前歯

 市役所の中にある、いじめ相談室から僕に電話があった。相談を
希望する親や子供は多いらしく、予約してから二週間待って、よう
やく僕の番が来たのだ。
 中学一年の娘が、同級生からいじめをうけているということを涙
ながらに訴えた時、僕も妻も言葉を失った。西村とかいう男子生徒
を中心とした集団が、娘をいじめの標的にしているというのだ。直
接、その生徒の家に乗り込むことも考えたが、「チクった」とか因
縁をつけられて、いじめがよりエスカレートすることを考えると、
とりあえず第三者に相談すべきだと思った。相談室のことは、前か
ら知ってはいたが、まさか自分が相談する立場になろうとは思って
もみなかった。

 いじめ相談室は、市役所の中にあるのではなく、隣接した建物の
中にあった。僕は受付をすませ、玄関でスリッパに履き替えて待合
室に入った。
「野村さん、どうぞ」しばらくして、白衣の女性がカーテンで仕切
られた個室から出てきて、僕の名前を呼んだ。彼女が、ここの専属
の先生なのだろう。眼鏡の奥の目が知的な雰囲気を漂わせている。
ただ、真っ赤な口紅が、こういう職業には不似合いな気もした。
 先生は、まわりを見渡した後、受付の女性に小声で何かを言って、
先に個室へ入っていった。

「どういった御相談でしょうか?」
 先生の後を追うように部屋に入った僕に、先生が言った。
「どうも娘がいじめられてるらしいのです」
「例えばどのような?」
「靴を隠されたりすると言ってました」
「靴ですか…。いつの時代もやることは変わりませんね。ところで、
野村さん。私の顔に見覚えはありませんか?」先生はそう言って、
眼鏡を外した。
 面長の顔と、鼻の横に二つ並んだほくろに、僕は確かに見覚えが
あった。
「安田恵子…さん…ですか?」
「覚えていてくれましたか。あれから二十年ですものね。お忘れに
なっていてもしょうがないと思ってましたわ。予約表でお名前を拝
見した時、もしかしてと思ったんだけど、やっぱりあの野村君だっ
たんだ」先生、いや安田恵子は表情ひとつ変えずそう言った。昔か
ら笑わない子だったが、そういう所は変わらないものらしい。

 それにしても……僕が、彼女を忘れる?━━
(忘れるはずがないじゃないか)
 どことなく暗い感じのする彼女を、僕らはいつもいじめていた。
娘が受けたいじめの話を聞くたびに、僕は、僕が彼女にしたことを
思い出して申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたのだ。
 だが、目の前にいる彼女は、当時の面影はあるものの、まるで違
う雰囲気を漂わせていた。鼻の横のほくろがなければ気がつかなか
ったかもしれない。僕は彼女に、目標を達成した人間だけに見られ
る自信のようなものを感じていた。この仕事に就くことが彼女の魂
の置き所だったのだろうか。
「あの頃は、すまなかったね」気まずいムードの中、それだけ言う
のがやっとだった。
「あら、何のことですか?」
 僕を気遣っているのか、それとも本当に忘れたのか。彼女はまた
しても顔色ひとつ変えず言った。
 いや、忘れるはずはない。靴を隠すことから始まって、その靴の
中に画鋲を入れて返したり、一番ひどい時は、ただむしゃくしゃし
てるからという理由だけで、顔を殴りつけたこともあった。前歯が
1本折れて、口の中が血だらけになった。そして僕は、親や先生に
こっぴどく叱られた。それ以後、彼女をいじめることはなくなった
のだが、いまだに夢の中にあの時の彼女が出てきてうなされること
がある。

「いや、あの、それで、娘に対して親は何をしてあげればいいので
しょうか?」
 僕は、久しぶりに会った同級生に対して、昔話をするでもなく、
結論を急いだ。いや、楽しく語れるような昔話はなにもなかったし、
彼女が本当に何も覚えていないのなら、昔を語ることは、むしろ避
けたかった。
「結局は、子供が自分で乗り越えなければしょうがないのです。親
は子供の傍にいつもいられるわけじゃないのですから。中学生とい
うのは、子供と大人の間で揺れる一番不安定な時期です。ですが、
親が思う以上に子供は強いものです。いじめをバネにして、立派な
人間になる人もたくさんいます。まあ、中にはいつまでも、いじめ
た相手への復讐だけを考える人間もいないではないですが」
 ひとつひとつの言葉が、僕に突き刺さった。因果応報、そんな言
葉が頭を駆け巡った。
「はい、ありがとうございます。ただ、娘に、安田さん、いや先生
のような強い意志があるかどうか……」
「あら、どういう意味かしら?」
「あ、いえ、もう少し娘と話し合ってみることにします。ありがと
うございました」
 僕は、その場の雰囲気から抜け出したくなって、娘には済まない
けれど、何の解決策も得られないまま、立ち上がりカーテンをくぐ
った。妙な胸騒ぎに突き動かされるように……。

 胸騒ぎはわりとあっけない形で現実となった。玄関に脱いだはず
の靴がなかったのだ。念のために、下駄箱の中もひとつひとつ開け
て確かめたが、どこにもなかった。やっぱり、彼女は僕を許しては
くれていなかったのだ。そう思わずにはいられなかった。
「どうしました?」途方にくれる僕に、彼女が声をかけた。「あ、
いけない。長田さん、野村さんの靴、まだ終わらないの」
「あ、すいません。靴磨きなんてあまりしたことがなくて…」
 受付の女性が、そう言いながら僕の靴を持ってきてくれた。
「すこし汚れていたから、彼女に磨いておくように頼んでおいたの。
隠されたとでも思った?」
「いや、そんなことは……」僕は、何か釈然とせず、靴の中を覗き
こんだ。
「大丈夫ですよ。誰かさんみたいに画鋲を入れたりしませんから」
彼女は、僕の考えを見透かすように、そう言った。背筋を冷たいも
のが走った。
「お邪魔しました」僕は、それだけ言って逃げるように背を向けた。
靴磨きだなんて嘘に決まっている。これは彼女のささやかな復讐に
違いない。
 入り口の扉を開け、足早に立ち去ろうとする僕に、後ろから彼女
が、さらに声をかけてきた。
「あ、うちの息子と野村さんの娘さんは同じクラスだそうね。よろ
しく言っておいてくださいね」
 思わぬ言葉に振り返った僕は、いつの間につけたのか、彼女の白
衣のポケットに名札があるのを見た。『西村恵子』と記してあった。
 呆然と立ち尽くす僕に、彼女は、初めて微笑みかけた。鮮血のよ
うに赤い口紅の中に、折れた前歯がそのままになっているのが見え
た。

(了)