毒薬

 その夜、僕は、ひとりで大学の研究室に残っていた。卒論に必要
なデータが、まだ揃いきっていなかったからである。
 理学部化学科に在籍する僕は、巷にあふれる有害物質を、いかに
中和させて無害、いや最終的には有益な物質に変化させるかをテー
マに研究を進めてきた。劇薬に指定されるような薬品を、別の、こ
れもまた劇薬指定の薬品と化合させることで、全く無害の物質に変
える例はいくらでもある。それとは逆に、無害なものどおしを化合
させて、毒薬を作ることもできる。それが、化学の面白いところで
あると、僕は思う。

−バタン

 研究室の奥で、メスシリンダーに塩酸を注いでいる時、入り口の
ドアが音を立てた。こんな時間にここに来るのは、彼女の裕美ぐら
いである。おおかた、ハンバーガーでも差し入れにきたんだろう。

「誰?僕なら、ここだけど」
 もう少しで計量が終わるところだったので、僕は作業を続けなが
ら言った。

「毒薬をもらおうか」
 聞き慣れない男の声に、振り返ると、そこには、コートに身を包
み、大きめのマスクで顔を隠した男が立っていた。

 大学などというものは、以外とセキュリティーが甘い。防犯カメ
ラはおろか、非常ベルだってない。一応警備員はいることは、いる
のだが、あやしい輩が多い理系の学部で、不審者とそうでないもの
をどうやって見分けるというのだ。

「毒薬をよこせと言っているんだ!」
 僕が恐怖のあまり、何も答えないでいると、男がまた口をきいた。
「ど、毒薬をどうするんですか?」
 恐怖で、それだけ言うのが精一杯だった。
「殺したいやつがいるんだよ。そいつにぶっかけてやるんだ。あ、
あお酸カリ?亜ヒ酸、そういうの、あるんだろ?」
 男は手に持った新聞の切れ端を見ながら言った。
 あまり薬品の知識はないらしい。僕は、ホウ酸かなにかを渡して
誤魔化すことも考えたが、信憑性を持たせるために、一芝居うつこ
とにした。窓際に置いてある、実験用のメダカで試してみろとか言
われたらボロが出てしまうからだ。

「これは、塩酸といって、とても強い薬品です」
 僕は、手に持ったままだったメスシリンダーの中の塩酸を、ポケ
ットから取り出した10円玉の上に落とした。白煙を上げながら、
10円玉は溶けた。
「おう!すごいじゃないか。そいつをよこしな」
「いえ、これだけじゃ、殺すことはできません。せいぜい火傷を負
せるくらいです」僕は、そう言って、別の棚から水酸化ナトリウム
を取り出した。
「これは、水酸化ナトリウムといって、塩酸に負けないぐらい強い
薬品です」
「す、水前寺?演歌歌手みてえな名前だな」
「まあ、見ててください」
 僕は、水酸化ナトリウムの粒を牛革の財布の上に乗せた。財布は
変色しながら、やはり白煙を上げた。
「おう、その水前寺なんとかもすげーじゃないか。そいつでもいい
ぞ」
「いえ、これも、このままでは、せいぜい円形脱毛症を作るぐらい
です。ところが、さっきの塩酸と、これを混ぜると、塩化ナトリウ
ムという、それは強力な薬ができるんです」
「やっぱり演歌じゃねーか」
 僕は、男の言葉を無視して、メスシリンダーの中に、水酸化ナト
リウムを計って入れた。ぐつぐつと沸騰するような音を立てて、2
つの薬品は化合し始めた。化合が終わったのを確かめてから、僕は
その液体をビーカーに入れ、バーナーで熱した。そして、数グラム
の白い粉を作った。

「これで完成です。手に触れると危険なので、薬包紙に包んでビニ
ール袋に入れておきます。なんなら、触ってみますか?」
 僕は、袋を男に渡しながら言った。
「ばかやろう、冗談じゃねえ。あんだけ強力な薬を混ぜたんだ。そ
んなもん触ったら、手が溶けちまわあ」
 男は、完全に手に持っているのが毒薬だと信じている。塩化ナト
リウムは、どこの家にもある塩のことなのに。
「毒薬まで渡しておいて、いまさらなんですが、殺人なんてよした
方がいいですよ。日本の警察は優秀ですから」
 僕は、一応、忠告をしておくことにした。あとで、効かなかった
といって、すごまれる可能性があるからだ。これで、思いとどまっ
てくれれば、それにこしたことはない。
「殺人?誰が、人を殺すなんて言ったよ」
「え、じゃあ、何につかうんですか?殺したいやつっていったい…」
「俺の部屋の外壁に何匹もくっついてんだよ、ナメクジがよう」