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小資料集(一般資料)


第一次上海事変時の陸軍慰安所規則(1932/4/1)

~陸軍初の慰安所の規則~

軍娯楽場取締規則 昭和7,4,1

第一章 総則

第一 本規定は上海派遣軍守備区域内に於て特に軍官憲の許可を得て営業する陸軍娯楽場の取締を規定するものとす

第二 軍娯楽場は守備区域内に一乃至数箇所を軍に於て指定す

第三 軍娯楽場の経営者は寝室に於て客に接する婦人(以下接客婦と称す)を使用する営業者と飲食品等を販売するものとに分ち両者を兼ぬることを得す(第二章以下営業者と称するは前者を指す)

第四 前条経営者の営業家屋は軍に於て之を指定す 前項営業家屋に特に要する諸設備及之に伴ふ損害は営業者の負担とす

第五 軍部の都合に依り営業者に退去を命し又営業上の制限を為すことを得 前項の場合に於て営業者は損害の賠償其他一切の異議を申立つることを得す

第六 営業者は軍部の許可あるにあらされは営業を廃止又は全部若くは一部の休業を為すことを得す

第七 守備区域内に軍娯楽場類似の営業を為すことを禁す

第八 軍娯楽場は陸軍軍人、軍属の外之を利用せしむることを禁す

第九 毎月一回憲兵に於て定休日を指定す当日は休日の掲示を為し営業を為すへからす

第十 飲食品等を販売する営業者に対する取締は別に指示する外本規則を準用す

第二章 営業手続

第十一 軍娯楽場を営業せんとする者は別紙第一様式の願書と別紙第二様式の誓約書とを所轄憲兵分隊に提出すべし

第十二 営業を許可せられたる者は総て準備完了後所轄憲兵分隊に届出て施設の検査及検診を受けたる後にあらされは開業するを得す

第十三 営業を許可せられたる者は営業開始前別紙第三様式接客婦名簿に本人の写真2葉を添へて所轄の憲兵分隊に届出つへし

第十四 営業者は其雇傭したる接客婦に異動を生したるときは所轄憲兵分隊に書面を以て其旨届出つへし

第十五 接客婦の検診を終へ接客を許可したる者に対しては別紙第四様式の健康簿を交付し許可證に換ふ

第三章 営業施設

第十六 営業者家屋の修理、改造、装飾等を為さんとするときは所轄憲兵分隊に届け出つへし

第十七 営業者は屋内を寝室、客の控室、消毒室、営業者居住室、入浴場、炊事、便所、其他付属設備に区分すへし

第十八 営業者は左記の物品を備附くへし

  • 寝具 各寝室
  • 痰壺 各寝室及控室
  • 消毒器具及び薬品 便所及指定する場所
  • 時計 控室
  • 軽便消火器 階上階下各一、其他指定場所
  • 接客婦名札 控室
  • 料金表 控室
  • 遊興者名簿(別紙様式第5) 営業者保管
  • 軍娯楽場取締規則 控室

右の外客の為慰安となる諸物品を備附け装飾を施すことを奨励す

第十九 接客婦は別紙様式第六に依り表は黒、裏は朱にて芸名を記入すへし

第四章 衛生

第二十 接客婦に対しては少なくも毎週一回指定せる場所に於て軍医の検診を行う
検診の細部に関しては軍医部長之を指示す
検診の際は憲兵立会ふものとす

第二十一 検診を受けたるものは健康簿に所要の記入及関係者の捺印を受くるを要す
本簿は常に携帯し客の要求あるときは披見を拒むことを得す

第二十二 検診の結果合格せさるものは官憲の定むる所に依り診療を受け許可あるまて接客を禁す
診療に要する費用は営業主の負担とす

第二十三 検診は全身健康診断の外特に花柳病(梅毒、痲疾、軟性下疳)、結核、トラホーム及伝染性皮膚病等に就き之を行う

第二十四 接客婦は花柳病予防品を準備し客に其使用を勧むへし其費用は営業主の負担とす

第二十五 左記各項を厳守すへし

一 消毒薬は一万倍過マンガン酸カリ液又は0.5%クレゾール石鹸液とし灌水器に容れ指定の場所竝便所に備附くへし

二 寝具は清潔なるものを選ひ且日光曝干をを励行すへし之か為予備寝具を準備すへし

三 敷布枕覆には白布を用ひ常に清潔ならしむへし

四 室内の換気に留意すへし

第二十六 接客婦は接客後必ず局部を洗浄消毒すへし

第二十七 定休日には屋内外の掃除を為し寝具の洗濯又は日光曝干を為し且接客婦を休養せしむへし

第五章 営業方法

第二十八 制服を著用せる軍人又は軍属たることを確認するにあらされは入場せしむることを得す

第二十九 控室の適当なる場所に接客婦名札を掲くへし

第三十  来客ある時は先つ遊興者名簿に所要の記入を為し料金を受領すへし

第三十一 客か接客婦を指名するときは営業者は之に応するを例とす
但接客婦は控室に入らしむへからす

第三十二 営業時間を定むること左の如し
昼の部 自午前10時 至午後6時
夜の部 自午後7時 至午後10時

第三十三 遊興料を左の如く定む
内地人 1時間1円50銭
朝鮮人、中国人 1時間1円
一人にて連続1時間以上遊興せしむることを得す

第三十四 営業者及び接客婦は右料金以外の要求を為すことを得す

第六章 禁止制限及取締

第三十五 営業状態を取締る為憲兵又は憲兵、軍医同行し随時検査を行ふ

第三十六 接客婦は許可なく指定地外に出すことを禁す

第三十七 営業者にして接客婦に対する利益の分配竝待遇上不当の所為ある場合は営業を停止することあるへし

第三十八 営業者間相互に接客婦を融通することを禁す

第三十九 事故発生せは速に最寄りの憲兵に通知すへし

第四十  本規則に違反せるときは許可を取消して立退を命し又は営業を停止す

附則

第四十一 本則は昭和7年4月6日より之を実施す

出典; 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」,P411-P413


不良分子の渡支取締方に関する件(1937/8/31)

米三機密合第三七七六号  昭和十二年八月卅一日

警視総監

北海道長官

各府県知事

関東州長官

堀内外務次官

不良分子の渡支取締方に関する件

従来支那に渡航するには旅券の必要なく自由なりし処、今回の日支事変に関聯し支那在留邦人は多数引揚け、其の遺留財産に対する保護警戒等も行渡り兼ぬる今日、或は残留せる邦人を扇動して事を為さんとし、或は混乱に紛れて一儲せんとする等の無頼不良の徒の支那渡航は此際厳に之を取締るの必要あり。既に満州国及関東州に於ては、夫々之が措置を為し又関係在支帝国公館よりも右取締方申越の次第ありたるに付ては、追て何分の義申進する迄当分の間支那に渡航せんとする(一)一般本邦人に対しては所轄警察署長より、(二)又公務の為派遣せらるる者に対しては派遣官公署より別紙手続きに依り身分証明書を発給することとし、右身分証明書を有するか又正式旅券の発給を受けたる者の外は支那に向け乗船せしめさる様、御取扱い相成度、而して右身分証明書の発給に関しては、前記の趣旨に依り業務上又は家庭上其の他正当なる目的の為、至急渡支を必要とする者の外は此際可成自発的に渡支を差し控えしむることに御取計相成、以て在支皇軍の軍後方地区の治安確保に協力相成様致度、尚本件の趣旨は一般に周知方可然御取計相成度、右関係官庁とも協議の上、依命此段申進す。

 本信送付先  警視総監、各地方長官、関東州長官

 本信写送付先 (略)

支那渡航取扱手続

一、日本内地及各植民地より支那に渡航する日本人(朝鮮人及台湾籍民を含む)に対しては当分の間、居住地所轄警察署長に於て、甲号様式の如き身分証明書を発給するものとす。
 但し制服着用の日本軍人軍属に対してはこの限に在らす。
前項の身分証明書は公務の為派遣せらるる官吏其の他の者に対しては、派遣官公署に於て乙号様式に依り之を発給するものとす。

二、警察署長第一項の身分証明書下付願出ありたるときは、本人の身分、職業、渡航目的、要件、期間等を調査し左の通取扱う。

(イ) 素性、経歴、平素の言動等不良にして渡支後不正行為を為すの虞ある者に対しては身分証明書を発給せず。

(ロ) 業務上、家庭上其の他正当目的の為、至急渡支を必要とする者以外の者に対しては可成自発的に渡支を差控へせしむるものとす。

三、出発港所轄警察署長は第一項の身分証明書又は帝国政府発給の旅券を有する者に非らされは支那に向け乗船せしめさるものとす。

四、本身分証明書の発給に対しては手数料を徴集せす。

五、本手続は支那行外国旅券の発給を妨くるものに非す。

六、本手続は支那現地の事態の許す限り可及的速に之を解除するものとす。

七、 本手続は即時施行す。
但し、第三項に関する限り昭和十二年九月十日より施行するものとす。

[甲号様式]  (省略)

[乙号様式]  (省略)

出典; 吉見義明編「従軍慰安婦資料集」,P95-P99


内務省警保局長通牒(1938/2/23)

内務省発警第五号  秘

 昭和十三年二月二十三日

内務省警保局長

各庁府県長官宛(除東京府知事)

支那渡航婦女の取扱に関する件

最近支那各地に於ける秩序の恢復に伴ひ渡航者著しく増加しつつあるも是等の中には同地に於ける料理店、飲食店、「カフエー」又は貸座敷類似の営業者と聨繋を有し是等の営業に従事することを目的とする婦女寡なからざるものあり更に亦内地に於て是等婦女の募集周旋を為す者にして恰も軍当局の諒解あるかの如き言辞を弄する者も最近各地に頻出しつつある状況に在り婦女の渡航は現地に於ける実情に鑑みるときは蓋し必要已むを得ざるものあり警察当局に於ても特殊の考慮を払ひ実情に即する措置を講ずるの要ありと認めらるるも是等婦女の募集周旋等の取締にして適正を欠かんか帝国の威信を毀け皇軍の名誉を害ふのみに止まらず銃後国民特に出征兵士遺家族に好ましからざる影響を与ふると共に婦女売買に関する国際条約の趣旨にも悖ること無きを保し難きを以て旁ゝ現地の実情其の他各般の事情を考慮し爾今之が取扱に関しては左記各号に準拠することと致度依命此段及通牒候

一、醜業を目的とする婦女の渡航は現在内地に於て娼妓其の他事実上醜業を営み満二十一歳以上且花柳病其の他伝染性疾患なき者にして北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認することとし昭和十二年八月米三機密合第三七七六号外務次官通牒に依る身分証明書を発給すること

二、前項の身分証明書を発給するときは稼業の仮契約の期間満了し又は其の必要なきに至りたる際は速に帰国する様予め諭旨すること

三、醜業を目的として渡航せんとする婦女は必ず本人自ら警察署に出頭し身分証明書の発給を申請すること

四、醜業を目的とする婦女の渡航に際し身分証明書の発給を申請するときは必ず同一戸籍内に在る最近尊族親、尊族親なきときは戸主の承認を得せしむることとし若し承認を与ふべき者なきときは其の事実を明ならしむること

五、醜業を目的とする婦女の渡航に際し身分証明書を発給するときは稼業契約其の他各般の事項を調査し婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様特に留意すること

六、醜業を目的として渡航する婦女其の他一般風俗に関する営業に従事することを目的として渡航する婦女の募集周旋等に際して軍の諒解又は之と連絡あるが如き言辞其の他軍に影響を及ぼすが如き言辞を弄する者は総て厳重に之を取締ること

七、前号の目的を以て渡航する婦女の募集周旋等に際して広告宣伝をなし又は事実を虚偽若は誇大に伝ふるが如きは総て厳重之を取締ること又之が募集周旋等に従事する者に付ては厳重なる調査を行ひ正規の許可又は在外公館等の発行する証明書等を有せず身許の確実ならざる者には之を認めざること

出典; 吉見義明編:「従軍慰安婦資料集」,P102-P104


陸軍省副官通牒(1938/3/4)

起元庁(課名) 兵務課

軍慰安所従業婦等募集に関する件

陸支密

副官より北支方面軍および中支派遣軍参謀長宛通牒案

支那事変地における慰安所設置のため、内地に於て之か従業婦等を募集するに当り故らに軍部諒解等の名儀を利用し為に軍の威信を傷つけ且つ一般民の誤解を招く虞あるもの或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの或は募集に任する者の人選適切を欠き為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要するもの少なからさるに就ては将来是等の募集等に当りては派遣軍に於て統制し之に任ずる人物の選定を周到適切にして其実施に当りては関係地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、以て軍の威信保持上並に社会問題上遺漏なき様配慮相成度依命通牒す

陸支密第745号 昭和13年3月4日

出典; 吉見義明編:「従軍慰安婦資料集」,P105-P106


ビルマ・ミッチナの捕虜尋問報告(1)(1944/10/1)

〔筆者註〕 ミッチナの捕虜尋問書は2つある。報告者が異なり、内容も少し異なる。 (1)は朝鮮人慰安婦の証言を中心にしているが、(2)は慰安所経営者の証言を主体にして、慰安婦調達から捕虜になるまでを物語風に記述している。

資料No.99 「日本人捕虜尋問報告 第49号」 1944年10月1日

アメリカ戦時情報局心理作戦班

  • 尋問場所: レド捕虜収容所
  • 尋問機関: 1944年8月20日~9月10日
  • 報告日:   1944年10月1日
  • 捕虜:    朝鮮人慰安婦20名
  • 捕獲年月日: 1944年8月10日
  • 収容所到着年月日: 1944年8月15日

はじめに

この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕えられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。 …
「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は日本軍特有のものである。…
日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。

徴集

1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。…これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2~300円の前渡金を受け取った。

これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために、前渡しされた金額に応じて6か月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは8人ないし22人の集団でやってきた。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。…

性向

尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳ぐらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そしてわがままである。慰安婦は、日本的基準でいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の職業が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵より人情深いと感じている。…

生活および労働の状況

ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある2階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。… ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。… 食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きたばこ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機を持っていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は、厳格に実施された。… 尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

  • 1.兵  午前10時~午後5時 1円50銭 20~30分
  • 2.下士官 午後5時~午後9時 3円 30~40分
  • 3. 将校 午後9時~午前0時  5円 30~40分

将校は20円で泊まることも認められていた。

利用日割り当て表

… 軍は各部隊のために特定日を設けた。…

  • 日曜日――第18師団司令部
  • 月曜日――騎兵隊
  •  (以下省略)

兵士たちは慰安所にやってきて、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののち兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態

「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は「楼主」に750円を渡していたのである。多くの楼主は食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った。

1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分の方から持ってくる場合が多かった。… 興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応

(省略)

兵士たちの反応

慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦線に向かうことになっている連中であった。…

軍事情勢に対する反応

慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。…
慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺(避難壕)のなかで過ごしたようである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1,2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲

(省略)

宣伝

(省略)

要望

(省略)

付録A

尋問を受けた朝鮮人20人、日本人2人の名前、年齢、住所のリスト。

筆者註; 朝鮮人の年齢別人数は次の通り。年齢は尋問時のものと思われるので、ビルマに来たときはこれより2歳くらい若く、20歳未満が11名と過半数を占める。
19歳 1名 20歳 3名 21歳 7名 22歳 1名 25歳 2名 26歳 2名 27歳 2名 28歳 1名 31歳 1名

出典; 吉見義明編:「従軍慰安婦資料集」,P439-P452


ビルマ・ミッチナの捕虜尋問報告(2)(1944/10/1)

〔筆者註〕 下記文中のM739は捕虜のコード番号で、北村という名の日本人楼主を示す。

資料No.100 「心理戦尋問報告 第2号」 1944年11月30日

東南アジア翻訳尋問センター監督官

アメリカ陸軍歩兵大佐 アレンダー・スウィフト

9.前線地域における日本軍慰安所

M739と妻と義姉(妹)は、朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいたが、商売が不振に陥ったため、より多くの金を儲ける機会を求めて、朝鮮からビルマへ「慰安婦」を引き連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した。この捕虜の言によれば、その示唆は陸軍司令部から出たもので、朝鮮に在住する何人かの同じような日本人「実業家」に打診された。

M739は、朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが、彼女らの両親に対する支払い額は、それぞれの性格、容貌、年齢に応じて300円から1000円であった。これら22名の女性の年齢は19歳から31歳であった。彼女たちは、この捕虜の独占財産となったのであり、軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかった。朝鮮軍司令部は、日本陸軍のあらゆる司令部宛ての書面を彼に渡したが、それは、輸送、食料の支給、医療なお、彼が必要とするかもしれないすべての援助を差しのべるよう、各司令部に要請するものであった。

M739とその妻は、料理店の経営を義姉(妹)に委ねたうえで、1942年7月10日、買い受けた女性22名を引き連れ、703名の女性(すべて朝鮮人)と90名ほどの日本人男女(ほかならぬ彼とおなじような人格低劣な連中)の一行で釜山を出航した。彼らは7隻の護送船団を組み、4000トンの客船で航行した。無料の渡航券が軍司令部から提供されたが、渡航中のすべての食事の代金はこの捕虜が支払った。彼らは台湾とシンガポールに寄港し、台湾では、シンガポールに向かう女性が新たに22名乗船し、シンガポールで全員が別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。

ラングーンで彼女たちはそれぞれ20~30名のいくつかのグループに分けられたうえで、ビルマ各地に分散配置されたが、それぞれのグループは各地の連隊、部隊または部隊群に所属し、したがって、それぞれが別々の慰安所をもっていた。M739のグループは歩兵第114連隊に配属された。彼らはタウンジー、メイクティラ、メイミョーで何か月かを過ごして業を営み、その後(1943年1月ごろ)、ミッチナに到着した。ミッチナにはすでに2つの慰安所が設けられていたので、合わせて3つの慰安所ができ、女の数は全部で63名になった。

M739の慰安所はキョウエイと呼ばれ、22名の朝鮮人慰安婦がいた。キンスイ慰安所には20名の朝鮮人女性がいた。モモヤには21名の中国人女性がいたが、彼女たちは、朝鮮人と同じ条件で広東から買われて来たのである。後方地域の慰安所には日本人女性がおり、例えば、メイミョーのような所では、そこにある8つの慰安所のうちの2つは、日本人女性で成り立っていた。しかし前線地域には日本人女性は、一人もいなかった。

慰安婦はすべて、次のような契約条件で雇われていた。慰安婦は彼女自身が稼いだ額の50%を受けとり、交通費、食費、医療費は無料だった。交通費と医療費は軍当局によって負担され、食料は、軍の貨物廠の援助のもとに慰安所経営者によって購入された。経営者は、衣服、必需品、奢侈品を法外な値段で慰安婦に売ることによって余禄を得た。慰安婦は、彼女の家族に前貸しされたお金と、それに加えて利息を返済できた場合には、朝鮮へ帰るための無料の交通の便宜を提供され、あとは自由の身であるとみなされることになっていた。しかし、1943年6月、第15軍司令部が、債務から解放された慰安婦たちを帰国させる手配をしたにもかかわらず、戦況のゆえに、これまでのところ、M739のグループではだれ一人として、帰国を認められた者はいなかった。そして、前述の条件を満たして帰国を希望したある慰安婦は、他愛もなく説得されて残留することになってしまった。

M739の施設では、慰安婦一人の稼ぎの最高額は月に約1500円、最低額は月に約300円であったが、この慰安所の規定により、慰安婦は、最低でも月当り150円を経営者に支払わなければならなかった。

料金と利用時間割りは、連隊の指示によって定められており、時間割りは、将校、下士官および兵が同時にでくわすことのないように工夫されていた。時間割りは厳格に守られ、また、下士官と兵は週に一度、将校は、希望すれば何度でも慰安所に通ってよいとされた。支払いは利用券制で処理され、慰安婦はその券をとっておくのであった。ちなみに、利用券は2インチ四方の厚紙でできていて、それには慰安所の名称、連隊印、利用券の値段が記されていた。

―― 時間割表及び料金表 ――  … 省略

この慰安所は第114連隊によって管理され、連隊本部のナガスエ大尉がその担任将校であった。慰安所を利用する者の所属を確認するため、通常、連隊本部から2名が慰安所に派遣された。なお、他の連隊の兵士でも、たまたま歩兵第114連隊の兵士と一緒にいれば、その慰安所に行くことが許されていた。憲兵1名も、慰安所の巡察任務に就いていた。M739の慰安所の一日当り利用者数は、下士官と兵が80名ないし90名、将校が10名ないし15名であった。

慰安所ではアルコール飲料(現地産)が売られていたが、しかし、過度の飲酒や喧嘩に走ることがないよう、憲兵が気を配っていた。

このような監督にもかかわらず、過飲する者がいる場合には、通常、憲兵はその男を慰安所から連れ出した。時として喧嘩も起こったが、同様のやり方で鎮められた。

  (中略)

避妊具の使用を求める厳しい命令が出ていた。したがって、M739によれば、性病罹患は、まったく兵士自身の不注意によるものであった。M739がミッチナで慰安所を経営していた1年半の期間をつうじ、性病患者はわずか6人で、彼らは、治療のため、第18師団第2野戦病院の軍医のもとに送られた。歩兵第114連隊の兵士のなかに何人かの性病患者がいたが、しかしM739は、このことで連隊本部と厄介な問題にまきこまれることはまったくなかった。

兵士たちは、慰安所に行っているときには、通常の軍事的環境から逃避したかったので、軍事上の問題についてしゃべることはめったになかった。M739は興味を惹かれるような軍事上の機密を耳にする機会には一度も出くわさなかったが、それは憲兵がいるからであり、兵士たちはたとえいいたいことがあっても、恐れて自由にしゃべることができないのだと考えていた。兵士たちがよく不満を言っていたのは将校についての批判、支給物資の不足、それにホームシックであった。

慰安婦たちは、連合国側の宣伝リーフレットを何号か見ていたけれども、読んではいなかった。ただし、ある慰安婦が、ミッチナの絶望的状況に言及したリーフレットのことを覚えていた。当時はそのようなことは信じなかったそうであるが。慰安婦たちは前線放送をまったく聞いていなかったが、兵士たちが「ラジオ放送」について公然と話をしていたことを覚えていた。

7月31日の真夜中ごろ、ミッチナにある二つの慰安所の慰安婦63名と、慰安所経営者、使用人、その他の一行がミッチナからの避難を開始した。慰安婦たちは、私服の上に濃緑色の軍服をまとっていた。一行は10隻の小型船に乗ってイラワジ川を渡った。残留兵の大部分はすでにミッチナを出発していたけれども、傷病兵は取り残された。…
一行はワインマウの北方で上陸し、8月4日までそこの密林にとどまっていた。その後、彼らは退却する兵士のあとを追ってノロノロと歩き始めた。8月7日、一行は小規模な戦闘に巻き込まれ、混乱のうちにばらばらになってしまった。

中国人女性20名は密林に残り、中国兵に身の処置をゆだねた。朝鮮人女性およそ20名の一行は日本兵のあとを追ったが、彼女らの姿は8月19日、別の捕虜によって目撃された。みじめな思いをしながら、それでもなおあとを追い続ける少人数の一団であった。M739の一行は放棄された先住民家屋で雨露をしのぎ、M739が筏づくりに励んでいる2日間そこにとどまった。彼らと一緒に一人の日本人負傷兵がいた。8月10日、その家屋は、英国人将校に指揮される大勢のカチン族に取り囲まれ、彼らは捕えられた。当初63名いた一行のうち4名が移動途中で死亡、2名が日本兵と誤認されて射殺された。

出典; 吉見義明編:「従軍慰安婦資料集」,P453-P464


日韓基本条約 全文(1965/6/22)

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

前文

日本国および大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、
両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、
1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び1948年12月12日に国際連合総会で採択された決議第195号(Ⅲ)を想起し、
この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よって、その全権委員として次のとおり任命した。

日本国 日本国外務大臣 椎名悦三郎
            高杉 晉一
大韓民国 大韓民国外務部長官  李 東 元
       大韓民国特命全権大使 金 東 祚

第一条

両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。

第二条

1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

第三条

大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

第四条

(a)両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。

(b)両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。

第五条

両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第六条

両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

第七条

この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条件は、批准書の交換の日に効力を生ずる。

以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。

1965年6月22日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書2通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。

日本国のために
 椎名悦三郎
 高杉 晉一

大韓民国のために
 李 東 元
 金 東 祚


日韓請求権協定 全文(1965/6/22)

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定

前文

日本国 及び大韓民国は、
両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決することを希望し、
両国間の経済協力を増進することを希望して、次のとおり協定した。

第一条

1 日本国は、大韓民国に対し、

(a)現在において1080億円(108,000,000,000円)に換算される3億合衆国ドル(300,000,00ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において108億円(10,800,000,000円)に換算される3千万合衆国ドル(30,000,000ドル)に等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかつたときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締約国政府の合意により増額されることができる。

(b)現在において720億円(72,000,000,000円)に換算される二億合衆国ドル(200,000,000ドル)に等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従つて決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたつて行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行なわれるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。
前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。

2 両締約国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行なう権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。

3 両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。

第二条

1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

2 この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執った特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。

(a)一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益

(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつて1945年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいったもの

3 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。

第三条

1 この協定の解釈及び実施に関する両締約国の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする。

2 1の規定により解決することができなかつた紛争は、いずれか一方の締約国の政府が他方の締約国の政府から紛争の仲裁を要請する公文を受領した日から30日の期間内に各締約国政府が任命する各一人の仲裁委員と、こうして選定された二人の仲裁委員が当該期間の後の30日の期間内に合意する第三の仲裁委員又は当該期間内にその二人の仲裁委員が合意する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員との三人の仲裁委員からなる仲裁委員会に決定のため付託するものとする。ただし、第三の仲裁委員は、両締約国のうちいずれかの国民であつてはならない。

3 いずれか一方の締約国の政府が当該期間内に仲裁委員を任命しなかつたとき、又は第三の仲裁委員若しくは第三国について当該期間内に合意されなかつたときは、仲裁委員会は、両締約国政府のそれぞれが30日の期間内に選定する国の政府が指名する各一人の仲裁委員とそれらの政府が協議により決定する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員をもつて構成されるものとする。

4 両締約国政府は、この条の規定に基づく仲裁委員会の決定に服するものとする。

第四条

この協定は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この協定は、批准書の交換の日に効力を生ずる。

以上の証拠として、下名は、各自の政府からこのために正当な委任を受け、この協定に署名した。

1965年6月22日に東京で、ひとしく正文である日本語及び韓国語により本書2通を作成した。

日本国のために
 椎名悦三郎
 高杉 晉一

大韓民国のために
 李 東 元
 金 東 祚


野戦郵便長が見た慰安所(1973/4/20)

慰安所

(前略)上海楊樹浦通り大連碼頭近くの野戦郵便局の附近一帯も幾らか賑やかになった11月中旬、私は局附近の横路で妙な標札を見た。

「上海寮、皇軍将兵慰安所」 「ビール、サイダー、美人多数」

二階建ての奥まった家屋の窓が空襲警報の黒布でおおわれ、真昼女の金属性の声が聞える。ここは半島人で営業しているとかであった。このころのこと、局の郵便夫が酒保から5銭で一つマッチを買ってき、局に帰って何気なく開くとそれは衛生マッチである。中からゴム製品が出てきたのでびっくりした。

従軍し戦地を踏んだ者にとって慰安所という言葉は、酒保と同じく極めて常識的であり、一般的である。私は内地出発の時、「慰安所利用規則」というものが第一次上海事変の時あったという事を、極めて珍しい話題として聞いたのである。南京が陥落するまではそれは確かに珍しいものであった。大場鎮が陥落するまでは、兵隊は泥濘のなかを雨に濡れて行軍したので「慰安」という言葉すら聞かなかった。それどころではない、大場鎮が陥落すると、破竹の追撃戦で、夜も日もこれ足らずといった進軍である。

南京陥落直後蘇州にきた時、ここに慰安所を開設するという事を私は聞いた。1月下旬私が杭州に行った時には、内地人、半島人、中国人の慰安所があった。2月初め南京に行った時には、鼓楼公園の近くに将校慰安所が在り、見学のために出掛けると、16,7の可愛い姑娘たちがストーブにあたっている。断髪、口紅、銀の耳環、彩色の美人絵葉書の通り洗練されたのもいるし、まるで子供でただストーブの前であたっているだけのもいる。こちらは支那語はわからず、相手は字を読めず、慣れないためまるっきり面白くない。煙草でもキャラメルでもやれば、どしどししまいこんでしまう。帳場は支那人たちがやっていた。

南京から滁県に行くと、このへんぴな廃墟の街にも慰安所が二つあり、大阪辺りから日本の女がきていた。軍隊が進む所、彼女らもまた従う。姫鱒が寂しい岩瀬を遡るごとく、彼女らは第一線の部落部落にまで追随し移動する。慰安所が敵に襲撃されたという事もある。彼女らこそ懦夫をして立たしむと言いたいくらい、黙々と勇敢に兵站線の末端にまで進み出て行く。彼女らの一人ひとりにまつわる悲話、情話をたぐれば、これもまた際限のない事であろう。

左にある部隊の本部の慰安所に関する一文を掲げる。

下士官、兵、慰安所出入りに関する注意

特種な婦人に接する事は決して道徳上讃めたことではない。たとえ戦場に在りと雖も、人倫、道徳を破壊して可なりと云ふ道理は毛頭もない。我々が平素修養に努力するは、戦場に於て平時修養せし道徳が、益々光輝を発揮せむか為に外ならないでのある。然し凡俗の悲しさ、未だ修養が其の域に達せず血気にはやり、脱線行為に出ずる者も皆無でない現状に鑑み、上司に於て特に是等凡俗徒輩の性欲を適宜に調節し、脱線行為を予防し、以て皇軍の威信を間接的に維持擁護せむか為に生じたのが所謂慰安所である。即ち慰安所なるものは一般人の遊興所とは大に意味を異にするのである。上司は軍威信の維持てふ大乗的見地に基き、許可せられたる謂はば「粋なご処置」であるから、此処に出入する者も又上記の趣旨をよく玩味し、誤解或は脱線等の無きを望む。

尚、老婆心ながら左の件を深く胸に刻みつけよ。

一、出入に関する規定を遵守し、此処に出入りした為に却て軍紀、風紀問題を起すが如きこと有てならぬ。 出入希望者は庶務将校を通し男らしく申出て外出証を受領携行せよ。

一、耽溺は身の破滅である。何処迄も性欲調節てふ感念を忘るな。

一、独占欲を起し戦友互に妬視するが如きことあるは不可。

一、賎劣貪汚なる行為に陥らざること。

一、兎角秘密は女の口から漏れるものである。出入の間に苟も軍の機秘密事項を口外するが如きは軍人の価値なし。

一、前後の衛生法を遵守励行し不覚をとらざること。
(衛生具は医務室より受領携行のこと)
「万一病気に感染したるものは、治癒迄内地に帰還せしめざる方針なり」

一、慰安所より帰来後、戦友其の他に如何にも誇り顔に出入中の出来事を吹聴するは、徒に他人の好奇心をそそるものにして一種の罪悪である。特に当部には年少の給仕或いは他の童貞も居る事なれば此点注意すること。

2月3日

管理部長

出典; 佐々木元勝:「野戦郵便旗(上)」,P246-P249

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河野談話(1993/8/4)

慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話

1993(平成5)年8月4日

内閣官房長官 河野洋平

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めてきたが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれは、このような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

出典: デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」


アジア女性基金組織図(1995/7/19)

アジア女性基金組織図

クマラスワミ報告書(1996/2)

クマラスワミ報告書抜粋(1996年2月)

第9章 勧告

136.特別報告者は以下の勧告を行いたいと考える。これは関係諸国政府との協力の精神に則った特別報告者のマンデートの履行のために、また戦時下の軍隊性的奴隷という現象を助成に対する暴力、その原因及び結果というより広い枠組みの下での理解を試みようという目的のために行うものである。日本政府は、特別報告者との討議において既にオープンな対応と行動への意欲を示してくれたが、日本帝国陸軍により実行された軍隊性的奴隷の生存する女性被害者に正義の手を差しのべるため、特別報告者は特に日本政府の協力に期待する。

A 国内レベル

137.日本政府は、

(a)第二次世界大戦中に日本帝国陸軍により開設された慰安所制度は国際法上の義務違反であることを認め、右違反に対する法的責任を受け入れるべきである。

(b)人権及び基本的自由の重大の侵害の犠牲者の救済、補償及び社会復帰に対する権利についての差別小委特別報告者により概要が示された原則に従って、日本の軍隊性奴隷制の被害者個人に補償を支払うべきである。犠牲者の多くは極めて高齢であるので、この目的のため、時限的な特別行政裁判所を設立すべきである。

(c)慰安所その他第二次世界大戦中の日本帝国陸軍の関連活動に関し、所有する文書・資料がすべて公開状態にあることを確保すべきである。

(d)日本の軍隊性的奴隷制の女性被害者として名乗り出た者で、かつその旨立証することが可能な個人に対して、書面で公式の謝罪を行うべきである。

(e)歴史的事実を反映するよう教育課程を改訂することによって、こういった問題についての意識を向上させるべきである。

(f)第二次世界大戦中の慰安婦募集及び慰安所の制度化に関与した犯人を可能な限り特定し、処罰するべきである。

B 国際レベル

138.国際レベルで活動する非政府組織は、引き続き本問題を国連システム内で提起するべきである。国際司法裁判所又は常設仲裁裁判所の勧告的意見を求める試みもなされるべきである。

139.朝鮮民主主義人民共和国政府及び大韓民国政府が、国際司法裁判所に対し、日本の責任及び「慰安婦」への補償支払いに関する法的問題の解決に寄与するよう、要請することを検討することも考えられよう。

140,特別報告者は、特に日本政府に対し、生存する女性が高齢に達していること及び1995年が終戦50周年にあたることを念頭において、可能な限り速やかに上記の勧告を勘案し、かつ実行に移すことを求める。特別報告者は終戦後50年が過ぎてしまったことを感じるとともに、あまりにも苦しんだこれらの女性の尊厳を回復すべき時がきていることを感じる。

(注)1996年2月5日付で人権委員会へ提出され、4月19日に採択。ここでは最終部分の「勧告」だけを印刷した。

出典; 秦郁彦:「慰安婦と戦場の性」,P421


元慰安婦の方々へのお詫びの手紙(1996/8)

元慰安婦の方々への内閣総理大臣のおわびの手紙

拝啓

 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。

 末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。

1996(平成8)年

日本国内閣総理大臣 橋本龍太郎

(歴代署名; 小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎)

(注) これはアジア女性基金が元慰安婦に渡した手紙です。

出典: デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」