林檎(りんご)

 この病院に息子が入院してから3ヶ月が過ぎようとしている。
医者の話では、もうどこも悪くないということなのに、毎日ベッド から窓の外をうつろな目で見ている。
「たけし、早く元気になって退院しましょうよ。そうだ、お母さん、 たけしが今一番欲しい物買ってあげるわ」 「何でもいい?」
「うん、たけしが元気になってくれるんだったら何だっていいわよ」 「あそこに果物やさんがあるでしょ。あそこの前に積んである林檎 が全部欲しいんだ」
 見なくても、この2階の病室から通りを挟んだ向こう側に果物屋 があるのは知っている。林檎がたくさん積んであることも。
「あの林檎を全部?100個ぐらいあるわよ。そんなにたくさん食 べられないでしょ?」
「食べるんじゃないよ。あれがこの病室にあったら元気になれそう な気がするんだ」
「毎日、あの林檎を見てたのね。わかったわ。じゃあ、後でたけし が検査受けてるあいだに買ってきてあげるね」

 そうは言ったものの、心は重かった。何度かあの店には果物を買 いに行っている。だから知っているのだ。あの林檎がプラスチック の模造品であることを。
「すみません」
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」店の中から可 愛い女子店員が出てきた。
「りんごを100個ばかりと、それと言いにくいんだけど、お願い がひとつあるの」
 私が出した結論はこうだった。本物の林檎を買い、店の前の模造 品は片付けてもらう。そうして本物の林檎を病室に飾ればたけしが がっかりすることもないと思ったのだ。
「わかりました。退院されるまでの間でよろしいのなら、あれは奥 にしまっておきます」
 店員さんがにっこり微笑んでそう言ってくれたので私はホッとし た。

「わあ、本当に買ってきてくれたんだ。ありがとう!」
たけしは、その日からみるみるうちに元気になっていった。けれど、 不思議なことに相変わらず窓の外ばかり見ている。病室の林檎には 目もくれず。ベッドの上からではなく、起きて窓際から見るように なったのが救いといえば救いだったけれど。

 ある日、そっと、たけしの後ろから、あの果物屋さんを見て、私 にはすべてがわかったような気がした。
模造の林檎がなくなった店先からは、あの店員さんがよく見えた。 たけしが本当に欲しかったのは林檎ではなく、あの娘の笑顔だった のだ。
 私は甘酸っぱい気持ちになった。それは林檎の香りのせいではな く、年頃の息子を持つ母親なら誰にでもあることなのだろう。