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  4 霊樹
 神社の社の裏手に、祭られている大きな紅葉の木がある。大人が三人集まっても抱え込めない代物だ。いつから生えているのか、誰も、古い書物でさえも知るところではない。
 毎年、同じように葉を付け、紅葉し、散らす。このサイクルは、人の記憶がある限り、途絶えたことはない。
 それが霊樹である。
 霊樹は、深く切り込んだように節くれだった幹のずっと先に、真っ赤に色付いた葉を身にまとっていた。今が盛りと言わんばかりに存在を主張するそれは、太い枝をしならせるほどだ。
 陽光が、何層にも重なった葉の隙間をぬい、ぼんやりとした光のすじを地面にこぼしている。深紅の世界の光は、目の錯覚か、薄く赤みがかって見える。
 ゴウは、その光の中をゆっくりと進み、霊樹の前に立った。
 ゴウの肩の高さに、紙垂の付いた真新しい注連縄が結ばれている。その太い幹には、緑の苔が群生していた。
「久しぶりだな、霊樹」
 霊樹を少し見上げ、相手が目覚め、返事をするのをじっと待つ。
 やがて、重々しい低い声は、ゴウの耳ともいわず頭ともいわず、体の中に直接降りてきた。
「ゴウ…か…」
「ああ。ちょっと聞きたいことがあって来た」
「…分かっている。昨日の波動のことだな…?」
 体の芯まで染みとおる声は、決して不快なものではない。むしろ、心地よいものだ。その声は、霊樹からにじみ出るように流れている。
「あれは、一体何だ?」
 ゴウは、ジーパンのポケットに手を突っ込んだまま、霊樹の幹を睨んだ。
 「助けて」という、ひどく曖昧な思念。しかし、その強烈な波動は、今でも体が覚えている。
「…分からない」
「分からない?」
「いや、分からずともないが…。…あの波動は、二つの場所から同時に発せられた」
「!?……どういうことだ?」
 霊樹の根は、日本全土に延びていて、山などはいわば、霊樹の根のうねりやこぶである。それは、樹木の根、そのものが地中に埋まっているというわけではなく、木である「気」が大地を駆け巡っている、という風水的な意味になるが。
 少なくとも、その大地を巡るネットワークで、霊樹は様々な場所の出来事を全て感知できるのだった。
「二つの場所から同じ波動?そんなことがあるのか?」
「普通の人間ではない。…それは確かだ」
 普通、魂が人間の肉体から離れると、肉体に精神、思念が残ることはない。思念の分裂は、直接「死」を意味するからだ。肉体のみで波動を発することなど、不可能である。
「…とりあえず、場所を教えてくれ」
「東京都墨田区。そして、千葉県柏市だ。詳しい場所はおまえの右手に記しておく」
 霊樹は、完結に告げた。ゴウの尋ねたこと以外は、一切口にしない。
 それというのも、霊樹の膨大な情報を人間の器に入れれば、たちまち受け入れられる量を越し、いとも簡単に廃人になってしまうからである。
 ある状況を明確に伝えるとき、人は数多くの言葉と表現を使う。霊樹の情報もそれと同じで、ひとつのことを伝えるのに、全ての要素が吐き出される。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、言葉に表せないその場の雰囲気に至るまで…。
 人ひとりの行動でさえ、情報として残そうとすると、気が遠くなりそうなものになる。日記のような、記憶の断片を残すこととは、遥かに次元が違う。そこに、数秒前に瞬きをしたことなど、記録されているだろうか?
 その人間は、一生一人きりとはいかない。誰かと会い、話し、体に触れることもあるだろう。無限に広がる可能性を、「情報」という範疇にとどめることすら考えに及ばなくなる。
 それでも、霊樹は情報を選択することはしない。その刹那の事象全てをその身に取り込む。
 その記憶が、何千年にも渡って蓄えられているのだから、霊樹の存在は計り知れない。
「波動の持ち主の名前、性別、年齢は?」
 そしてゴウは、半ば機械的に霊樹から情報を引き出した。
 名前は高木真名。中学二年生の一四歳。女の子だ。千葉県柏市に住んでいる。
「柏は分かったが、墨田区の方は一体何なんだ?」
「田中秀征の家だ」
「田中秀征?聞いた名だな」
「官房長官だ」
 ゴウは、俯いてひとつ溜め息をつくと、あごに手をあてて、考え込むような姿勢をとった。
 中学生の女の子と官房長官に、関わり合いのあろうはずがない。
「高木真名と田中秀征は、血縁関係ではないんだろう?」
「何世代まで遡った血縁関係だ?」
「…そうだな。『玄孫』や『はとこ』が表現できる程度。十世代というところか?」
「それでは、血縁ではない」
 霊樹は確かに膨大な情報を持っている。が、それは、膨大な量を持っているがゆえに、柔軟な引き出しには向いていない。情報量は確かだが、思うような使い勝手が得られないパソコンのようだ。
 要は、使用者の能力がダイレクトに返されるわけだが、ゴウも馬鹿ではない。実際、「二人の関係は?」とは聞かなかった。そんな問には、何年の何月何日何時にどこですれ違った、というような情報が吐露されかねない。
 つまりは、ゴウ自身が他から情報を得、状況を理解する必要がある。それなしでは、霊樹を利用することもできない。
 ゴウは、再び溜め息をつくと、霊樹を仰ぎ見た。
「これ以上は、自分で調べた方が良さそうだな。霊樹、このことにカタがつくまで、俺に意識を飛ばしていてくれ」
「…分かった。いいだろう」
 ゴウは、その言葉を聞くと、霊樹に背を向けその場から離れた。

 再び裕美の家の前に戻ると、神社の石段を上ってくる者があった。その人間は、ゴウに気付くと、「よう」というように右手を軽く上げる。
 自然、ゴウの瞳が鋭くなった。
「そないな怖い目すんなて。そんなやから女が寄りつかんのやで」
「………」
「おまえみたいなべっぴんさんやったら、よりどりみどりやのになあ」
 歯を見せて笑顔を作りながら、さももったいなさそうな顔をしてみせる。
 その顔を真っ直ぐに見ようとはせず、視界の端に入れながら、ゴウは口を開こうとしない。その瞳には鋭さが残ったままだ。
 ゴウと同じ位長身な男は、砂茶色のスーツを身に纏っていた。スーツを着ていても、男の筋肉が無駄なく引き締まっているのが見て取れる。
 どこそこのスポーツ選手と言っても、疑う者はいないだろう。
 ゴウは、この男が嫌いだった。その姿を見ただけで、嫌悪感がふつと沸いてくる。何故かと言われても、その理由を言葉では表せない。ただ、本能が彼を嫌いと言っていて、その嫌悪感がゴウの中に存在しているのは確かだった。
「なにも、そないに嫌うことないやろ?」
「何しに来た、レッド」
 レッドは、待ってましたと言わんばかりに、両手を広げ、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
 彫りの深い顔の左の頬に、梵字のような赤い刺青がある。レッドというコードネームも、この刺青からだ。
「ひどい言われようやな。仕事がこの近くであったさかい、わざわざ寄ったのに」
「……」
 ゴウに、レッドと必要以上の話をする意志はない。それを見てとったのか、レッドは小さく溜め息をつくと、諦めたように続けた。
「まあ、ええわ。忍さんが、おまえを呼んどる」
「忍さんが?」
「ああ、そうや」
 レッドは、風邪になびく栗色の髪の奥にある、青い瞳を細めた。
「護!」
 ふいに、ゴウの背後から声が掛けられた。
 玄関から姿を現したのは、裕美の祖父、この神社の宮司でもある一郎だった。
 二人の傍に歩み寄って来た一郎に、レッドは軽く会釈をする。一郎は、それに頷いて応えた。
「これを持っていきなさい。霊樹で作った破魔矢だ」
 そして、手に持った、何の飾りもない古ぼけた矢を、ゴウに差し出す。物理的に何かに刺すものではないため、矢の先に矢じりはない。真っ直ぐな棒に、白い羽がついているだけだ。
 しかし、霊樹はこの神社の御神木である。この破魔矢がそう簡単に作れるものとは思えない。実際、霊樹からそんな話を聞いたことはなかった。
「でも、これは…」
「必ず役に立つ。大事に使いなさい」
 迷いのないはっきりとしたその表情と言葉に、ゴウの戸惑いは消え去った。
 一郎は、ゴウを外すと、唯一霊樹と会話できる人間である。短く刈り上げた頭には白髪しかないが、皺だらけの顔にある瞳には、一線を超えたものが存在しているようだった。
 一郎に、ゴウは何も話していない。しかし、一郎は全てを知っているかのようだった。
「分かりました」
 ゴウは、矢を受け取り、しっかりと握ると、そう応えた。
「ごちそうさまでした。じゃ、俺、行きます」


to be continued


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