「こんにちは地球人さん」
 エフ氏が深夜、居間で本を読んでいると、背後から声がした。
「地球人さん?」エフ氏は驚いてあたりを見回したが誰もいない。(はて? 気のせいか)気を取り直して再び本を開くエフ氏。だが、しばらくして、また声がする。
「こっちですよ。地球人さん」
 どうやら入り口の方から声がすると気がつき、そちらを凝視するが、やはり誰もいない。
「そこに誰かいるのか?」漠然と入り口側に向かって返事をするエフ氏。
「ここです。あなた方が『鏡』と呼んでいるところです。あ、今のところそっちからは私の姿は見えないはずですが、こちらからはよく見えています」
「鏡?」エフ氏は読みかけの本『毛が必ず生えてくる100の方法』を閉じドアの横に置いてあるルームミラーを見た。そこには禿げた中年の自分が映っているだけであった。「もしもし、もしもし」エフ氏は歩み寄ると、鏡をこつんこつんと手で叩いてみた。
「あらためまして、こんにちは、地球人さん。私、宇宙人です」はっきりとした声が鏡の中から聴こえてくる。
「こりゃ驚いた。鏡が喋るなんて白雪姫のようじゃないか。しかし、そっちからしか見えないというのは、なんだか覗き見されてるようで気にいらんなあ」エフ氏は鏡を撫でたり、斜めに覗き込んだりしながら言った。
「はあ、もう少ししたら、私の姿もご覧いただけるようになると思いますので、しばらく我慢してください。今、係の者が接続作業を行っていますので」
「ふうん。まあ、いきなりタコみたいな姿を見せられても気色いいもんじゃないから、このままでもいいか」
「タコ? 私たちはあなたとほぼ同じ姿をしてますよ。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「いえ、てっぺんに毛が生えてないところだけが少し違うかなと」
「うわ。そういうことをいうか。地球人の名誉のために言うが、皆が皆こうなってるわけじゃないぞ。キミ達の中にも、僕のように毛が生えてないのはいるんじゃないのか?」エフ氏は顔を真っ赤にした。
「はあ、いるにはいますが、こっちにはいい薬がありますから」
「なに、薬? それを塗れば毛が生えるのか?」
「ええ、なんでしたらさしあげましょうか? 地球人にも有効かどうかはわかりませんが」
「く、くれ、是非くれ。僕は地球のものならひととおり試したがダメだったんだ。宇宙のものならなんとかなるかもしれん」エフ氏は鏡を揺さぶりながら懇願した。
「わ、わかりました。これです」
 鏡の中から、にゅっとチューブに入った毛はえ薬が出てきた。
「これをどうするんだ?」
「指に塗ってマッサージしてください」
 エフ氏は、チューブの蓋を取り、緑色のゲルを二センチほど絞り出すと、両手でそれを頭に塗りつけはじめた。
 エフ氏の頭は、見る間に黒々とした毛で覆われ始めた。指先で感じる毛髪の感触を懐かしむように、エフ氏は念入りにマッサージを繰り返した。
「おおう! これは凄い。さすが宇宙のパワーだ」 
「喜んでいただけて幸いです。──あ、接続がうまくいったようです。これから私の姿をご覧に入れます。いちにのさん!」
 鏡からはエフ氏の姿が消え、変わりに宇宙人の姿が浮かび上がった。
「ほう、確かにわたしにそっくりだな。背格好といい、目鼻立ちといい、禿げ上がった頭といい……。ん? なんで、キミは禿げているのだ。この薬を使っていないのか? も、もしかして、これは非常に危険な薬なのではあるまいな!」
「とんでもありません。それに頭がどうのこうのって、どういうことですか? 地球人の中には、頭に毛が生えた人もいるのですか?」
 エフ氏は、鏡に映った宇宙人の全身をまじまじと見つめた。そして、とんでもない勘違いをしていたことに気がついた。
(頭に薬をつけろとも、頭をマッサージしろとも宇宙人は言わなかったよなあ)マッサージをやめ、両手を目の前に降ろしたエフ氏は、十本の指のてっぺんにびっしりと生えた黒く長い毛を前に途方に暮れるのであった。
 
(了)