかしい、古臭い言い伝えに過ぎない、と清吉は思った。 「米びつがねえ、だと? なにをとぼけたことを言ってるんでぇっ!」 米びつはその昔、この村がようやく村としての体裁を整えたころ、持ち主の清兵衛自身の手によって燃やされてしまったと伝えると、三五郎は烈火のごとく怒り出した。 「ははあ、てめぇ、米びつのことは知らねぇと抜かしていたが、さては親父に聞いて欲を出したなっ? ふん、穏やかに話をつけてやろうと思ったが、もう許せねぇ。借金棒引きの話はなしだ。さあ、返せ! 都合した金しめて二百両、耳をそろえて返せっ!」 博打の借金といっても田舎町の小博打のことだ、清吉が実際に借りたのは小銭ばかりで、せいぜい一両か二両、それを二百両に膨れ上がらせる三五郎に欲張り呼ばわりされるいわれはない。 二百両、といったのは、おそらく三五郎が誰かに米びつを売りつける予定の金額だったのであろう。言い方を変えれば、その金額で米びつの入手を請け負ったということかもしれない。 その日から、山間ののどかな、そして平和だった村に嵐が起こった。 「いずれ名主になりなさる清吉さんに、あたしはキズをつけたくねぇんですよ。博打なんてものは、捨ててもいい遊び金でやるもんで、借金までしちゃぁいけねぇ。そうでござんしょ?」 名主の家に乗り込んできた三五郎は、猫なで声で清兵衛に迫った。 「うちの若いもんには、そこんところをよく言い聞かせちゃぁいるんですがね、なんですか、中盆の富蔵とこちらの清吉さんは幼馴染だそうで、その情にからまれて、ついお貸しした、とまぁこういうわけでしてね」 「事の成り行きがどうあれ、清吉が借金をしたのは事実のようですから、その不始末はわしが埋め合わせますよ。だが、二百両というのが納得できない。なんでも清吉が世話になったのは、町の衆が小遣い銭で遊ぶ賭場で、賭け金も百文、二百文だそうじゃありませんか。いくら負け続けたからって、それが二百両とは……」 「あたしがうそを言ってると?」 「いや、うそだとは言わないが、うちは名主といってもただの百姓だから、二百両もの大金はない。どうやったってひねり出すことはできない。そういうわけだから、なんとか都合のつく金額で折り合ってもらいたい、こう言ってるんです。どうしても二百両がびた一文まからない、というなら、うちは家作をたたむしかないから、お役所に訴え出て借金の額をはっきりしてもらうことになる。あるいは、清吉をお預けしますので、好きなように本人から搾り取ってもらいたい、ということです」 「小銭が寄せ集まっての二百両だぁ。一々の証文がねえのはこっちの手抜かりだが、もとは博打の借金だ。証拠だ何だと世間様にお見せするすじのもんじゃねえことぐれぇはわかってもらいてぇ。要は信用、その信用を踏みにじって事を荒立てようってんなら、それでも結構。おれんとこにゃ、血を見ることをなんとも思わねぇのが何人もいるんだ」 「脅かしっこはなしにしてくださいよ。もともと田畑しか持ってない百姓をいくら脅かしたって出るのは種籾くらいのもんだ。種籾なんぞ、半年の間、丹精込めなきゃ飯粒にもならない。そこんとこを考えてもらって、うちにありったけの金を出すから、それで手を打ってもらいたい」 「ありったけ、っていったってさっきの話じゃ五両十両。話にもならねえ。どうだろうねぇ、清兵衛さんよ。お宅には、初代から伝わる家宝の米びつがあるっていうじゃねぇか。あたしの知り人で、骨董にたいそう興味を持っているお方がいてね、そのお方が二百が三百でも手に入れたいとおっしゃってるんだ。いや、俺は貸した金が戻ればいい。高く売れれば、二百の上はあんたに払おうじゃねぇか」 「そりゃ、ありがたい話だがね、その米びつは、初代が自分でかまどにくべてしまったという話だ。わしも見たことがない。そのことは村中の誰もが知ってることだ」 「あたしは、そう聞いちゃぁいねえんだよ」 こんな話の堂々巡りが数日続いた。 日を追って三五郎の言葉遣いが荒くなり、それにあわせるように名主の家の付近にたむろする無頼のものが増えていった。 無頼たちは、付近を通るものにあからさまに下卑た言葉を投げ、悪さを仕掛けた。そのため、人が寄り付かなくなり、名主としての役務にも支障が出始めた。 そんなことが半月ほど続いたある日、名主清兵衛の家が役人に取り巻かれ、清兵衛は縄を打たれて代官所に引きたてられた。 名目は、年貢にかかわる不正が発覚した、というもので、その調べのため、二日間にわたって、屋内外の徹底的な捜索が行われた。捜索は、屋根裏から床下にまで及んだが、目指す「証拠」は発見できなかったようだ。 不思議だったのは、「年貢の不正」というからには、元になる帳簿も仔細に点検されるはずだったが、ほかの家財が全部ひっくり返して調べられたのに対して、蔵に収められた帳簿類には手を触れた形跡もなかった。 「証拠」が出なかったのだから、疑いは晴れたはずなのに、清兵衛は帰されなかった。 それどころか、数日後には、清兵衛の妻と清吉も捕縛され、さらに数日後には二十六人の百姓が逮捕され、それぞれの家が捜索された。 その二十六人は、すべてこの地の開拓時代からの百姓だった。 またたく間に一ヶ月が過ぎた。 捕縛された名主一家を始めとする二十六人の百姓たちは誰も帰ってこず、その消息も知れなかった。いや、拷問を受けた末、牢内で死んだ、と言ううわさが流れたが、真偽は知れなかった。 働き手を失った田畑が荒れ、新たな作付けもできないまま、残された家族たちは不安な日々を送っていた。 ほとほと…… 締め切られた戸口をたたく音がした。 お初は、天秤棒を抱え、そっと戸口に近づいた。誰もいなくなった名主の家をお初はひとりで守っていた。時折、三五郎の手下がやってくるので、お初はいつも天秤棒を身近において、万一のときに備えていた。 戸口の引き戸に架ってあるしんばり棒を確かめてから、お初は障子の入った小窓を細く開けてみた。 遠く夕焼けが見えた。 夕焼けを背に、丸い笠をかぶった坊さんが立っていた。 「ものを尋ねます。だいぶ古い話だが、このあたりに清作という人の家があったはずだが……」 「清作は、この家の先祖ですけど……」 「先祖? おお、もうそんなに時が経てしまいましたか。ではあなたは清作さんのご子孫?」 「いえ、下働きのものですけど…… あの、お入りくださいませ」 なにか話さなくてはならないことがあるような気がしたので、お初は戸を開けて坊さんを招じ入れた。 後ろに夕焼けがあったのでよく見えなかったが、入ってきた坊さんのうす汚さに、お初はびっくりした。 笠はあちこちが擦り切れて穴が開いているし、墨染めの衣は、衣というよりぼろきれを寄せ集めて帯で縛り付けているような感じだった。汗とほこりにまみれているせいだろうか、獣のような匂いがした。 坊さんは、荒れた家の中を見回した。 役人たちが家捜しをした後、お初は一生懸命片づけをしたのだが、広い家である上、女一人では動かせないものもあったので、家の中はまだ、嵐が吹きすぎた後のように散らかっていた。 「畑も荒れていた。なにかあったようだな?」 坊さんは、お初の肩にやさしく手を置いた。獣のように毛深い手だった。 「話してごらん」 張り詰めていた気がきれて、お初は泣き出した。泣きながら、この家に、この村に起こっていることを坊さんに告げた。 博打うちが来たこと、お役人が来たこと、お役人が何かを探してこんな風にしてしまったこと、この家の主一家と村の百姓が連れ去られ、誰も帰ってこないこと…… 殺されたのではないか、といううわさのこと…… 「米びつのせいだと思います。お役人は、米びつを探していたんじゃないかと思います」 「米びつ?」 「その米びつは無いんです。むかし、清作さまが燃してしまったんです」 お初が知っている限りの米びつの話をすると、坊さんは、深く何度もうなづいて言った。 「明日の朝、代官所へそこにある箱を持っていきなさい」 それは、家捜しのときに戸棚から投げ出された、壊れかけのただの箱で、台所のあまり使わない什器類を保管していた箱だった。 「これ?」 「それでいい」 そう言って坊さんは、お初がとめるのも聞かず、日が落ちて真っ暗になった山に向かって消えていった。 三日後、清吉と母親が帰ってきた。 二人とも全身に拷問の傷を負い、衰弱しきっていた。ほかの百姓たちも同じだった。清兵衛と、年老いて体力のなかった百姓二人は、うわさ通り牢内で死んだため、遺髪だけが戻ってきた。 お初が推測したとおり、役人が探していたのは件の米びつで、代官所での取り調べでは、年貢のことなど一言も聞かれず、ひたすら米びつの所在を追求されたという。 米びつのうわさを聞き込んで、ばくち打ちにまで手を伸ばして入手をたくらんでいた「怠け者」は、どうやら領主本人だったらしい。 お初が持っていった箱に、代官ははじめ半信半疑だったらしいが、その夜、試みに一両入れておいたところ、翌朝百両に増えていたという。 「これは本物だ」ということになり、箱は領主のもとに届けられた。 一ヶ月ほど後のこと、領内を一大パニックが襲った。 領内に流通していた小判の大半が、一夜にして、薄汚い枯葉に変じたのである。城内の金蔵も枯葉で埋まり、領主の部屋では、例の米びつが次から次へと枯葉を生産していた。 怒った領主が、清吉の村へ軍勢を差し向けたが、清吉、いやすでに四代目になっていた清兵衛は、二十六軒の百姓を引き連れて、いずこへか「逃散」した後だった。 そして翌春。 例年になく多い雪解けの水が村を襲い、豊かな作物を生み出していた農地は一瞬にして人を寄せ付けない石ころだらけの川原に変じてしまった。 氾濫した水流は川下の城下をも襲い、城は水没し、領主は濁流に飲まれて行方知れずとなった。 あの滝頭にあった雨乞い地蔵が、四代目清兵衛一行とともに消えていたことを知る者はなかった。 |
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