雨 乞 い 地 蔵 縁 起 |
日暮れにはまだ時があるのに、清作が野良仕事から帰ってきた。 働き者の清作にしては珍しいことなので、女房の八重は、どこか体の具合でも悪くなったかと思ったが、違った。 具合が悪いのは、清作に背負われてきた旅の坊さんだった。 「足に怪我をしていてな、それに腹も減っているらしい」 そういって清作は、坊さんを囲炉裏端に転がした。血まみれの足に草鞋の紐がぶら下がっていた。草鞋が擦り切れたのをそのままにして、はだしで歩いていたようだ。 このあたりは険阻な岩山に囲まれた谷あいなので、畑も道も石ころだらけ。はだしでは到底歩けるものではない。 「お坊さま、どちらから来なさった?」 怪我の苦痛からか、あるいは空腹のためかはわからないが、ほとんど気を失っている坊さんの様子を確かめるため、八重は、たらいの水で坊さんの足を洗いながら尋ねてみた。 冷たい水が傷口に沁みたせいであろう、、坊さんは「ひぃ、ひぃ」とうめき声で応えた。 「館林というところから来たらしい。信州へ行くんだと」 坊さんに代わって清作が答えた。 それにしても汚い坊さんだ。 墨染めの衣は汚れている上、ぼろぼろで、着ているというより巻きつけて帯で縛ってある、という感じだった。衣の下の白衣も、染み込んだ汗が土ぼこりと一緒になって固まっている。 何日も湯水につかっていないらしく、首筋も襟元も真っ黒だった。 足をきれいに洗ったところで、坊さんの始末を亭主に任せ、八重は食事の支度にかかった。 支度といっても、稗の混ざった麦飯に菜っ葉を刻み込んだ雑炊が主食、おかずは漬物だけだから、そう手間はかからない。 すぐに囲炉裏に掛けたなべから、いい匂いが立ち上り、坊さんの腹がすさまじい音を立てた。 「おうおう、飯はすぐ食わしてやるからな……」 清作は、坊さんの腹の虫に声を掛けながら、衣を脱がせ、下帯もひん剥いて洗濯桶に放り込んだ。坊さんの体は全身黒い剛毛で覆われ、まるで獣のようだった。 衣の代わりに清作の着替えを着せ掛けてやったが、こちらもつぎはぎだらけのぼろ着で、洗濯してある分だけ墨染めよりまし、という程度だった。 清作は、というよりこの村全体が、開拓百姓だった。 領主が、幕府の定めた石高より実石高を上げるため、山間など領地内各地の目立たないところに隠し田を設け、領内の百姓の半分を移住させて開墾に当たらせていたのである。 この作業は困難を極め、思うように収穫できないために、百姓たちは皆、餓死寸前の状態に追い込まれていた。 もともと田畑が成り立つほど肥沃な土地ならば、百姓たちは放っておいても田畑を広げてゆくものである。 だが、このあたりは、前にも言ったように、両側に岩山のそそり立つ谷あいで、土地は狭い上にいくら耕しても大石小石が湧き出してくるような荒地だった。加えて、岩山の向こうには、今日で言う南アルプスの3000メートル級の山並みが連なっており、春ともなれば雪解け水が急流となって村を襲い、せっかく耕した田畑を押し流してしまうのだった。 傷の手当てを終えて囲炉裏端に座り込んだ坊さんは、八重の給仕を待たずに自分でなべのふたを取り、木椀に雑炊をよそってあふあふ言いながら食い始めた。よほど腹が減っていたのだろう。 清作と八重は、その様を笑ってみていたが、次第に不安な顔色になった。 坊さんがあまりにも大食いで、自分たちの食べる分が足りなくなりそうだったからである。 二人のそんな不安を知ってか知らずか、坊さんはお代わりを重ね、見る見るうちに10杯ほど平らげて箸を休めた。 「あの、お二人は食わんのかな?」 小さななべだ、坊さんに10杯も食われたら、もう麦の一粒も残っているはずはない。 自分は何とか我慢できても、一日中畑仕事をしてきた清作には、夕食抜きは耐えられまい。八重はそう思うと悲しくなった。 だから皮肉のつもりで「ええ、ええ、うちらは後でいただきますから、どうぞご遠慮なくたんとお召し上がりください」とこたえた。 不思議なことが起こった。 「さようか。では遠慮なく……」 坊さんは、そういって、さらになべからなみなみと雑炊をすくい上げた。いくらなんでも、もう空っぽのはずのなべから、である。 キツネにつままれたような顔の二人を無視して、坊さんはさらに10杯ほど椀を重ね、ようやく満腹になったのか、その場にころりと横になって眠ってしまった。 なべからは、まだいい匂いが立ち上っていた。 八重がそっとふたを取ってのぞくと、稗混じりの麦飯のはずが、真っ白い米の雑炊になってなべから吹き零れそうになっていた。 二人とも、生まれて初めて食べる白い米だった。生まれて初めて、満腹になるまで食べた。 「きっとお坊様をお助けした功徳だね」 二人はそういって泣きあった。 その日から、なぜかこの家の米びつに米が絶えることがなくなった。 翌朝、まだ暗いうちに清作は野良仕事に出かけた。 外に出ると、まだ寝ていると思っていた坊さんが立っていた。 「顔を洗いたいんだが、井戸はどこかな?」 「井戸はねぇだよ。このあたりは掘っても水が出ねんでね、村のもんは皆、川の水を汲み置きしてるだ」 「ほう」 清作は、坊さんを川に案内した。 増水時の関係で川原は広いが、流れは少なかった。細い水流がちょろちょろ流れているだけだった。 顔を洗うといったのに、坊さんは腕組みをして何か考えているだけだった。 なにか考えながら、坊さんは畑までついてきた。 清作の今日の仕事は、いや昨日も明日も同じだが、畑の雑草と大石小石を取り除く作業だった。もともと土より石のほうが多い土地だったから、それは気の遠くなるような作業であった。 坊さんは、畑の端に腰を下ろして、清作の延々と続く単調な仕事を見つめていた。 見てるだけなら手伝ってくれてもよさそうなものだ…… いや、なまじ手伝ってもらっても、終わりのない仕事だからな…… 大き目の石が出てきた。揺さぶってみたが、びくともしなかった。 周囲を掘り下げてさらに揺さぶってみたが、同じだった。 やれやれ、厄介なやつに当たったもんだ。 こういう場合、石がそのまま岩盤につながっているなら、その部分は迂回した畑作りをしなければならない。つながっていないなら取り除かなければならないので、いずれにしても周囲を五尺ほどは掘り下げてみなればならない。 坊さんが立ち上がった。 うずくまって居眠りでもしているようだったが、ようやく手伝う気になったのか、坊さんは清作に近づいてきた。 「この石はどうやっても動かんよ」 そういって坊さんは石に手を掛け、雑草でも引き抜くように、すいっと抜きあげた。長さ2尺あまりの、細長い冬瓜のような形の石だった。 かなり重そうで、清作なら一人では持ち上げられそうにない大石だったが、坊さんはひょいと肩に乗せ、川原に向かって歩き出した。 坊さんはなにも言わなかったが、清作は「ついて来い」といわれたように感じたので、畑仕事を中止して坊さんを追った。 坊さんは、流れに沿って川上へ遡った。 一時ほど歩くと五尺ほどの高さの滝に行き着いた。 坊さんは、大石を担いだまま、ひょいひょいと滝頭に上り、水流の脇に大石を立てた。石に向かって両手を合わせ、短く経を唱えた後、大石の座り具合を確かめるように、軽く揺さぶった。 ただの丸く細長い石だったが、見上げる清作には路傍で見かけるお地蔵様のように感じた。 思わず膝をついて頭を下げると、それまで糸を引くようだった滝の水が幅を広げ、瞬く間に滝つぼができ、川の流れが広がっていった。 「いいかな。これで水の心配はなくなった。大水は出ないし、川の水が涸れることもない。もし日照りが続いたら、あの石を今のように軽く揺すってやればよい。三日のうちに必ず雨が降る」 そういって坊さんは、あっけにとられている清作を促して、川下に下った。 その日の夕方、坊さんは「井戸を掘りなさい」と言い残して、旅立っていった。 峠を越えて信州に向かうという。 人の通る道がない山だし、熊や猪も出て危険だから、せめて朝立ちに、と引き止める清作夫婦に 「だいじょうぶ。わしは夜目が利くし、逃げ足も速いから」 坊さんはそういって、夕闇に溶けていった。 この村の家々に井戸が掘られ、冷たく甘い水が飲めるようになったのはそれからすぐ後のことだった。 翌年春には、恐れていた大水も出ず、畑には青々とした作物の芽が見られるようになった。 夏の日照りには、村人全員が滝つぼに集まって降雨の祈願をした。坊さんが言ったとおり、3日後にたっぷりと雨が降ったことは言うまでもない。 荒れた貧しい村は、数年で豊かな村に変貌した。 滝頭の大石は、誰言うとなく「雨乞い地蔵様」と呼ばれるようになった。 なお、坊さんの名は、守鶴。 守鶴坊については、稿を改めてお話しよう。 |
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