介護の後に
11/9
102歳になった伯母がとうとう「看取り」に入って、入院したと連絡が来たのは先月末。
目下何とか持っている様子だが、弱ってきたことに違いはなく、とうとう・・・という感じです。
従兄によれば、血中酸素濃度が下がって食欲も落ちたので、経営している隣接の病院の方に移ったということですが、鼻から管を通している、少し持ち直した、面会は1日15分のみ、とのことです。

それを聞いてやはり生きているうちにもう一度会いたい、というのが人情でしょう。
まあ、ダメもとで病院に電話して面会可能か問い合わせたのですが、このご時世に何を言っているのこの人、という感じで「○○県にいらして2週間何事も無かったら面会に来てもいいですが・・。」とのこと。

当然かもしれませんが、(少し遠いものの)家族にとっては最後の機会です。また、東京では慎重ながらもある程度元の生活に戻りつつある状況では、マスクして手を洗って、咳もしなければ、顔を見るくらい何とかならないのだろうか、というのが 切実な思いです。医療関係者にとっては『とんでもない』考えかもしれませんが。

確かに、ごもっとも。私も理性では分かります、普段のご苦労も。
それでも割り切れない思いになった原因は何だろうか・・・と考えて、まあお疲れなのでしょうけれど、敢えて言えば対応した看護師さんの口調でしょうか。

もう少し、少しだけ、家族の思いを汲んで、そうしてあげたいのはやまやまですが、とか、私たちも辛いのですが、とか、そういった共感が全く感じられなかったから・・・かもしれません。
無いものねだりかもしれませんが、でも、憎むべきはコロナなんですよね・・・。

そんな思いをする家族が沢山いるこのご時世。
少しでも、可能なら、『融通の利く』対応をお願いしたいものです。

7/26
ALSの患者さんの委嘱殺人事件。御本人の辛さも、介護者の苦労と愛情もどちらも痛切に感じます。勿論、御本人の意思は尊いけれど、決してこの方は本当の意味で死にたかったはずはないでしょう。
どんな状態になっても、やはり家族は、生きていて欲しいと願っていますし、このような辛い状況にあろうとも、看護と介護が手厚くできるならば、天命を全うしたかったはずです。
ここに日本の医療と介護の問題の根本があると思います。

いろいろな思想の持ち主が居ます。しかし、自分の意思でこのように病気(コロナも)になるわけではありません。ある意味で、私の、あなたの代わりに病気を引き受けてもらったのかもしれません。
確かに相当な医療費がかかるでしょうけれど、それは、国家予算からしたら微々たるものです。誰もが出来るだけ穏やかに暮らしていけるように手当てするのが政治であり、近代国家です。

高齢者介護然り、難病患者然りです。
しかし、当事者は本当につらい思いで、このような結論を出したのでしょう。

迷惑を掛けたくない、惨めな姿(とは思いませんが)で生きていたくない、というのは、環境が変わればきっと違う気持ちになるはずです。
真の意味での「尊厳」をもった生き方が出来る世の中にしていかなければなりません。

そのために一番必要なのは、正しい知識を持つことです。
明日は我が身と思うことです。

暗い話題も多いですが、このような事件が一番辛いですね。
コロナ在宅奨励期間に、様々なことを見直すことが必要だと感じます。

6/30
週末、ちょっと遅れてお墓参りに行ってきました。
あれから1年。ついこの間のような気もします。

最後に入っていた療養病院から、今年1年に亡くなった方の供養をするのでという知らせが来た。このご時世、参列は出来ないので、通知だけ、と。
合わせてアンケート用紙も入っていたので、いろいろ迷った結果、母の最期に関しての燻っていたもやもやを全て吐き出すことにしました。そして、二度とそのような処置が行われないようにという願いを込め、 さらには、書いて送ったことで自分の気持ちも整理しようと思いました。

誰かを傷つける気持ちはありませんし、無記名なので担当の看護師さんが特定されることもないからですが、そのほか全てはとても手厚くして頂いただけに、この機会を使うことにしました。

だんだんと嫌なことは忘れるようにしたいものです。
家の中の小さな仏壇の前はお花がいっぱいです。花に囲まれた母と父の写真を眺め、心も穏やかにすごしたいものです。

06/22
命日が近づいてきました。
久しぶりに母の夢を見ました。
ベッドに寝ていましたが、笑顔で、いつものように私が話しかけると反応している、という姿でした。
目が覚めて、ああ、穏やかな表情だったなあ、と思うと少しほっとしました。

昨日は、従兄のお嫁さんのTさんがお墓参りに行ってくれて、また叔母からは命日にお花を送りたいけど在宅か、とメールが来たからでしょうか。
少数精鋭?ながら、母のことを心に留めていてくれる人がいるのは嬉しいことですね。

我々は仕事の関係もあり、お墓参りは週末に予定していますが、あっという間だったような気がします。
奇しくもまた仕事が忙しい最中と重なって、少し気が紛れるのもよいのかもしれませんね。

まだまだいろいろ鮮明ですが、少しずつフェードアウトしていくことでしょう。
穏やかな笑顔だけが記憶に残るよう願いつつ・・・。

06/09
昨日久々に外出した際、いきなりバスが大きく蛇行したので何事かと思うと、路上にカラスの無残な轢死体が。
しかし、そのそばでずっとカー、カーと鳴いている(泣いている)もう一羽の存在が余計に悲しみをかきたてました。
いやあ、見ている方も辛いですね。普段はあまり気に留めず、割とすぐに忘れてしまうのですが、残された一羽の方につい感情移入してしまいました。

カラスは賢いからなあ、とか、交通事故で亡くなる方は、家族も本当に堪らないだろうな、とか。

人はとても脆くて、とても強い。
中々死なないけれど、意外な時にあっさり死んでしまう。

まだこの記憶が鮮明なうちに、もっと物事を大切に行わなければ、と思うこの頃です。

06/01
コロナ自粛期間中に、家の中の片づけをしていると、母のものや父のものが出てきます。
楽しそうな笑顔の写真だったり、何と結婚式関係の書類だったり、はたまた母が大切にしていたらしい、古〜い父からのハガキ(love letter?!)だったり。
物は比較的冷静にどんどん処分できるとはいえ、片付けの手が止まってしまうものもありますね・・・。

人が一人、生きてきた証ですから、本当はいろいろ残してあげたい気もしますが、結局は誰かが処分することになると思えば、私がそれをすべきでしょう。
先日は、祖母と、叔母からもらったアクセサリーが可愛らし過ぎるので、(叔母から見て)娘と孫娘に送りました。

母のもののうち高価なものは、生前に妹とざっくり分けましたが、所謂アクセサリーは使わないと思っても捨てるわけにはいかず、かといって趣味に合わなければずっとしまったままとなり、悩ましいところです。
でもきっと、数年後には処分しているでしょうね・・・。
多分、今はまだ、そういう気持ちになれないだけでしょう。
10年経ったからか、少し残してある父のものは、処分できそうです(ゴメンね!)。

振り返って、私も海外で買ってきた綺麗な食器から使い始めようと思います。
それに、このところ、私としては相当高価なアクセサリーをいくつか買ったので、どんどん使おうかな・・・。

職場で、同僚達はそれはそれは高価で豪華な指輪やネックレスを惜しげもなくつけて来られるのですが、私は自作の失くしても惜しくない安物ばかりです。(^-^;)
その意味でも、高くはないものの、最近は妹が母の着物を着てくれるのは嬉しいことです。

2020/05/10
長い介護生活が終わってから、もうすぐ1年になろうとしています。
葬儀後の嵐のような時間が過ぎた後は、魂が抜けたような時間がずっと続いていた(いる)気がします。
それを無理にどこかにしまい込むのではなく、暫くはうまく付き合っていくしかないと思っています。

折しもコロナ禍で、終末期にも家族に看取られずに亡くなる方が多いことを聞くと、まだまだ自分のことのように胸が締め付けられます。
また、高齢者を抱える家族の気持ちは痛い程わかり、ああ、母がもし生きていれば私も今生きた心地がしないだろうと思う反面、もう心配しなくてもいいんだ、と少しだけ安堵したり。
気持ちはまだまだ揺れています。

客観的に見れば納得できることかもしれませんが、そうスッキリと思いきれないのが人間です。
折しも今日は母の日。
う〜ん、まだちょっと辛いです。(^-^;

介護が終わっても、本当の「終わり」が来る日はまだ遠そうです・・・。

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