サウナルーム殺人事件

 九月二十日、午後七時三十分。
 
「全く最近の温泉客ってのはマナーが悪いよなあ。かけ湯はしない、平気でタオルは浴槽につける。せっかくの気分がぶちこわしだ」
 非番の草津警部補は、保養に訪れていた熱海温泉で嘆息した。
「お客様、どうなされました?」
 草津の独り言を聞きつけ、腰にタオル一枚といういでたちの男が声をかけた。
「なんだよ、あんた」
「ここの支配人で、有馬というものでございます」
「支配人だ? なら丁度いい。入浴のマナーを教えるのも、あんたらの仕事じゃないのか? 見てみろよ、どの浴槽にも必ずタオルを腰に巻いて入っているヤツがいる。ああいうのは衛生上よくないんだ。それにサウナについても、一言言わなきゃならないな。俺は、温泉も好きだが、サウナも大好きなんだ。それが今日に限って、ギネスに挑戦だかなんだか知らねえが、貸切りで一般客はお断りってのは、どういう了見なんだよ」草津は温泉の隅にあるサウナルームを指差しながら言った。
「申し訳ございません。見てのとおりでございまして、あのサウナルームではただ今、十二時間耐久の連続入浴記録に挑戦するという催しが行われているのです。あ、そうだ。ちょっと来ていただけますか」
 支配人と名乗る男は、サウナルーム前の浴槽から黄色いタオルを拾いあげると、ルーム入り口のドアまで草津を案内した。
「おいおい、湯船にタオルを忘れていくやつまでいるのか? 最低だなあ、ここは」草津は口をとがらせた。

「そこから、温度計がご覧いただけますよね。何度ですか?」
「あん? ああ、あれか。九十五度といったところか。で、あそこにいるのが挑戦者か。なんだよ一人だけじゃないか。またずいぶんと隅の方にいやがるなあ。しかし涼しい顔してやがる。ギネスに挑戦するぐらいだから自信はあるんだろうが」草津は、入り口ドアのガラス窓に額を押し付け、ルーム内を隅々まで見渡しながら言った。
「九十五度ですか、ぎりぎりですね。すみません。私、温度調整をして参ります。記録の達成には厳しいルールがありまして、給水の為に外に出るのは、一時間に一度以下、温度は九十五度から百五度の間に保たなければならないのです。一般の方の立ち入りをご遠慮いただいているのは、このドアの開け閉めで温度が下がるのを防止するためなんですが、ここはわりかし古いタイプのサウナルームなので、定期的に巡回して、薪を燃さなきゃならないんです。当旅館にはサウナ以外にも薬湯や新茶湯といったお体に効くお湯がたくさんありますから、どうぞそちらで疲れをいやしてください」
 草津は、しばらくサウナルームの前にいたが、温度計が百度に達したのを確認すると、少し離れた新茶湯につかるためその場を離れた。

 午後九時三十分。
 
「ぎゃあー」
 興味半分で、サウナルームを覗いた客が悲鳴をあげた。「し、死んでる。い、いや殺されてる」

 ルーム内では、記録に挑戦していた別府武司三十五歳が頭と胸から血を流して倒れていた。近くには壊れた温度計が転がり、それが凶器かとも思われたが、左胸に残る鋭利な刃物で刺したような傷が致命傷であることは、(すでに乾いてはいたが)血液の量から明らかであった。
 すぐさま、110番通報がされ、静岡県警からパトカーがやってきた。鬼刑事の異名をとる登別剛三警部が鑑識を引きつれ、サウナ室に入ったのは、事件発生から三十分という速さであった。。
「うわあ、たまらんなあ。これほど熱い殺人現場もないだろう。おい誰か、そこで赤々と燃えている薪をなんとかしてくれないか!」登別警部が四角い顔をゆがめている。
「警部殿、現場の状況を変えるのはまずいのではありませんか」
 いつの間に来たのか、草津が新茶の匂いをぷんぷんさせて、登別の傍らに立っていた。
「きみがどうしてここにいるんだ? 熱がある、それも三十八度を超えているから休みたいと電話してきた人間がどうしてタオル一丁で偉そうなことを言うんだ」登別が、草津に向かって質問をした。
「け、警部。いや、あの、そんなことより、この支配人を尋問してくださいよ。犯人はこいつに間違いないんですから」
「どうしてだ?」
「だって、こいつしか被害者に接触できた人間はいないんですよ」
「おい、軽はずみなことを言うんじゃない。動機は? 凶器は? そういった基本的なことが何もわかっておらんだろ」
「凶器については、だいたい想像はついております。今まで凶器を消すトリックはいくつも考案されてきましたが、その中でももっとも原始的な凶器が使われたと思って間違いないでしょう」
「氷の短剣か?」
「そのとおりです。大きさにもよりますが、こんな状況下では三十分もあれば、きれいさっぱり蒸発してしまいますからね」
「で、君は、その凶器が、この支配人によって持ち込まれたのを見たというんだな」
「ええ、おそらく、サウナルーム前の浴槽にタオルに巻いて沈めてあったのでしょう。それを支配人が拾い上げるのを目撃しております」
「浴槽に、沈めて? よくそういうことが言えるな。そんなことしたら溶けてしまうだろ! それに、他の客が気づいたら、それで終わりじゃないか」
「警部は何もご存知ありませんね。サウナルーム前の浴槽というのは冷水槽になっているのが普通なんです。だから、氷を入れておいても、そんなにすぐには溶けないのです。それに、サウナ室は本日貸切りでしたから、冷水槽に入るような物好きはいません」
「うむ。で、支配人がそのタオルを拾い上げたのは、何時なんだ?」
「ここの時計で七時半頃でしたね。その時、支配人は温度調整だと言って、そのタオルを持ったまま、ここに入っています。出てくる時は手ぶらだったんで、ちょっとひっかかってたんですよね」
「すると、その時にグサっといったわけだな」登別は不謹慎にも、動作をまじえながら言った。
「いえ、実はわたし、八時ちょい過ぎに被害者が水を飲みに出てくるのを見ています。その後、八時半頃と九時頃に支配人が中に入りましたから、犯行は、そのどちらかでしょう。私、サウナが諦め切れなくて新茶湯の中から時折こっちを見ていたのです。挑戦者がギブアップしたら、すぐにでも入ってやろうと思って」
「おい!なんかむちゃくちゃ言ってないか。さっき、こんな温度だったら三十分もあれば蒸発してしまうと言ったのはキミだぞ。それともなにか? 八時半か九時かに入った時、新たに凶器を持ち込んだとでもいうのか?」
「それはないでしょう。どちらも支配人はタオル一枚を腰に巻いただけでしたし、ご丁寧にそのタオルも外して、ドアの外側の取っ手に掛けてましたから、その時に持ち込んだというのはありえません」草津は自信たっぷりに言った。
「だから、それじゃあ、この支配人には犯行は不可能だと言うんだよ。だいたい、君は支配人が犯人だと言っておきながら、彼の犯行を否定するようなことばかり言ってないか?」
「いえ、そんなことはありません。私には全ての謎が解けているのです。被害者が何故頭を殴られたかというのがポイントでしたね。それではもうそろそろ、この部屋に入って十五分になりますので冷水槽につかってきます。五分経ったら戻ってきますので、その間に考えてみてください。草津順一郎でした」草津はそう言い残すとドアを開け、冷水槽に飛び込んだ。「ちめてぇ〜!」


 ◇◇◇ 読者への挑戦状 ◇◇◇

 状況から見て、犯人は支配人に間違いないようである(というか、警察を除いた登場人物が彼しかいない)。どうやって、凶器の氷のナイフを温存、いや冷存したのか。どうやら、被害者が頭を殴られたことが関係しているようである。諸君も登別警部と一緒に、現場の状況から推理してみて欲しい。
 なお、手がかりは全て提示したつもりである。


<解決編>

「トリックは氷の方にではなく、温度計の方にあったのです」草津は静かに語りだした。
「すると何か? 文字盤を張り替えて表示をごまかしていたとでもいうのか?」登別警部は滝のように流れ落ちる汗をぬぐっている。
「いえ、彼はそんな面倒なことはしていません。我々日本人が百度と言った場合、それは摂氏百度、つまり百度Cのことを意味しますが、アメリカでは華氏百度である百度Fを意味します。支配人はサウナルームの温度計を華氏温度計につけかえることで、あたかもルーム内が百度C前後の高温下にあるように思わせていたのです」草津は鼻をひくひくさせて、得意げに語った。
「華氏だと? ちなみに華氏の百度は摂氏の何度に相当するんだ?」
「概ね三十八度といったところです。サウナルームは湿気が殆どありませんから、真夏の日中よりも涼しく感じられる温度です。少し太めの氷柱なら一、二時間はもつでしょうね。温度計が壊れていたのは、被害者の頭を殴ったからなのですが、被害者を傷つけることが目的ではなくこのトリックを見破られないため、壊してしまう必要があったのです」

「まさか、あんたが刑事さんだったとは。私もえらい人にアリバイ作りを頼んだものだ」沈黙を守っていた支配人が語り出した。「そのとおりです。別府から金を借りていた私は、あの温度計をつかえば必ずうまくいくからと、架空の大会をでっちあげ、記録達成の際には、その賞金で穴埋めをすると言って別府をサウナルームに閉じ込めることに成功しました。冷水槽からタオルにくるんだ氷柱を拾いあげた私は、それをサウナルームに持ち込み、温度調整に行くかたわら、ちょうどよい凶器に変わるのを待ちました。刺殺した後は火力を一気に上げ、華氏百度の空間を摂氏百度に変えることで証拠隠滅を図ったというわけです」支配人はうなだれた。
「おい、草津君。キミにしては上出来じゃないか。ほんの少し見直したぞ」登別警部が極めて控えめに草津を褒めた。
「いや、たいしたことないですよ。実は額をそこの窓に押し付けて中を覗いた時、殆ど熱が伝わってこなかったので疑問に思っていたんです。それと、普通なら温度計のような金属を使った物は熱くて持てないずなんです。まあ、最終的には、たまたま私が華氏温度計を使い慣れているからわかったようなものですが」
「使い慣れてる? おい、まさか今朝の電話で三十八度以上熱があると言ったのは……」
「あ、また冷水漕へ行く時間だ! 後はお願いします」

(了)