あぢさゐ

 梅雨前線は、その日も日本列島の上空から遠ざかる気配はなかった。哲也の住む信州も、また例外なく雨に煙っていた。
 少年がいなくなった──そんな電話が哲也のもとにかかってきたのは、七月も間近になった、土曜の朝のことであった。
 二流観光雑誌のライター兼カメラマンをやっている哲也にとって、その日は久しぶりの休暇であった。昼過ぎまで寝ていよう、だが、そんなひそやかな願いを引き裂くように、携帯が鳴り響いた。
「子供が、子供が一人居なくなったの!お願い。一緒に探して」
 電話の向こうで、麗子が叫んでいる。
「ああ、わかった。すぐに行くから待っていてくれ」
 麗子にとって、哲也は特別な相手ではない。だが、彼女の、生徒に対する愛情をよく知っている哲也には、それ以外の返事は思い浮かばなかった。
 哲也は、寝巻きがわりに着ていたTシャツの下にジーパンだけを穿くと、自慢のポンコツに乗って、麗子の待つ学校へと急いだ。

『光が丘ろう学校』という門をくぐり、職員用の駐車スペースに車を停めて哲也は校舎までの数十メートルを、梅雨の雨に打たれながら走った。

『音を、見に行ってきます』

 職員室に着くと、麗子が、そう書かれたスケッチブックの切れ端を哲也の前に広げながら、待ちくたびれたように口を開く。
「大祐君が、こんなメモを残して居なくなっちゃったの。家の方にも帰ってないそうだし、いったい何処に行ったのか、私には見当がつかなくて……」
 光が丘ろう学校は、全寮制のろう学校である。長野県のいたるところから、耳の不自由な生徒が集まっている。麗子は五年生の担任をしている。哲也とは、小学校からの幼馴染という間柄である。
「ちょっと待ってよ。キミに見当がつかないのに、僕にわかるわけないだろ?」哲也は濡れた体をしわくちゃのハンカチで拭きながら答える。
「そう言わないで──。兆候は昨日からあったのよ」
 麗子は、そう言いながら『学級文集六月号』をめくる。イラストで描かれた紫陽花の表紙の裏のページに、それはあった。


  紫陽花(あぢさゐ)

  きらきらと
  梅雨の空から 銀のしずくが落ちてくる
  彼女は それを待ち望んでいた
  くすんだ服を ドレスに変える 魔法のしずくを
  シンデレラは 今 お姫様になった
  舞踏会へは 王子様が迎えにきてくれる
  虹色をした かたつむりの馬車に乗って


「この詩は?」哲也が問い掛ける。
「恥かしいけど、私が書いた詩なの。月に一度ずつ、文集に載せるために書いているんだけどね。大祐君は、いつもつまらなさそうに、私の詩を読んでた。確かに、拙い詩だし、ましてや男の子には、詩なんて面白くなくて当然かなと思ってたんだけど──」
「どういうこと?」
 哲也の疑問に麗子は、前日の夕方の、大祐との会話を思い出すように話し始めた。
 ろうの生徒は、ほぼ間違いなく喋ることもできない。だから、生徒と麗子の会話は、お互いが紙に言葉を書くか、生徒が麗子の唇の動きを読んで、それに対する答えを紙に連ねるという方法で行うことが多い。手話という方法もないわけではないが、子供に限らず、手話のできない、ろう障害者は意外に多いのである。そして、大祐もまた、その一人であった。
「大祐君、詩が大好きなんだって。リルケもハイネも、詩集という名のつく本は、全部読んだって言ってた」
「じゃあ、麗子の詩が下手だってこと?」
「──それは否定してないじゃない。でも、理由は全く別のところにあったのよ」
「だから、どういうこと?」
「私の詩には、音が感じられないんだって。私、ろうの生徒の担任をしてるうちに、意識的に音の表現を省いた詩ばかりを書くようになっていたの。視覚だけでも、自然はこんなに素晴らしく感じられる物なんだということを知ってもらいたくって。でも、それは間違ってた」
「間違ってた?」
「ええ、子供たちは音を聴きたがってるの。耳では、聴こえない音を目や心で一所懸命聴こうとしているの」麗子が顔を曇らせる。
「それは、そうかも知れないね。耳は聴こえなくても、音に対する感受性はあるはずだから」
「そういうことなのよね。そういえば大祐君、この前面白いことを訊きにきたことがあったわ。暗闇って、どんな世界なのって」
「暗闇?で、なんて答えたの?」
「わたし、こう答えたわ。暗闇はまっくらで、何もない世界だって。大祐君は、言ったわ。それは、僕達が感じる暗闇だって。僕達の感じる暗闇は、ただ暗くて、怖くて、自分が生きているかどうかもわからない寂しい世界だって。でも先生たち健常者の暗闇は、もっと楽しいものだって言うの。何故って訊いたら、自分の書いた暗闇って字を指さしてから、こう言ったわ。暗闇って字には、音って字が二つも入ってるじゃないか。きっと先生たちの暗闇は、音に囲まれた楽しい世界に違いないってね」
 哲也は目を閉じてみた。校舎の屋根を打つ雨音、校庭の木々のさざめき、遠くを走る電車の音。嬉しそうに喉を鳴らす蛙の声。確かに、暗闇は音に溢れていた。 
「うーん。いきさつはわかったけど、大祐君がどこに行ったのか、今までの話からじゃちっともわからないなあ。でも、これはまったくの勘なんだけど、もしかしたら紫陽花を見に行ったんじゃないかと思うんだ」
「紫陽花を?うん、私もそれは考えた。でも、紫陽花なんてそう珍しい花じゃないし、場所の特定まではできないのよね」
 しばらくの沈黙が続いた。
「いや、『音を見に行く』という書置きと『紫陽花』というキーワードにぴったり符合する場所があるんだ。伊那へ行ってみよう」

 哲也の車は、一時間程走って、『深妙寺』というお寺に着いた。通称あじさい寺と呼ばれるその寺は、梅雨の時期になると、数千株の紫陽花が咲き乱れることで有名である。とりわけ、本堂から裏山にかけて、青、紫、赤の紫陽花が隙間もないほど咲き誇る様は、極楽浄土を感じさせると哲也は思っていた。
「近くに住んでると、ついこういう行楽地は敬遠しちゃうけど、綺麗なものね」石の階段を上り詰めたところで、麗子が言う。
「数だけなら、下田公園が一番だけど、あそこは西洋紫陽花が多いからね。ここにあるのは日本紫陽花。見た目に綺麗なのは、西洋の方なんだけど、僕は日本のつつましくて幽玄な美しさの方に魅力を感じるんだよな。ところで、麗子先生。紫陽花の花の赤や青の色は、どうやって決まるかご存知かな?」
「土壌が酸性かアルカリ性かでしょ?」
「そのとおり。じゃあ、青い花の咲く土壌は酸性?アルカリ性?」
「青は……アルカリ性…かな?」
「残念。理科も得意な麗子先生のことだから、リトマス試験紙になぞらえて、そう答えると思ったけどね」 
「ちょっと!私達、デートで来てるんじゃなくってよ。早く大祐君を探さなきゃ」
「まあまあ、僕としては核心に向かって最短距離で麗子先生をエスコートしているつもりなんだから」
 二人は本堂を右回りに抜け、紫陽花の道を裏山方面へと歩いた。

「ねえ、あのお地蔵さんの傍でスケッチをしてる子、たぶん大祐君よ」麗子が立ち止まる。
「やっぱりここにいたか」
「ねえ、どうしてわかったのよ。もう教えてくれてもいいでしょ?」
「キミが地蔵だと言ったアレは、実は観音様なんだよ。観音と言う字は、音を観ると書くだろ?ここはこの時期になると毎年取材に来るから、観音像があること知ってたんだ」
「ああ、そうか。音を見るというのは、そういう意味だったんだ」
「観音様と、それを取り囲む紫陽花が、ハスの花とお釈迦様のようで、僕はここにいると落ち着くんだよな」
「あらあら、いたずらっ子だった哲也君から、そんな言葉が出てくるとは思いませんでしたわ」麗子は、そう言って大祐に近寄っていった。

 後ろから大祐の背中を叩き、彼が振り返ったところで、麗子は目を見つめながら言った。「だいすけくん、さがしたわよ。どう?おとはみえた?」
 麗子の唇の動きを目で追ってから、大祐はスケッチブックの別のページに返事を書く『うん、ぱりぱりって雨があじさいに降りそそぐと、あじさいは、ぷるぷるってきれいになるね』満面の笑みを浮かべている。
「ぱりぱりでぷるぷるかぁ。うん、そんなかんじ、そんなかんじ。おとがみえてよかったね。でもね、ひとりで、でかけたりしちゃだめだぞ。せんせいしんぱいしちゃったじゃない」
『ごめんなさい──。あ、先生泣いてるの?』
「ばぁか、せんせいはつゆのそらほど、なきむしじゃないぞ。さあ、ともだちが、しんぱいしてるからかえるよ」

『どうして、あそこに観音様があるって知ってたの?』
『観光ガイドで見たことがあるんだ。先生の詩を読んで、どうしても行きたくなっちゃって──。ごめんなさい』
『もういいよ。先生も、綺麗な紫陽花いっぱい見られたし』
『運転してる人、先生の王子様なの?』
『まさか!こんなボロい馬車はお断り』
『そうだね。これならかたつむりの馬車の方がマシだね』
『そうそう』
 帰りの車内、スケッチブックでの筆談は弾む。
「ハックション!いけね、風邪ひいちまったよ。おまえら何にやにやしてんだよ」哲也は、しかし笑っている。

 校舎では、他の生徒達が、大祐と麗子の帰りを待ちわびていた。
「それでは、かたつむりはかえります。おひめさま、おうじさまにはごきげんうるわしゅう」哲也は、二人にそう言って学校を後にした。
 待ちきれない生徒達が、校舎を飛び出し、二人の周りに駆け寄ってくるのが、車のバックミラーに映る。色とりどりの雨傘がしだいに大きなかたまりになって、哲也にはそれが、雨に遊ぶ大輪の紫陽花のように見えていた。

(了)