西暦                         出来事
1800年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第11番変ロ長調作品22を作曲
下のCDは、リヒテルさんが1994年7月3日にライヴ録音した演奏です LCL461
19世紀初め 《グリンカ以前のロシア音楽界は、イタリア人によって支配されていた。マンフレディーニ、ガルッピ、パイジェルロ、チマローザらの18世紀のイタリア作曲家が、ロシアで活躍した。モスクワとペテルブルグでは(もちろん、ヨーロッパの他の諸都市でも、事情は同じだったが)、オペラといえば、イタリア・オペラのことだった。グリンカ以前のロシア生まれの作曲家の音楽は、専門家にしか知られていない。19世紀初頭のロシアは謎に包まれた国で、ナポレオンが思い知らされたように、驚くほど強大だが、同時に、中世的状況からようやく脱け出したばかりの国でもあった。哲学的思想、文化、科学といった西側の伝統は、ロシアでは、少数の開けた貴族階級を除けば、ほとんど誰にも知られていなかった。》ショーンバーグ「大作曲家」中 263n
1801年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第12番変イ長調作品26(1800−01)を作曲
下のCDは、リヒテルさんが1994年10月13日にミュンヘンでライヴ録音した演奏です LCL491

ベートーヴェンが作品27の二つのピアノ・ソナタを作曲
  第13番変ホ長調作品27−1
  第14番「月光」ソナタ(嬰ハ短調作品27−2)

ベートーヴェンが「田園」ソナタ(第15番ニ長調作品28)を作曲
       リヒテルさんは、有名な「月光」も「田園」も演奏されません
3月11日夜 ロシア皇帝パーヴェル暗殺される→ロシア史上最後の宮廷革命
    アレクサンドル一世が即位する
6月 ストローガノフ、チャルトルイスキーらの”非公式委員会”が活動をはじめる(〜1803年末)   
1802年 ベートーヴェンが作品31の三つのピアノ・ソナタを作曲
  第16番嬰ト長調作品31の1
  第17番「テンペスト」(ニ短調)作品31−2
  第18番変ホ長調作品31−3
          リヒテルさんは、第16番も第18番も演奏されません
          そのかわり、「テンペスト」には、1961年にスタジオ録音した名盤があります
           EMI CMS 7 64429 2
          最晩年では、1992年10月25日にアムステルダムでのライヴ録音があります
           PHILIPS 438 624−2

1803年
1804年 ベートーヴェンが「ワルトシュタイン」ソナタ(第21番ハ長調作品53)を作曲
           リヒテルさんは、「ワルトシュタイン」も演奏されません
ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第22番ヘ長調作品54を作曲
           最晩年では、1992年10月25日のアムステルダムのライヴ録音があります
           PHILIPS 438 486−2

6月1日 ”ロシア国民楽派の始祖”グリンカが富裕な地主の家に生まれる
  
1805年 ベートーヴェンが「熱情」ソナタ(第23番ヘ短調作品57)を作曲
      リヒテルさんは、「熱情」を得意とされていた様子です。
      1960年6月9日にモスクワで、また10月19日には、アメリカのニューヨークで
      ライヴ録音があります。
      RCA 6518−2−RG は、11月29日から30日のスタジオ録音です
      最晩年では、92年10月25
日のアムステルダムのライヴ録音があります
          PHILIPS 438 486−2
      下のジャケットは、1960年のモスクワでのライヴ
          MELODIYA 29462 2

12月2日 ロシア・オーストリア連合軍は、アウステルリッツの会戦でナポレオン軍に大敗を喫する
1806年 10月 プロシャ軍がイエナ・アウエルシテットの会戦でナポレオン軍に壊滅させられる
1807年
1808年
1809年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調作品78を作曲
               リヒテルさんは、第24番を演奏されません
ベートーヴェンがピアノ・ソナタ(ソナチネ)第25番ト長調作品79を作曲

            リヒテルさんは、第25番を演奏されません
ハイドン没
1810年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第26番「告別」ホ長調作品81aを作曲
               リヒテルさんは、第26番を演奏されません
フレデリック・ショパン生まれる(〜1849)
6月8日 ローベルト・シューマン誕生。ライプチヒから65`離れたザクセンの一年ツヴィカウにて
1811年 10月22日 フランツ・リスト(1811−1886)がハンガリーのライディングで生まれる
  父アダムは、エステルハージ家の執事で熟練した素人音楽家だった
→リヒテルさんは、グリンカを描いたソ連映画でリスト役でピアノを演奏されています
  フィルム 「エニグマ」で見ることができますよ!セリフもあり!
1812年
1813年
1814年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第27番ホ短調作品90を作曲
     リヒテルさんには、65年に、プラハ、ニューヨーク、ザルツブルグなどでのライヴ録音があります。
                 71年には、ザルツブルグでのライヴ録音もあります
      写真は、PHILIPS 438 617−2 1965年8月21日のザルツブルグでのライヴ録音です

1816年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101を作曲
      リヒテルさんの演奏には、60年代、70年代、80年代の録音があります
       1965年5月3日 ニューヨークでのライヴ録音 INTAGLIO INCD 7161
       1971年7月30日 オーリドでのライヴ録音 DOREMI DHR−7718
       1986年5月18日 プラハでのライヴ録音 PRAGA 254 022
       1986年6月17日 アムステルダムでのライヴ録音 PHILIPS 438 624−2
写真は、プラハでのライヴ。PRAGA CMX356022

8月 シューベルトがピアノ・ソナタ第3番ホ長調D.459(未完)を作曲
 
         →リヒテルさんは、1980年6月18日に演奏:唯一の演奏でしょうか?
1817年 6月 シューベルトがピアノ・ソナタ第6番ホ短調D.566を作曲
          →リヒテルさんは、1964〜79年までくりかえし演奏
              1964年のライヴ録音 Richter Collection HP 10
              1978年7月23日のミュンヘンでのライヴ録音 VICC−60077など
6月 シューベルトがピアノ・ソナタ第9番ロ長調D.575を作曲
          →リヒテルさんは、1965〜79年までくりかえし演奏
              1979年2月の東京公演ライヴ VDC−1198など
8月 シューベルトがヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲を作曲  
          →Richter Collection 5  HP10  1969年のライヴ録音
ショパンが最初の作品である ポロネーズ ト短調を作曲する
1818年 ベートーヴェンが「ハンマークラヴィーア・ソナタ」(変ロ長調作品106)を作曲
         リヒテルさんの演奏は、つぎのCDで聴くことができます
           1975年6月2日 プラハでのライヴ録音 PRAGA 254 022
           1975年6月11日 オールドバラ音楽祭での録音 BBC BBCL 4052−2
           1975年6月18日 ロンドンでのライヴ録音 STRADIVARIUS STR 33313
写真は、BBCL 4052−2

9月 シューベルトがピアノ・ソナタ第11番ヘ短調D.625を作曲
          →リヒテルさんは、1978〜79年までの期間に集中して演奏
              1978年7月23日のミュンヘンでのライヴ録音 VICC−60076
              1979年2月の東京公演のライヴ録音 VDC−1198など
1819年 シューベルトがピアノ・ソナタ第13番イ長調D.664を作曲(1825?)
          →リヒテルさんは、1953年から演奏している。53〜79年まで演奏
9歳のシューマンが、カールスパートで、ピアニストのイグナーツ・モシュレスの演奏を聴き、ピアニストとなる願望をもつ
1820年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109を作曲
         リヒテルさんの演奏は、つぎのCDで聴くことができます
           1963年11月28日 ライプチヒでのライヴ録音 MUSIC&ARTS CD−1025
           1971年7月30日  オーリドでのライヴ録音 DOREMI DHR−7718
           1972年1月22日 モスクワでのライヴ録音 REVELAION RV 10096
           1974年6月1日  東京でのライヴ録音 FACHMANN FKM−1016
           1991年10月17日 ルードヴィヒブルグでのライヴ録音 PHILIPS 438 486−2
           1991年10月27日 キエルでのライヴ録音 LIVE CLASSICS LCL 422
写真は、LIVE CLASSICS LCL 422

10歳のシューマンが父親に連れられて、モーツァルトの『魔笛』を聴く
1822年 ベートーヴェンがピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110を作曲
         リヒテルさんの演奏は、つぎのCDで聴くことができます
           1963年11月28日 ライプチヒでのライヴ録音 MUSIC&ARTS CD−1025
           1965年2月6日 プラハでのライヴ録音 PRAGA 254 023
           1965年5月3日 ニューヨークでのライヴ録音 INTAGLIO INCD 7111
           1965年10月10日 モスクワでのライヴ録音 REVELAION RV 10096
           1974年6月1日   東京でのライヴ録音 DOREMI DHR−7718
           1991年10月17日 ルードヴィヒブルグでのライヴ録音 PHILIPS 438 486−2
           1991年10月27日 キエルでのライヴ録音 LIVE CLASSICS LCL 422
           1992年5月16日  ミュンヘンでのライヴ録音 LIVE CLASSICS LCL 481
           1992年6月20日  ブリュッセルでのライヴ録音 VICTOR VICC−60078
写真は、LIVE CLASSICS LCL 481 リヒテル最晩年の録音から


ベートーヴェンが最後のピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111を作曲
         リヒテルさんの演奏は、つぎのCDで聴くことができます
           1963年11月28日 ライプチヒでのライヴ録音 MUSIC&ARTS CD−1025
           1974年6月1日   東京でのライヴ録音 DOREMI DHR−7718
           1975年1月12日 モスクワでのライヴ録音 RVELATION RV 10096
           1991年10月17日 ルードヴィヒブルグでのライヴ録音 PHILIPS 438 486−2
           1991年10月25日 レィンゲンでのライヴ録音 LIVE CLASSICS LCL 491
下の写真は、DHR−7718 つまり東京のライヴが聴けます


シューベルトが「さすらい人」幻想曲D.760を作曲
1972年に出版された吉田秀和著『一枚のレコード』のなかで、著者はケンプの演奏するシューベルトに触れたあとで、リヒテルさんについて、つぎのように書いています。
《 シューベルトのピアノのレコードでは、私はほかに、ソ連の巨人
、リヒテルのひいた『さすらい人の主題による幻想曲』とイ長調のやさしい小さいソナタ(作品120 D664)を入れたものを、前から、大事にしている。
 これは、前にも後にも、その比をみないだろうくらい、物凄いシューベルトである。ことに『さすらい人』のほうは、デモーニッシュというほかない。的確で精緻で微妙でありながら、その下に、いつ、その表面が破れて、何がはじまるかわからないような、不気味な緊張が底流している。もし、シューベルトが、前半にふさわしい終楽章を書くのに成功したら、本当にどんなにすさまじいことになったろうか?
 年を重ねるにつれて、私は悲愴がかった音楽や演奏から、自分の気持が遠ざかってきているのを感じる。今、そういう演奏で、私が耐えられる人は、ごく少数でしかない。そうして
リヒテルは、そのごく少数の音楽家の一人である。といっても、私は彼には、ときとして、畏敬を感じ、ときとして、とてもついてゆかれない気がする。》
(吉田秀和全集第6巻340n)
このCDには、1963年の2月から4月にかけて、スタジオ録音された「さすらい人幻想曲」の演奏が収録されています。ただ吉田氏のいうLPとカップリングは違いますが。

1823年 2月 シューベルトがピアノ・ソナタ第14番イ短調D.784を作曲
1824年 モスクワのマールィ劇場が創立される。これは現存する最古のロシア劇場
1825年 4月 シューベルトがピアノ・ソナタ第15番ハ長調D.840を作曲
5月 シューベルトがピアノ・ソナタ第16番イ短調D.845を作曲
8月 シューベルトがピアノ・ソナタ第17番D.850を作曲
1826年 10月 シューベルトがピアノ・ソナタ第18番ト長調D.894を作曲
1828年 グリンカがペテルブルグ交通・通信省を退職して、ヨーロッパへいく(ミラノ〜ベルリン)
9月    シューベルトがピアノ・ソナタ第19番ハ短調D.958を完成
          →リヒテルさんは、1958年から演奏。58〜73年までの期間に演奏
            Richter Collection HP10 1958年のライヴ録音 

9月     シューベルトがピアノ・ソナタ第20番イ長調D.959を完成
          →リヒテルさんがこの曲を演奏したという記録がない
9月26日 シューベルトが最後のピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960を完成
          →リヒテルさんは、1957年から公開の席で演奏しています。57〜73年まで演奏
            1972年8月 ザルツブルグで録音したVDC−1021など
     
11月 シューベルト死去(31歳)
ショパンがピアノ・ソナタ第1番ハ短調作品4を作曲
1830年 ”ロシア初の偉大なピアニスト”―――
アントン・ルビンシュタイン(1830-1894)生まれる

 ルビンシュタインは、土地所有者の大家族に生まれた。母親がアントンの才能にはやくから気づき、ピアノ演奏の訓練に力を入れたが、練習はチェルニー、クレメンティ、モシュレス、カルクブルンナーなどで偉大な作曲家の作品ではなかった。母親は、そこでアントンを有名なピアノ教師であるアレクサンドル・ヴィロング(Alexander Villoing)になんとか聴いてもらった。ヴィロングは強い印象を受け、四年間無償でピアノを教えた。10歳のときに、モスクワで、アントンははじめて公衆の前で演奏し、絶賛を浴びた。そこで、ヴィロングはヨーロッパへの演奏旅行にアントンを連れて行った。1840年、アントンは、リストの前で、ショパンの前で、またコンスタンティン大公のまえで演奏した。リストは、ドイツでアントンのピアノの修行を終えるように、ヴィロングに勧めた。

ショパンがピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11を作曲
ショパンがピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21を作曲(1829−30)
1831年 リストがはじめてパガニーニを聴いて衝撃をうける
ショパンが、スケルツォ第1番ロ短調 作品20を作曲(1831〜32年)
シューマンが「ダビット変奏曲」作品1を完成
シューマンが「パピヨン(蝶々)」作品2を完成
下のCDは、リヒテルさんが演奏する「パピヨン」
  1962年10月から11月にかけておこなったイタリアでのライヴ録音


1832年 ショパンがスケルツォ第1番ロ短調作品20(1831−32)を作曲
シューマンの右手の指に障害が起こる。
ペテルブルグ(現サンクト・ペテルブルグ)のアレクサンドリンスキー劇場(現プーシキン記念劇場)が創立される
1833年
1834年 グリンカがロシアに戻る
4月3日 シューマンが編集した「ライプツィヒ音楽新報」第一号が出る
1835年 ショパンがバラード第1番ト短調作品23(1831−35)を作曲
シューマンが、ピアノ・ソナタ第1番嬰ヘ短調作品11を作曲(1832〜35)
1836年 12月9日 グリンカがロシア皇帝臨席のもと、オペラ『皇帝に捧げた命(イワン・スサーニン)』を初演

《ロシアの作曲家たちはヨーロッパで初めて、民族主義から美を創造した。ミハイル・グリンカ(1840−1857)が、オペラ『皇帝に捧げた命(イワン・スサーニン)』によって1836年に、その口火を切った。音楽史上、最もオリジナルで、力強い存在となったひとにぎりの国民音楽家の作曲家をロシアが生み出したのは、それからわずか50年後のことである。》「大作曲家」中 263n
この年、チャダーエフが『哲学書簡』を発表し、ロシア=インテリゲンツィアの最初の論争を生む
 主題は《ロシアの歴史的使命》の問題。チャダーエフは、ロシアの歴史的使命を否定する。
 これが、20年間つづく論争の口火となる。いわゆる”スラブ派”と”西欧派”の間で。
 スラブ派の代表はホミャコーフ。スラブ派の創始者。ロシア・ナショナリズムの最初のイデオローグ

シューマンが、ピアノ・ソナタ第3番ヘ短調作品14を作曲(1835〜36)
1837年 1月2日 バラキレフ(〜1910)がニジニ・ノヴゴロドで生まれる
ショパンがスケルツォ第2番 変ロ短調 作品31 を作曲
シューマンが、幻想小曲集 作品12 を作曲
1838年 シューマンが、幻想曲ハ長調 作品17 を作曲(1836〜38)
シューマンが、クライスレリアーナ 作品16 を作曲(1838)
シューマンが、アラベスク ハ長調 作品18 を作曲(1838)
シューマンが、ピアノ・ソナタ第2番 ト短調 作品22 を作曲(1833〜38)
1839年 リストが今日的な独奏リサイタルを発明(?)する(「大作曲家」上 308n)
リストがピアノ協奏曲第2番イ長調を作曲(46〜61年に改訂)
ショパンがピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品35「葬送」を作曲
ショパンがバラード第2番ヘ長調作品38(1836−39)を作曲
ショパンがスケルツォ第3番嬰ハ短調作品39を作曲
1840年 5月7日 ピョートル・チャイコフスキーが、裕福な中流家庭の子として、カムスコ=ヴォトキンスクに生まれる
9月21日 シューマンがクララ・ヴィークと結婚する
アントン・ルビンシュタインが、ヨーロッパへの演奏旅行。、リスト、ショパンなどの前で演奏する
シューマンが、ウィーンの謝肉祭の道化 作品26 を作曲(1839〜40)

ロシアのピアニズムの伝統について
『いわゆる西洋音楽史においてロシアが表面に登場してくるのはようやく19世紀半ばになってからのことである。それまではもっぱら西欧の音楽を移入していたロシアにおいて、ピアノの世界の土壌を作ったのもアイルランド人のフィールド、ポーランド人のシマノフスカ、モスクワ生まれながらフランス系のヴィルワン、ドイツ人のヘンゼルトなど、ロシアを訪れていた外国人だった。そうした土台の上にアントンおよびニコライのルビンシュテイン兄弟が登場する。2人ともピアノをヴィルワンに学んでおり、兄アントン(1829〜94)は重量感に満ちた力強さとデリケートな叙情表現において、弟ニコライ(1835〜81)はヴィルトゥーゾとして優れていたと伝えられており、ロシアのピアニズムはこの兄弟によって開花したといっても過言ではないだろう。さらにアントンが1862年にロシア初の本格的音楽教育機関としてペテルブルグ音楽院を、またニコライが1866年にモスクワ音楽院を創立したことによって、ピアノ教育もある程度組織化され、ロシア・ピアノ界は大きく発展することになる。』
    寺西基之 (『ピアノとピアニスト』立風書房 1996年 98n)
1841年 ショパンがバラード第3番変イ長調作品47(1840−41)を作曲
1842年 グリンカがオペラ『ルスランとリュドミラ』を作曲
ショパンがバラード第4番ヘ短調作品52を作曲
ショパンがスケルツォ第4番ホ長調作品54を作曲
19世紀中頃 ピアノ職人のリヒテルさんの父方の祖父がジトーミルに移住。ポーランド領ブレゼーニャ出身のドイツ人   
    ・・・・・ドイツ人の東方進出の流れの一こま
      しかしこういうドイツの血を受け継ぐという出自そのものに問題はなかったが、
      1930年代のスターリン体制のもとで弾圧の材料となり
      リヒテルさんのお父さんとリヒテルさんの運命に重くのしかかる
               
1843年
1844年 3月 クララ・シューマンがペテルブルグでリサイタルを行う
ショパンがピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58を作曲
1845年
1846年 ショパンが舟歌ヘ長調作品60(1845−46)を作曲
ドストエフスキーが『貧しい人々』を発表
1847年 リストが最後の演奏旅行でロシアを訪問
1848年 グリンカが幻想曲『カマリンスカヤ』を作曲
1849年 リストがピアノ協奏曲第1番変ホ長調を作曲(53,56年に改訂)
1850年 チャイコフスキー一家がペテルブルクへ移る
リストがコンソレーション(S.172)全6曲を作曲(49〜50)
1851年 リストが超絶技巧練習曲集(S.139)を作曲
リストがパガニーニによる大練習曲(S.141)を作曲
1852年 ブラームスがピアノ・ソナタ第2番嬰ヘ短調作品2を作曲
1853年 リストがピアノ・ソナタ ロ短調(S.178) を作曲(52〜53年)
ブラームスがピアノ・ソナタ第1番ハ長調作品1を作曲
ブラームスがピアノ・ソナタ第3番ヘ短調作品5作曲
クリミア戦争(〜56)
はじまる
1854年 3月 シューマンが精神病院に収容される
ブラームスがバラード集作品10を作曲(4曲)
1855年 バラキレフがペテルブルグへ移り、グリンカの支援のもとで、音楽家としての活動を開始する
1856年 セザール・キュイ(1835-1918)がバラキレフとともに活動を始める
クリミア戦争
でロシアが敗北
1857年 2月15日 グリンカがベルリンで死去
グリンカの死後の《ロシア音楽の次の発展は、ミリー・バラキレフと呼ばれる、主として独習で音楽を身につけた、ずんぐりむっくりの、アジア的風貌の家父長的人物の周囲に一群の才能あるアマチュア音楽家が集まった時に、もたらされた。そこで起きたのは、音楽史上最も稀な出来事で、世界の他の地域では起こりえない性格のものだった。》つまり、「ロシア5人組」のことである(「大作曲家」中 258n)
モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)がバラキレフのグループに加わる
1858年 ブラームスがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15を作曲(1854〜58)
1861年 ロシア皇帝アレクサンドル二世が農奴解放令を出す
裕福な地主の息子であったムソルグスキーは解放令により、経済基盤を揺るがされ、親からの仕送りを絶たれ、官吏として勤務せざるをえなくなる
ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)がバラキレフのグループにくわわる
ブラームスがヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24を作曲
1862年 アントン・ルービンシュタインがペテルブルグ音楽院を創設

下の写真は、向かって左がニコライ(弟)、右がアントン・ルビンシュタインさんの写真です

ニコライ・ザレンバに作曲を学んでいたチャイコフスキーは、ザレンバが音楽院の教授となったために、ペテルブルグ音楽院に入学した。アントン・ルビンシュタインの好意も得られた
《音楽面では、この国【*ロシアのこと】は豊かな民謡の遺産を引き継いでいたが、音楽教育機関のようなものは皆無だった。1850年になってもロシア中にただ一つの音楽学校もなかった。教師も、音楽書も、刊行物も、極めて少数だった。ペテルブルグにはロシア・フィルハーモニー協会なる団体が存在したが、活動は年二回のコンサート開催だけだった。
 音楽家は二流の市民と目されていた。アントン・ルビンシュタインは、1862年のペテルブルグ音楽院創立に先立ち「言葉の真の意味において芸術的音楽家と呼びうる者は、ロシアにはほとんど皆無である。これは、わが政府が、絵画、彫刻など、他の芸術分野で働く者が享受している特権を、音楽家には認めていないからだ。この国では音楽家は芸術家として遇されていない」と書いた。》「大作曲家」中 263-264n

アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)がバラキレフのグループに加わる=「5人組」の成立

《独学者ばかりで、しかもそれを誇りとしていた五人組は、相互依存を美徳とし、自らの教理の旗を妥協の余地なく高く掲げた。グループとしての彼らは、自発性、「音楽のなかの真実」、民族主義を重んじ、アカデミズムおよびワーグナー主義に反対した。五人組にとってロシア音楽界の悪玉は、西側のアカデミックな伝統を代表する仇敵ルビンシュタイン兄弟と、彼らが経営する二つの音楽院だった。》(「大作曲家」中 264n)
1863年 チャイコフスキーが法務省を退職し、音楽に専念する
ブラームスがパガニーニの主題による変奏曲作品35を作曲(1862−63)
1864年 ブラームスがピアノ五重奏曲ヘ短調作品34を作曲(1862−64)
1866年 モスクワ音楽院(Московская консерватория)の創設(コンセルヴァトーリヤ)

アントンの弟のニコライ・ルービンシュタイン(1835-1881)がモスクワ音楽院を創設
アントン・ルビンシュタインは音楽院の和声学の教授にチャイコフスキーを推薦
チャイコフスキーは6年間モスクワ音楽院の教授を務める
  
→リヒテルさんは、ここに1937年に入学する
《ペテルブルグ音楽院が今も昔も、ロシア国民学派の代表であるのに対し、モスクワ音楽院は、チャイコフスキー、セルゲイ・タニェエフ、セルゲイ・ラフマニノフらに見られるように、より多くの国際性を備えている》(「大作曲家」中 288n)
 ピアニストの中村紘子さんは、著作『チャイコフスキー・コンクール』(中央公論社 1988)のなかで、音楽院(コンセルヴァトーリ)のもつ位置と意義について、興味ぶかい記述を与えてます。
『私が見聞した限りでは、西欧諸国における教育の基本理念には、音楽だけでなくすべての分野にわたってこの「コンセルヴァトワール」があると思われる。即ち、この場合のコンセルヴァトワールとは日本における保守的といった言葉のイメージとはどこか違い、伝統のある規範や基本を徹底的に踏襲させることが教育の基礎であって、独創や改革はその基盤があってこそ開花する、という信念である。特に音楽のように基礎的技術の習練に時間とエネルギーが必要なものにおいては、その信念はいっそう明確で、そしてピアノ教育にあってはコンセルヴァトワールの具体的な意味は、基本的には十九世紀に爛熟完成をみたピアニズムの継承、言いかえるなら、ロマンティシズムの継承を中心とする。
 そしてこの十九世紀に成熟したロマンティシズムの継承、さらに言えば温存は、チャイコフスキー・コンクールの舞台であるロシアにおいてこそ、最も典型的に実現されたといえよう。即ち、このような「ロマン派的感受性」は、もともとロシア人の気質や気候風土によくマッチしたこともあろうが、その帝政時代から更には革命後の政治体制を通じて、社会的にも地理的にも半ば西欧から隔絶されたような状況が続いたことによって、十九世紀後半から現代に至るまでのあいだに、他に比類ないほどの確固とした「コンセルヴァトワール」の世界を伝統芸術の分野において築き上げたのだ。ピアニズムについても、同様である。
 そして事実このいわばロシア式ピアノ技法、とでもいうべき奏法は、「ロシア出身(もちろんユダヤ系も含んでの)でなければピアニストにあらず」といわれたほど多くの素晴らしいピアニストたちを生み出した。今世紀に入ってからの話に限ってみても、私が思いつくまま数え上げただけでその数は八十余名にも及ぶ。そのなかにはスクリャビン、ラフマニノフに始まって、プロコフィエフ、ホロヴィッツ、ギレリス、リヒテルといった超弩級の演奏家たちも当然のこととして含まれている。そしてこのような「実績」を背景として、コンセルヴァトワールはその極めて安定した信念と価値観の伝統を更に継承していく、という構造になっているのだ。
 そしてのロシアにおいて、このコンセルヴァトワールの世界に常に中心にあって今日まで支えてきたのが、全ソ連邦のピラミッド型音楽教育の頂点に立つモスクワ音楽院(コンセルヴァトーリ)であり、ここでは当然のこととして、この「ロマン派的感受性」とそこに根ざした「技法」というものが、何よりも重要視されることになる。これを抜きにしての「ヴィルチュオジティ」(これこそまさに、十九世紀ロマン派の所産)など、彼らにとってはあり得ない。
 モスクワに限らず他の西欧諸国のコンセルヴァトワールでも基本的には同様であるが、このように過去の価値観の蓄積が、ゆるぎない遺産として目の前に君臨する世界では、その根本を覆すようなものはもちろんのこと、およそ異質な価値観をなかなか受けつけようとはしない部分が存在するのは、むしろ自然のことであろう。さまざまな価値観の波に洗われもまれて、そのなかで比較的自由に自分の好みを実現できる日本やアメリカのような国とは、全く違うのである。しかし、逆に言えば、その点にこそ「コンクール」が成立する基本的条件がある、ともいえよう』(上掲書 53-55n)

チャイコフスキーが交響曲第一番「冬の日の幻想」を作曲
バラキレフが『40の民謡集』を出版
1870年 ニコライ・ズヴェーレフ(1832-93)がモスクワ音楽院の教授となる。モスクワのピアノ教授の権威となる
1872年 1月6日 アレクサンドル・スクリャービン(1870-1915)1がモスクワで誕生→モスクワ音楽院
リヒテルさんの父テオフィル・リヒテルさんがジトーミルで誕生
1873年 4月1日 セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)誕生。生地は、ノブゴロド近郊の領地。→モスクワ音楽院
1874年 1月27日 ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドノフ」が完全な形で初演される
ムソルグスキーが「展覧会の絵」を作曲
 
 リヒテルさんは、《音楽をめぐる手帳》につぎのように記されています。
『私の《展覧会の絵》には二種類の録音がある。ひとつはソフィアの実況録音で、もうひとつはモスクワでのスタジオ録音だ。両方ともある程度はうまくいっているが、満足してはいない。何かしら、はっきりとは言えないが欠陥がある。たぶんある種の真実味の欠如だろう。もっと上の、もっと普遍的な幅を持ったもの、あらゆる矛盾を抱え込んだひとつの世界のようなものが欲しいのだが。
 管弦楽版の方は御免被る。あくまでこれはピアノのためのロシア最良の作品である。アーメン』(『リヒテル』261〜262n)
→リヒテルさんの録音は、現在、ご本人の思われている以上にリリースされています。
      1952年10月3日 モスクワ PACD 96−003/4
      1956年11月14日 プラハ  PR 254 034
      1958年2月9日もしくは19日 ブダペスト KICC 2268
      1958年2月24日 ソフィア  有名なソフィア・ライヴ いろいろ出てる
      1958年8月8日 モスクワ   SRE vol.9
      1968年10月19日  ロンドン AS DISC 33
      1969年2月10日 ナポリ Dino Classics 9075 037 
 
1875年 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番変ロ短調初演
10月25日 ハンス・フォン・ビューローがボストンでを初演する:アントン・ルビンシュタインがこの曲を非難したために、ビューローに捧げることになった
  →チャイコフスキー一番のリヒテルさんの録音
      1954年5月 カレル・アンチェル指揮のチェコ・フィルと
      1957年11月10日 モスクワでラチィン指揮のソ連国立管弦楽団と
      1958年7月24日  ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルと
      1962年9月24日〜26日  カラヤン指揮ウィーン交響楽団と
      1968年4月9日  コンドラシン指揮のモスクワ国立交響楽団と
1876年
1877年 トーマス・エジソンがシリンダー式録音機を発明
1878年 チャイコフスキーは音楽院教授を退職し、作曲に専念する。
    1877年から14年間、ナジェージダ・フォン・メック夫人の経済援助をえる
ブラームスが8つのピアノ小品作品76(1871,1878)を作曲
1879年 ブラームスがヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78「雨の歌」(1878−79)作曲
ブラームスが2つのラプソディ作品79を作曲
1880年
1881年 3月23日 ニコライ・ルービンシュタイン(弟)死去
3月28日 ムソルグスキー(42歳)アルコール中毒症が原因で死去
ブラームスがピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83(1878−81)を作曲
アレクサンドル2世が”人民の意志”派に暗殺される
1882年 アルトゥール・シュナーベル生まれる 現ポーランドのビエルスコエ=ビアラ近郊のリプニック村
イーゴリ・ストラヴィンスキー生まれる
1883年 リムスキー=コルサコフがピアノ協奏曲を作曲 
→リヒテルさんには、このピアノ協奏曲のライヴ録音があります。
1884年
1885年 タネーエフがモスクワ音楽院の院長(〜91年)となる
ラフマニノフが、モスクワのニコライ・ズヴェーレフのもとで学びはじめる
スクリャービンとラフマニノフが・ズヴェーレフのピアノ教室で出会う
1886年 7月31日 フランツ・リストがバイロイトで客死
ブラームスがヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調作品100を作曲
《ピアノ教授としても、リストの影響力は広範に行き渡っている。彼は二世代にわたる後継者を生み出し、彼らすべて先生のスタイルと教授法を世界中に広げた。フォン・ビューローとタウジッヒのあと、ゾフィー・メンター、ユージン・ダルベール、モーリッツ・ローゼンタール、アルフレート・ライゼナウヤー、アレクサンダー・シロティ、アルトゥール・フリードハイム、フレデリック・ラモント、ラファエル・ヨゼフィ、エミール・フォン・ザウアー、ベルンハルト・シュターフェンハーゲンら、ピアノの巨人が輩出した。みなリストの弟子で、ほとんどが教師になってリストの伝統を後世に伝えた。ほかにも文字通り数百人がおり、すべてリストに訓練され、すべて今日はなきロマン派ピアニズムを代表していた》ョーンバーグ「大作曲家」上 314-315n
スクリャービン(14歳)が練習曲嬰ハ短調作品2を作曲
早熟の傑作であるこの練習曲を、リヒテルさんも演奏している
リヒテルさんのCD 1952年1月14日のモスクワ・ライヴ BMG 29470 2
1887年 アレクサンドル・シロティがモスクワ音楽院の教授となる
ラフマニノフがモスクワ音楽院に入学。ピアノをシロティに、対位法をタネーエフに、作曲技法をアレクシンスキーに学ぶ
ポーランドのピアニスト、ヨーゼフ・ホフマンがアメリカデビュー
1888年 スクリャービンがモスクワ音楽院に入学。ピアノをワシーリー・サフォーノフに、対位法をタネーエフに、作曲技法をアレクシンスキー学ぶ
ブラームスがヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調作品108(1886−88)を作曲
1889年 1月 モスクワで、アントン・ルビンシュタインが生涯最後のリサイタルを開く。
シュナーベル(七歳)、ウィーン音楽院のハンス・シュミットに師事する
1890年 このころ、父テオフィルは、ピアノと作曲の勉強にウィーン大学に留学。作曲家フランツ・シュレッカーと同級。グリーグとも知り合いになる。テオフィルは大学卒業後もウィーンにとどまり、音楽の家庭教師をし、コンサートを開いた
アントン・ルービンシュタインについて、余談的な挿話だが、1953年にミルシュティンがコンクールの審査員につくのを断る口実に以下の話をジャック・ティボーにしたといっている。《伝説的なピアニスト、アントン・ルービンシュタインの発案で、最初の国際コンクールの一つが1890年にペテルブルクで開かれた。ルービンシュタインはある美しい理想像を描いていたが、困惑のうちに終始したのだった。彼は自腹を切ってコンクールのために基金を作り、賞を二つ用意した―――一つはピアニスト用に、もう一つは作曲家用に、それぞれ5千フラン。フェルッチョ・ブゾーニがコンクールのためにペテルブルクにやってきて、ピアニストと作曲家の両方に参加した。そして彼は作曲家の賞だけを得た!ピアノ部門では、ニコライ・ドゥバソフという男に敗れてしまったのである。将来偉大なピアニストになるなどとてもありえないような、教えることだけに従事するような一介のピアニストに。
 この話のもっとも痛快な点は、ミーチャ・ニキシュが私に話してくれたように、ブゾーニではなくドゥバソフに賞を与えようと主張した人は、ほかならぬルービンシュタインだったということである。だれもが驚いた。ブゾーニのほうが格段によかったからである。しかしルービンシュタインは次のように説明した。ブゾーニは賞がなくてもいずれ有名になるだろう、しかしドゥバソフは勇気づけと経済的援助を必要としている。これぞ音楽コンクールの理想とするものだ....というのである》(「ロシアから」372-373n)

ラフマニノフが、ピアノ協奏曲第1番を作曲(1917年改訂)
1891年 4月23日(11日) セルゲイ・プロコフィエフ ウクライナのソンツォフカ村で生まれる
5月11日 ロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が、大津市で暴漢に襲われる(大津事件)
サフォーノフがモスクワ音楽院の院長(〜1905年)となる

ラフマニノフが、ピアノ協奏曲第1番を試演する
1892年 1月30日 ラフマニノフがモスクワで公開の演奏会を開く(デビュー)
ラフマニノフとチャイコフスキーがズヴェーレフの紹介で出会う
ラフマニノフが有名となった前奏曲嬰ハ短調を作曲
ラフマニノフが大金メダルを、スクリャービンが小金メダルをえて、ともにモスクワ音楽院を卒業
ラフマニノフが幻想的小品集作品3を作曲
ブラームスが幻想曲集作品116を作曲
ブラームスが3つの間奏曲作品117を作曲
ブラームスが6つのピアノ小品作品118を作曲
ブラームスが4つのピアノ小品作品119を作曲
1893年 チャイコフスキー死去
1894年 アントン・ルービンシュタイン死去
ロシア皇帝にニコライ2世が即位する(〜1917)
1895年
1896年 ラフマニノフが6曲の楽興の時作品16を作曲
1897年 スクリャービンがピアノ・ソナタ第2番を作曲
ロシア社会民主労働党(のちのロシア共産党)がミンスクで創立大会。直後に弾圧で壊滅状態となる。
1898年 スクリャービンがピアノ・ソナタ第3番を作曲
スクリャービン(26歳)がモスクワ音楽院のピアノ科教授となる(〜1903)

モスクワ芸術座が創立される。スタニスラフスキーとネミロヴィッチ=ダンチェンコによって
12月 モスクワ芸術座がチェーホフの「かもめ」上演。成功を収める
    「かもめ」は、芸術座のシンボルとなる
1899年 コンスタンティン・イグムノフ(1873〜1948)がモスクワ音楽院の教授となる(〜1948年)
ラフマニノフがロンドンを訪問