滝への思い(この自然をいつまでも)


滝との出会い

もう20年近く前になる。
まだ大学生だった頃、高知の朝倉の下宿から自転車で鏡川上流へと向かった。 県道から山道へ入り、さらに突き当たりから徒歩でしばらく登ると樽の滝があった。 当時はカメラを買ったばかりで、単に思いつきでその滝へ行ったのだが、 自分から意識して滝を訪れたのはこの時が初めてだったと思う。

当時の樽の滝はまだ静かな環境の中にあり、現在と違って店屋もなかった。 その後、高知を離れ東京で会社勤めを始めると、滝との関わりもなくなっていった。


滝との再会へ

勤務地があちこち変わり、やがて徳島で働くことになる。 このころから風景写真を始めた。 しばらくは徳島県内の山や木々を撮影していた。
ある日、木屋平村で紅葉を撮影していて川の対岸に無名滝を見つけた。 この時撮影した滝と紅葉の写真は満足できるものではなかったが、なぜか滝の存在に心惹かれた。

その後、本屋で「徳島100の滝」と出会う。 中を見てみると木屋平村の無名滝が出ていた。 私が見ていたのは滝の一部で、実は5段からなる大きな滝であった。
ならばその滝を間近で見てみようと、後日その滝へ向かった。 これがその後、徳島の滝にはまるきっかけとなる。


徳島の滝の現状

徳島県には実は数多くの滝がある。 有名なものでは、轟の滝(海南町)、雨乞の滝(神山町)、大釜の滝(木沢村)などがあるが、その他にも各地域地域で知られた滝が多く存在する。

徳島県内の山間部は道路事情が良くなく、国道を離れると細い悪路が多い。 これが幸いしたためか、県内の滝に対する人間の過剰な整備はあまり行われていない。 一部の滝にはライトアップや土産物屋のあるところもあるが、その数も少ない。

個人的には、現在の県内の滝の環境がこのまま続くことを願っている。
滝は自然の作り出した芸術品である。 自然のままの姿が本来の姿であり、人間が手を加えるべき物ではないだろう。 またその自然のままの姿に接したときこそ、私たちはもっとも感動するのではないだろうか。
個人的には、苦労してたどり着き間近に見た小滝の方が、歩道の完備された簡単に行くことができる滝より印象に残っている。

ただ、残念なこともある。 歩道や山道がついている滝には、空き缶や弁当箱、たばこなどのゴミが必ずといってよいほど落ちているのである。 人間の品性は、人の見ていないところで強く出ると考える。 ゴミを持ち帰れないような人は滝へ行って欲しくはない。
このような人が簡単に滝に行けないようにするためにも、滝への過剰な整備はすべきではないだろうと個人的には思っている。

便利な世の中になり、協力して物事を行わなくても生きてゆける現代では、 悲しいかな、人のモラルも下がる一方である。 下がったモラルで苦労し迷惑を被るのは、モラルある人間たちと物言わぬ自然である。 世の中、不条理なものである。


滝探訪時の注意

滝へ行き、自然とふれあうことは自由だが、自然を甘く見てはいけない。
滝は山と川とのせめぎ合いの場所である。 付近の地形は大体において厳しいものである。 特に人のあまり訪れないような滝へ行く場合は、十分に服装・行動に注意してほしい。 無理は厳禁である。
またヘビやスズメ蜂といった危険な動物にも注意して欲しい。

改めていうまででもないが、滝へ行って残していってよいものは足跡ぐらいなものである。 ゴミなどを決して置いていかないこと。重ねてお願いしたい。
またタバコを吸う方は、その後始末に十分注意してほしい。投げ捨てなどもってのほかである。 山火事になった場合、その損失は甚だしいのだから。


最後に

ずいぶんマナーやモラルについて書いてしまったが、ここまで読んでくれた皆さんに感謝する。 ここまで読んでくれた方は、きっとモラルある方だと思う。

滝は山と川の織りなす芸術品。
有名な滝でも無名な滝でも、滝の下に立てば、自然の鼓動を感じることができる。 人間は動物なのだと、改めて自覚することができる。

何十年、何百年もそこに人知れず存在しつづける滝。 昼夜を問わずただ水を黙々と落とし続ける滝を、 そのままの姿で後の世代に伝えたいものである。

徳島の滝に魅せられてここまできた。これからも県内各地の滝を訪ね歩きたい。 今一度、徳島の滝がこのまま本来の滝の姿で子孫に引き継がれることを願いつつ...



<トップページに戻る>