Home → 第7章:その他 → 「ぷよぷよ通」の思い出


出会い(1996年春)

「ぷよぷよ通」への移行は遅く、登場(アーケード版)して1年以上たってからでした。
相殺の効果の大きさが当初は理解できず、値段の高さのため様子見の状況でした。

しかし、傑作「ぷよぷよ通」購入の日は確実に近づいていました。
近所で最強を誇っていた次男が、「ぷよぷよ通」で負け越したのがトリガとなりました。

「す〜ぱ〜ぷよぷよ通REMIX」を購入しました。
あわせて、前回の教訓(?)を活かして「ALL ABOUT ぷよぷよ通」(電波新聞社)も発売とほぼ同時に購入しました。


最初の頃

「ぷよぷよ」の戦い方(5連鎖階段速攻)による刷り込みが強烈だったためか、なかなか「ぷよぷよ通」らしい戦いが我できませんでした。
相殺のため戦いのバリエーションが出てきたためか、親子兄弟で少しずつ連鎖の組み方に差が出てきていました。

(私)折り返しチャレンジ(チャレンジと使いこなせるは違います)
(兄)5連鎖目多色発火、多色発火をつぶしにも利用
(弟)連鎖尾(雪崩)

この頃は、攻撃力とつぶしを兼ねた組み方(図1参照)をする長男が優位にたっていました。

図1 【確認】
_      _
|      |
|     |
|     |
|     |
|    
|    
|    
|   
| 
| 
| 
| 
└−−−−−−┘

図1で、相手に隙があれば「」にもしくはでつぶし、大連鎖(といっても7連鎖程度)ならAAで合体させる。
今にして思えば、キーぷよ・合体に似た思想だったと思います。


大連鎖への道

大連鎖(といっても10連鎖以下)使用には時間がかかりました。
良書「ALL ABOUT ぷよぷよ通」をもってしても、私の連鎖力をすぐには伸ばせませんでした。
息子たちが、連鎖力に限度がきやすい組み方をするため大連鎖を組むきる前に攻撃が受けるというのも原因だったと思います。
連鎖の組むスピードアップを図る必要が出てきていました。

状況を変えたのは、「とことんぷよぷよ」でした。
スピードになれるためにL99のハイスピードで連鎖(といっても2〜4連鎖)を組むように練習しました。そのおかげでスピードへの慣れが出てくるようになりました。
もう二度とすることはないと思いますが、3人でカウンターストップまでもっていきました。
記憶があいまいですが、9時間ぐらいはかかったはずです。カウンターストップが視野に入ってからは「自分の番でばたんきゅーは避けなければ」というプレッシャーを覚えています。

特訓の成果もあってか、折り返し(階段折り返し)が使いこなせるようになってきました。
それにともない、勝率首位となりました。
ただし、その時代も長くはなく折り返しを覚えた息子たちに抜かされていきました。「歴史は繰り返す」ということを何度体感したことでしょう。


ぷよマスターズ大会(1997年春):番外

長男の大学入学に伴う引越し手伝いをかねて、4泊5日の東京観光をしました。(理解ある職場のみんなありがとう。)
日程が「第三回全日本ぷよマスターズ大会」と重なっていたため、私・長男・次男は当日幕張観光(?)となりました。
半ばあきれ顔の妻と長女は青山周辺の散策に行ったようです。

会場に行ったものの、実は参加していません
旅行前日にも18連鎖(ただし対COM)全消し成功と調子は悪くなかったのですが、若い世代に混じって参加する度胸はありませんでした。

息子たちは参加したのですが、結果は予選敗退でした。勝率は悪くはなかったようですが、試合数をこなすことができなかったようです。大連鎖より5連鎖即効・つぶしのほうが有利だった様です。
決勝は大画面で観戦しましたが、実力差は十分感じ取れました。


その後

「ぷよぷよ通」は、「ぷよぷよSun」の登場でお役御免となるはずでしたが、そうはなりませんでした。
その次の「ぷよぷよ〜ん」が登場しても状況は変わりませんでした。
言わずもがなかも知れませんが、「ぷよぷよSun」「ぷよぷよ〜ん」が「ぷよぷよ通」を超える作品ではなかったのが原因でした。

その「ぷよぷよ通」も長男が巣立ち、次男が巣立っていって、する機会もなくなっていくのでした。
そして「ぷよぷよフィーバー」「ぷよぷよ2ちゃんねる」までの長い冬眠がやってきました。



Homeへ戻る
Copyright(C) 2007 @RURU All rights reserved.