井戸の中

 筑波山麓にあるスキー場から、スキーやスノボに興じていた人た
ちが、姿を消した。それは、一瞬の出来事だった。

 スキーヤー達が、目覚めたのは、暗くて深い穴の中であった。上
空にぽっかりと開いた穴が、その深さを象徴していた。

「おい、ここはどこだ?」ひとりの男が言った。
「わからない。スキーをやっていて、雪崩が起きたんだ。いや、実
際には、雪崩だったかどうかもわからない。山の上の方から、何か
とてつもなく大きな物がせまってきたんだ」
「俺は、手のように見えた。とてつもなく大きな、毛むくじゃらの
手だった。おそらく。俺達は、あの手にさらわれたんだ」
 会話をする人数が増えていき、依然と気を失っていた人間も、次
々に目を覚ましはじめた。こんな、深い穴にいて、死亡者はおろか
怪我人さえもいないのが、不思議といえば不思議だった。
「とにかく、ここから脱出しよう。あの出口まで、なんとか登る方
法はないものか」
 一人の若者が、壁をよじ登ろうと試みた。しかし、周囲の壁には
水苔がむしていて、それを拒んだ。
「だめだ、滑って登れない。こんなスキー靴じゃ、なおさらだ」
 若者は嘆いた。
「よく見ると、四角く切った石が、まわりに円筒状に積み重ねてあ
りますよ。ここは、おそらく井戸でしょう」
「井戸?そうだ、田舎にあるのとよく似ている。水が涸れているの
が、不幸中の幸いだったな。でなきゃ、今頃みんな、溺れ死んでた
ところだ」
 皆の目が慣れてきて、自分達のおかれている状況が、だんだん明
らかになってきた。直径三十メートルはあろうかという、井戸の中
に、百人程のスキーヤーが閉じ込められているのだ。

「おーい」
 誰かが、やけになって大きな声を出した。
 そんなことをして、何になる。皆、そう思った。だが、それが合
図であったかのように、上空の穴から、何やら光るものがゆっくり
と降りてきた。
 釣瓶(つるべ)、フック付きのロープ、蜘蛛の糸、いずれにせよ
救助のための何かだと思っていた皆は、ひとりの男の声で、希望を
絶望に切り替えざるをえなかった。 
「おい、危ない、逃げろ!ギロチンだー」
 皆は、ギロチンが降りつつある井戸の中央を避け、壁側へと逃げ
た。ギロチンの刃は、ピカピカに輝いており、その幅は、井戸いっ
ぱいまで拡がっていた。壁に逃げた者の中でも、刃先が当たりそう
な位置にいた者は、さらに移動して、危険をかわした。
 刃は井戸の底で静かに停止した。輝いているのは刃先の部分だけ
でなく、刃全体が大きな鏡のように、ひかり輝いていた。いや、鏡
のようにではなく、それは鏡そのものだった。そして、その鏡は、
上に見える穴まで、延々と続いていた。井戸は、そのせいで、向こ
う側と、こちら側に完全にしきられてしまった。
「きゃー」
 一人の女が、上を指さして、叫んだ。巨大な目が、そこから覗い
ていた。
 スキーヤーたちは、パニックに襲われた。すべる壁を、なんとか
登ろうとするもの、体当たりして、鏡を割ろうとするもの。意味も
なく走り回るもの、鏡の向こうにいる家族や恋人の名を呼ぶもの、
だが、状況は何ひとつ好転する気配はなかった。それどころか、上
空の目は、それを楽しむかのように、笑っている。
「みんな、静かにしろ!」
 ひとりの男の呼びかけで、皆が静かになった。
「そんなことをしたら、あいつの思うツボだぞ」
「どういうことだ?」
 別の男が言った。
「ガマの油売りの話を知らないのか」
「筑波山のがまが、己の醜い姿を鏡で見て、油汗をタラリタラリっ
ていうやつだろ。あ、そうか。あいつが、俺達から、ガマの油なら
ぬ、ヒトの油を作ろうとしてるってことか」

「いや、俺は違うと思うな」
 鏡の近くに立っている男が言った。
「違うって、どう違うんだよ。筑波山、鏡、閉ざされた空間、これ
だけのものが揃えば、ガマの油を想像して当然だろ」
 ガマの油説を展開していた男が訊いた。
「俺達が、筑波山にいたというのは、たぶん偶然だろう。実はさっ
き、女房の名前を呼んでみたんだ」
「奥さんの名前を呼んで、何がわかったんだ」
「こういう時、夫婦仲の悪い家庭ってのは損だな。女房は、見事に
俺とは反対側にいたんだな」
「それで?」
「やっぱり、向こうも鏡になってるそうだ。おまけに、子供は無事
かって訊いたら、こっちにはいないとか言いやがるんだ」
「じゃあ、こっちにいたんだ」
「いないよ。子供の名前呼んだら、あっちから声がしたから」
「奥さんの勘違い?」
「ああ、そう思ってな、女房に言ったんだよ。そっちからも呼んで
みろって。そしたら、そっちから声がするって…。つまり、ここは
少なくとも三つに分断されてるんだよ。おまけに、子供の話じゃ、
子供がいる区画もやっぱり、鏡になっているって言うんだ」
「三つだと、何故ガマが関係なくなるんだ」
「今、つまらなさそうにしてる、あの目の持ち主の立場になってご
らんよ。鏡で三つに仕切られた丸い穴の中で、カラフルなスキー服
が、動きまわってるんだ。そりゃあ、綺麗だと思うぜ」
「万華鏡か!」
「ああ、そういうことだ」
「しかし、あいつはいったい何者なんだ」
「まあ、あの目の大きさからして、相当大きなやつだろうな。そん
なことは、言うまでもないか。おそらく人間以外の生物…。そして、
ダジャレが好きなやつだろう」
「ダジャレ?どうして、そんなことがわかるんだ」
「ここが涸れ井戸だからさ。実は、俺が万華鏡を思いついたのも、
そのことを思い出したからなんだが、英語じゃ万華鏡のことを、カ
レイドスコープっていうんだ」
「それは偶然だろう。しかし万華鏡だとしたら逃げ道がありそうだ。
この井戸の床、よく見ると、ほんのりと明るくないか?」
「そうか、万華鏡なら、反対側に光を取り入れる、半透明の板があ
るはずだ。よし、みんな、なるべく一箇所に集まって、集中的に力
を加えるんだ。鏡が刺さっている辺りが、きっともろくなってるは
ずだ」
 スキーヤー達は、いっせいに何度もジャンプした。上空の目は、
再び動き出した、万華鏡の幾何学模様を、楽しげに見ている。
『ズボッ』
 何度めかのジャンプで、ついに底が抜けた。そして、皆、雪の上
に投げ出された。
 そこは、見覚えのあるゲレンデであった。

(了)