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山形米沢の12ヶ月
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鳥が啼いて 川が流れて 野山は今花が咲き乱れ 汽車は行くよ 煙吐いて…。若
い頃よく聴いたフォークソングだが、田舎の美しい風景を歌いながら、今はもうない
で終わる。太鼓が響き 御輿が繰り出し 待ちに待ったお祭りだ 親戚が集まり 酒
を飲んで 今年も豊年だ、と歌われる2番も、今はないで終わる。
カール・ブッセは、山のあなたの空遠くに、「幸」が住むと誰かが言うのを聞いて、
それ求めて実際に尋め行く人を詠った。その人、行ったのはいいが、涙さしぐみ帰っ
てくる。「幸」などなかったのだ。だが、この人、山のあなたのなお遠くに、「幸」
があると言われると、懲りずにその気になる。
ユートピアとはトマス・モアの造語で、「どこにもない場所」というギリシャ語だ
が、ないにもかかわらず、誰もが求めて止まない理想郷だ。現実にはないが、人の心
の中にはある世界、それはある種の仮装空間ともいえよう。
古代人にとっては、文明の産物に溢れた便利な現代の都市空間は、ある種のユート
ピアではなかろうか。そこでは自動車や飛行機やセントラルヒーティングなど、人が
望んだことがそのままに実現されている。これほどまでに便利で気楽な世界は、古代
人には想像もできないほどの理想郷だろう。それは人の心の中にある世界をそのまま
に実現させた仮装空間の結果で、ユートピアと同じ仮装空間に根ざしている。だとす
ると、都市もりっぱなユートピアなのだが、都市をユートピアだと思っている人はあ
まりいない。都市化が高度に進み、人の心の中にある世界が実現すればするほど、ユー
トピアは遠ざかる。実現された世界は「どこにもない場所」ではなく、「どこにでも
ある場所」だからだろうか。
丸い地球の水平線に、何かがきっと待っていると、悲しいことがあっても、苦しい
ことがあっても進んだのは、ひょこりひょうたん島だった。彼らが進むところに待っ
ている何かとは「どこにでもある場所」ではなく「どこにもない場所」に違いない。
ユートピアとはどこにもないが、きっとどこかにある場所なのだ。そうでなければ、
これほど多くの人が、これほど長く探し続けるはずがない。そこは挫けることなく探
し続けた者だけがたどり着ける場所なのだ。
田舎暮らし、これもひとつのユートピアではあるまいか。