死のスイッチ

 そのスイッチは、人で賑わう公園の中央にあった。コンクリー
トの台座に据え付けられたそれは、まわりをプラスチックのボッ
クスで覆われ、遠めには電話ボックスのようにも見えた。
 赤く大きなきのこ形のスイッチのほかには、表示器が取り付け
られており、そこに表示されたメッセージが、興味本位でスイッ
チを押そうとする者を牽制していた。
『押したら死にますよ』
 そんな恐ろしいメッセージが表示されていたのだ。
 スイッチを押したら、台座に仕掛けられたダイナマイトが爆発
するのではないか?いや、ボックス中に毒ガスが充満するらしい。
噂は噂を呼び、いつしかそれは『死のスイッチ』と呼ばれるよう
になっていた。

 深夜、今まさに、一人の男が意を決してそのスイッチを押そう
としていた。一年前、最愛の妻を亡くした男は、生きていくため
の最後の希望をその日失ったのだった。

『押したら死にますよ』

 男には、表示器の文字がむしろ救いの言葉に見えていた。ああ、
殺してくれ、生きてたっていいことなんかないんだ。そんな気持
ちで、スイッチを押し込んだ。

『本当に死んでしまうんですよ』

 しばらくして、低く陰気な声とともに、表示が変わった。実は、
それまでにも、酔っぱらいや子供が面白半分で、そのスイッチを
押したことは、何度かあった。しかし、その声が響き渡ると、酔
っぱらいは酔いが醒め、子供は泣き出し、逃げるようにボックス
から逃げ出していたのだった。

 しかし、男はひるまなかった。妻は本当に死んでしまったんだ。
はやく妻のもとへ行かせてくれ。遊びで押しにきたわけじゃない
んだ。そう思いながら、さらに、もう一度スイッチを押した。

 表示器は、真っ黒になった。

 男は、もう後戻りできないと悟っていた。そして、やがて訪れ
るであろう死を前にしてこんなことを考えていた。女房は本当に、
自分を待っているのだろうか?もしかしたら、自分の分も生きて
ほしいと願っているのではないだろうか?それにヤツより先に僕
が死ぬのはおかしいではないかと。
 男の頬に涙の筋が二本できた。一本は亡き妻への変わらぬ愛情、
もう一本は、ぶつける相手のいない悔しさからできたものだった。

*****

「死にましたね」
「ああ、死んでしまったね」
 白い部屋の中央では、腕に遠隔操作できる注射器をつけた死刑
囚が横たわっていた。
「無差別殺人を犯した犯罪者に課せられる死刑執行が、こんな形
で行われているとは、誰も思わないでしょうね。今日あのスイッ
チを押したのが誰だかわかりませんが、この死刑囚にとって、い
つ自分が死ぬかわからないという恐怖は想像を絶するものがあっ
たことでしょう」
「まあ、それは当然の報いだろう。この死刑囚には情状酌量の余
地はなかったというからな。『何故、死刑なんかにするんだ!そ
いつを殺すのは僕だ!』被害者の旦那さんは、今日の法廷で、そ
う叫んだというよ。しかし死刑が決まったその日に執行されると
は、旦那さんも、この死刑囚も思わなかっただろうな」
 看守のひとりは、そう言って目の前のスイッチを『再確認』か
ら『死亡通知』へと切り替えた。

*****

『死にました』

 五分ほど経って、ボックス内の表示器がそう表示を替えた。
 男は生きてその表示を見ていた。だが、男の中では何かが変わ
っていた。
 死んだつもりで、もう一度やり直してみよう。このスイッチが
復讐心しかなかった今日までの自分を殺してくれたんだ。妻の分
も生きて生きて生き抜いてやる。かたきを取ってやれなくてゴメ
ンよ。
 男はそう思いながらボックスを後にした。

(了)