おじいさんのやかん

 僕がそのやかんを見たのは何年ぶりだったろう。
 その日僕は、父母と一緒に、僕が十八になるまで住んでいた山梨
の家を訪れた。久しぶりに見る家は、さすがに荒れ果ててはいたが、
何もかもが懐かしく、そして暖かかった。
「おーい、来てみろ!はやく、はやく!」物置の方で父が叫んだ。
 僕と母がかけつけると、父は見覚えのある小さなやかんを持って
笑っていた。
「ああ、おじいさんのやかんね。懐かしいわ」母も微笑んだ。
 ―おじいさんのやかん。
 それは確かに、昔、おじいさんのやかんと呼んでいたやかんだっ
た。
 祖父は、そのやかんを片時もはなさず、そばに置いていた。寝る
ときも畑仕事に出かける時も……。だから、いつの頃からか、おじ
いさんのやかんとみんなが呼ぶようになったのだ。
 その祖父は、僕が中学の時死んだ。その後やかんは、ずっと仏壇
の奥に置いてあったのだが、引越しの際、思い出のあるこの家に置
いていった方がいいということで、物置の奥にしまいこんだのを、
みんな、すっかり忘れていた。
 そのやかんには、みんなが不思議に思っていたことがあった。と
いうのは、誰も祖父が、そのやかんを火にかけたり、やかんから何
かを注いだりするのを見たことがなかったのである。中に何かが入
っているのか、あるいは空なのか、父母や僕が訊いても、祖父は何
も答えなかった。わかっていたのは、それが、若くして逝った祖母
が愛用していたやかんだったということだけだった。
「開けてみようか?」父が言った。
「うん、でもなんだか怖いような気がするね」僕は言った。
「ああ、やさしかったおやじが、このやかんのこととなると、人が
変わったようになったからなあ。まだ物心つかないおまえが、おも
ちゃにしようとして大声で怒鳴られたのを思い出すよ」
「開けてみましょうよ。もうおじいさんだって許してくださるわよ」
母が言った。
「ああ、そうだな」父はそういうと、ぼろぼろになったつまみの部
分を壊さないように、ゆっくりと蓋を開けた。
 ―中には紙切れが一枚だけ入っていた。
「母さん…」父が小さくつぶやいた。よく見ると、紙にはうっすら
とモノクロの女性が写っていた。
「おやじとおふくろは、若い頃、それは貧乏だったらしいんだ。だ
から、おふくろが死んだ時も、形見ひとつ満足に残せなかったらし
い。おふくろの病気がわかった時に、おやじは奮発して、隣町の写
真館で写真を撮ったと言っていたけど、それがこんなところに……。
愛用のやかんと写真、口には出さなかったけど、おやじはずっと、
おふくろのことを思いながら生きていたんだなあ……」
 父の目から溢れ出すものが、ひとつ、ふたつ。僕も気がつくと泣
いていた。
「やかんで温めるのは、水だけじゃないのね。おじいさんは、ずっ
と思い出を温めていらしたんだわ」母がぽつりと言った。