中 尊 寺
 ● おくのほそ道 本文
 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
    五月雨の降のこしてや光堂

 ● ぼくの細道
 金色堂(光堂)は、建立されてから約160年、風雨に曝されたままだった。その後、覆堂(鞘堂)が造られたが、芭蕉が見た頃は、修復された現在の金色堂とは違い、覆堂の中にあっても、金箔が剥げたり、柱の螺鈿が落ちたりと、荒れた状態にあったようだ。翁は、その状況を記し、それでもなお十分に輝きを見せる金色堂に感動した。
  五月雨の 降のこしてや 光堂
 幾星霜の風雨を「五月雨」の一言で表現し、「降のこし」で十分にその美しさが保たれている様を描ききった。凄い句である。
 ところで芭蕉は、ここでもう一つの句を発している。
  蛍火の 昼は消えつつ 柱かな
 「おくのほそ道」出版の最終段階で削られてしまったが、金色堂が、黄金の輝きだけではなく、螺鈿の象嵌を施された柱によりその美しさが増幅されていることを活写している。

 平泉。
 世が世なら、北の京都、とでも呼びはやされそうな由緒ある土地である。実際、町当局としても、京都とまでは言わないまでもせめて関東の日光くらいの観光地に仕立て上げたい、と考えているのではなかろうか。
 が……
 芭蕉が「夏草や兵どもが夢のあと」と歌い上げた如く、まさに夢のあと、平泉はなんにもないところである。
 伽羅御所跡、柳之御所跡、無量光院跡、泉ヶ城跡、観自在王院跡…… みんな「跡」がつく。つまり、全部野っ原で、見に行ったって面白くもなんともない。
  夏草を 刈り取って見せる 跡の夢  (さかわ)
ってところだ。

 金色堂を擁する中尊寺にして然り。
 表参道。入り口には、「関山中尊寺」の石柱。ここからが天台宗東北本山中尊寺の寺域となるが、いきなり坂だ。それもかなりキツイ坂でが約200メートル。息が上がる。その昔、坂上田村麻呂が月見の宴を開いた、と言う由緒で月見坂と名がついたそうだが、こんな坂で宴もないもんだ、座って酒なんか飲んでられねえぞ……
 ひいひい言いながら坂を上り詰めると東物見台に着く。ここからの景色はいい。吹き上げてくる風で汗も引く。このあたりに大門があったらしいが、これも「跡」だ。
 中尊寺本堂。
 京都(滋賀?)の比叡山延暦寺から分けた法燈が1200年絶えずに燃え続けていると言うが、建物そのものは、明治時代の再建。
 創建当初からあるのは、五輪塔(重要文化財)だけだ。
 ほかに、能楽堂など、全部で30を超える堂宇があるが、すべて近年の建立、再建で、芭蕉が訪れた頃には、金色堂と経堂しか存在しなかった。つまりは全部「跡」みたいなものだ。
 仏像や経典等、国宝、重文は、平成になってから完成した讃衡蔵(宝物館)に収蔵展示されているから、見るべきものは何もないとは言わないが、芭蕉は淋しかったろうね。

 いっそのこと、芭蕉の時代のように、草生した山中に光堂だけが輝いていた…… そのほうが良いようにも思う。
旅程索引 碑めぐり 出羽路