鏡 の 女



 私が六甲山に宿を取ったのは、全くの偶然だった。
 大阪での仕事を終え、本来ならそのまま東京へ帰るはずだったが、翌々日の早朝、新たにスタートするプロジェクトに関して、大阪に本店のある某銀行との打合せにあたる必要が発生したため、明日一日、休暇を兼ねてこちらに滞在することになった。

 山頂近くに位置する六甲東洋ホテルをリザーブしてくれたのは商社の担当者。せっかくの休暇なら大阪市内より、六甲でのんびりした方がよいだろう、との配慮からだった。

 仕事では何度も阪神地区を訪れている。チャンスがあれば六甲へ、と考えていた私の夢は、実に簡単に実現した。

 部屋に入ってすぐカーテンを全開し、そのロケーションに私は満足した。
 窓は目いっぱいワイドな1枚ガラス、さえぎるものなく神戸の街から、瀬戸内海を経て遠く四国を望む壮大な大自然の造形美を、そっくり一望できた。
 夕食も十分に満足できるものだった。神戸牛の和風ステーキはご当地の味だから当然としても、フィッシュはドーバー海峡から直送の50センチを超えるエイのひれの蒸し物。ちょっとだけ渋みを感じるワインと溶け合って絶妙の味のコントラストを描き出す。

 残念だったのは、めったに手にすることのない景色と味を、今日は一人で味あわねばならなかったことだった。なに、とびっきりの美人とは言わない、長年連れ添った古女房でもいい。
 そんな、なんともいえぬ人恋しさと、久しぶりの長い夜の時間をつぶしかねて、食後、最上階のラウンジへ足を運んだ。

 ラウンジは、思いきり広く採った窓に沿って、10席あまりのテーブルがしつらえてあり、2組の先客があった。もちろんカップルである。照明はテーブルに灯る、薄いピンクのカバーをかけたろうそくが主で、反射光を利用した天井の明かりは安全を損なわない程度まで減光していた。

 軽くステップを踏める程度のフロアを隔てて、バーがあった。
 私は、退屈そうにしているバーテンの前に腰掛け、ちょっと気取って 「テネシーワルツ」といってみた。
 ジンをベースに、カカオとヴァイオレットをカクテルし、炭酸で割るフィズだが、正規の訓練を受けた一部のバーテンが知っている程度のマイナーな代物である。
 これを知っていれば、バーテンダーとして年期が入っている証拠だ。
 「承知いたしました」
 にっこり微笑んで、バーテンはシェーカーを取り出した。

 百万ドルとも一千万ドルとも言われる夜景。
 眼下には、神戸の街のきらめき広がり、左方向には大阪の街がシャンデリアを逆さまにしたような華やかさを誇っていた。
 キラキラと輝くさまは、東洋の宝石箱と呼ばれる香港の夜景を十分にしのぐ光の芸術であった。
 残念だったのは、照明を落としているとはいっても暗闇ではない。内部の明かりがガラスに反射することは避けられなかった。

 ふと気がつくと、数席あけた隣りに黒いドレスの女が一人、静かに腰掛けていた。バーテンに、私の飲み物を指差して何かささやいている。
 落ちついた、洒落た雰囲気の美人だった。
 出張の味気ない一夜、たった今古女房とでも、と考えていた思いを忘れ、この美人と酒を酌み交わすことが出来れば・・・と、キッカケを考えていたら、あっさり実現してしまった。

 彼女の方から席を移ってきて、
 「テネシーワルツっていうんですって? きれいなお酒」
 カカオとヴァイオレットの比重の違いを利用して、鮮やかなグラデーションが仕上がっている。アジサイの花をを思わせる美しさだった。

 短いが、楽しい一時だった。
 彼女は、話題が豊富で、知的レベルの高さを十分に感じさせる内容だった。
 彼女も私との話に満足したらしく、時折小さく笑いながら、「きれいなお酒は効きますよ」という忠告を無視して、3杯も飲んでしまった。

 23時、バーがクローズし、楽しい時は終わった。
 エレベーターに乗りこむと、彼女は私に腕を絡ませ、もう少し飲みたいという。もちろん断る意思はない。私の部屋にいざなうと、黙ってついてきた。

 ルームサービスにスロー・ベルモットと軽い夜食を注文し、窓際に並んだソファでしばらく夜景を楽しむ。
 うまい酒と美人と夜景・・・ 映画のワンシーンを切り取ったような情景のなかで、ウィリアム・ホールデンにでもなったような気分であった。そういえば、彼女はイングリット・バーグマンに似ていなくもない。

 さて、これからの展開はどうなるか・・・ 軽いときめきを感じながら思いを巡らせていると、
 「もう、帰らなければ・・・」と言う。
 「12時が門限なの」さびしそうに言って立ちあがり、部屋の隅の姿見に近寄る。服装を直し、ちょっと私を見てから、両手で姿見の角度を変えた。

 姿見と窓ガラスが合わせ鏡のようになり、彼女の姿が鏡の奥へと幾重にも重なって見えた瞬間、鏡の奥からとうてい表現し得ない真っ黒な閃光が湧きあがった。
 無音だが、部屋が引っくり返ったような衝撃が走り、白は黒に、黒は白に、すべての色がモノトーンになり、裏返しになった。
 彼女の黒いドレスが、一瞬、純白のウェディングドレスに見え、そして彼女は消えた。
 そのまま私は無間の闇に落ちこんだ。

 翌朝、私は、窓辺の小椅子で目覚めた。100万ドルの夜景は消え、日差しがまぶしく輝いていた。二日酔いとは違う、奇妙な浮遊感があった。
 何だったのだろう? 昨夜の記憶は鮮明だった。決して夢ではない。

 姿見は、彼女が動かした位置にあったが、不思議だったのは、部屋のすべてが鏡にうつしたように裏返しになっていたことだった。

 その夜、ふたたびラウンジに行き、バーテンに昨夜の女のことを尋ねてみたが、そんな女はいなかったと言う。うそを言っているようには思えなかった。
 「私は酔っていたかね?」
 「いえ、それほどでもございませんでした。なにかひどく楽しそうでしたけど」

 合わせ鏡は悪魔の通路だという。深夜、正零時、合わせ鏡をつたって悪魔が往来するという。
 あの美しい悪魔は、ひょっとすると、前の晩どこかの鏡を渡りそこねてしまい、帰るチャンスを待っていたのかもしれない。