記憶の限界

 個人差はあるが、遡れる記憶の限界は四才までであるという。こ
れは長い間、心理学会の謎であった。ところが、その謎をついに解
き明かしたという知らせが、僕のもとへ届いたのだ。月刊『メンタ
ル情報』の記者として、これは是非記事にしなければならない。僕
は、最低限の準備だけをして、張本人である博士のもとへ急いだ。
 
「博士、早速ですが、例の件、お聞かせ願えませんか?」挨拶もそ
こそこに済ませ、僕は質問を開始した。
「ふむ、よかろう。人に三才までの記憶がないのは、実は記憶喪失
が原因だったんじゃよ」博士は、威厳に満ちた険しい顔をして答え
た。
「記憶…喪失ですか?」
「そうじゃ、人間は三才から四才になる間の一時期、突然記憶喪失
になるんじゃ。これが、三才までの記憶がない原因なんじゃ」
「しかし、普通、記憶喪失といえば、頭をぶつけるとかいった外的
なショックによって引き起こされるんじゃないですか?三才から四
才の間に、誰もがみんな、そんなショックを受けるとは考えられな
いんですが」
「いや、そうとばかりは限らん。強度の心的ショックでも記憶喪失
は起きるんじゃ」
「ああ、そうでした。でも、その幼児期の心的ショックとはいった
いなんなのですか?」
「そこまでは、まだわかっておらん。ただ、それが空腹から起きる
ということは確かなようじゃ」
「空腹…ですか。そこまで具体的にわかっていて、原因がわからな
いというのも妙な気がしますが」
「それを説明する前に、記憶喪失についての具体的な説明をしてお
いた方がよかろう。たとえばじゃ、今お前さんが、頭を打って記憶
をなくしたとしよう。おそらく、記者としてのすべての記憶をなく
してしまうはずじゃ」
「はあ、そうでしょうね」
「問題は、それからじゃ。記者としての記憶をなくしたお前さんは、
どうなさる?一から勉強して、再び記者として活躍することもでき
るじゃろうが、おそらくは、まったく別の生活を余儀なくされる筈
じゃ。何故なら、お前さんが雑誌記者になろうと思ったのは、それ
までの人生での経験、つまり記憶が多分に影響しておるからじゃろ
?」
「ええ、それは間違いありません」僕は、これまでの半生を振り返
っていた。
「記憶を亡くしたお前さんは、就業意欲という点で白紙に戻ってし
まう。つまり、どんな職業に興味を持つか、まるでわからないとい
うことじゃ。たとえは悪いかもしれんが、仮に陶芸に興味を持ち、
記憶喪失後は陶芸家として生きるとでもしておこうか」
「陶芸ですか…。まるきり興味がないわけでもありませんが、まあ
いいでしょう。それで、どうなるんですか?」
「うむ、記憶喪失というのは、脳の中の別の記憶領域が使われると
いう現象であるゆえ、記者であるお前さんは消滅し、かわりに陶芸
家としてのお前さんが出来上がるわけじゃ。さて、一年後、ふたた
び頭をぶつけたお前さんは、記者であった頃の記憶を取り戻す。ど
うなると思う?」
「昔どおりの生活に戻れるんじゃないですか。あ、でも陶芸家とし
ての自分はどうなるんだろ?」
「そう、そこなんじゃよ。実は、もうどうやっても、陶芸家として
の記憶は戻らんのじゃ。そして、面白いことに、ついさっきまで記
者をやってたというような調子で、見事に記者としての仕事を再開
することができるんじゃ。記憶をなくす前と、記憶が戻った後の間
の空白が、何事もなかったかのように埋まってしまうんじゃな」
「なんとなくわかってきましたが、幼児期の記憶喪失が空腹から起
きるということとの繋がりがわからないんです」
「ふむ、実はじゃのう。幼児期に失った記憶を取り戻す人間も中に
はおるんじゃよ。そうした人間を調査した結果、彼らが記憶をなく
したのが、空腹が原因ではないかという結論に達したんじゃ。それ
は、お前さんもよく知っている……。うっ――」
 そこまで言うと、博士は急に頭を抱えてしゃがみこんでしまった。
「博士!どうしたんですか!しっかりしてください!」
「わ、わしにも記憶が戻るのか…。幼児期の記憶が…。すまんが、
妻を呼んでくれんか。そして、これから起きることを、しっかりと
記事にしてくだされ。お、お前さんの知りたがっていることのすべ
てが分かるはずじゃ…」

 僕は、急いで博士の奥さんを呼んだ。博士は、ベッドの上で、そ
れまでの険しい威厳に満ちた顔とは、まるで別人のような無邪気な
顔で横たわっている。
「あんた、どうしたの!突然倒れたっていうから、あたしゃ驚いた
よ。具合はよさそうじゃない。そんな明るい顔、久しく見たことな
いよ」
 奥さんは、ほっとしたようだ。だが、博士が発した言葉で、それ
は一転する。
「ねえ、お昼ごはん、まだ?ぼく、おなかすいちゃった」
「何言ってるんですか。さっき食べてったばかりじゃないですか。
え、ももしかして、ぼぼぼけてしまったの!」
 そこには、口をだらしなく開けて、にこにこしながら小便を垂れ
流す博士の姿があった。でも、僕にはわかった。今まさに、博士が
幼児期の記憶を取り戻したんだということが。幼児還り、二度童(
わらし)とも呼ばれる老人性痴呆症の正体は、幼児期に起こる記憶
喪失からの回帰であることを、博士は身をもって立証してくれたの
だ。博士のいうとおり、もう博士の博士としての記憶は戻ってこな
いだろう。だが、功績は永遠に語りつがれるはずだ。
「ぼけたんじゃないんですよ。やっと記憶を取り戻せたんです。そ
れを不幸だと思うのは、まわりの評価であって。本人にとっては幸
せなことなのかも知れません。記憶を失ったまま、仮の人生を終え
てしまう人の方が多いんですから」
 僕に、言えるのは、それだけだった。

(了)