オタク論の死について

十周年

 このサイトを公開したのが2003年の12月12日、これはすなわち、先日十周年を迎えたということである。このような書きだしからは「十年も続くとは思わなかった」ともっていくのが自然な展開なのであろうが、実際はそうではなく、最初から、運悪く事故や病気で死んだりすることさえなければ十年くらいは余裕で続くだろう、と思っていた。そのとおりであった。

 とはいえさすがに十年はそれなりに長い時間で、当初に考えようと思っていた主題、扱おうと思っていた作品は、ほぼすべて扱ったように思う。とくに、いちばんやりたかったオタク論の理屈っぽいところは、だいたいこんなものかなあ、というあたりまで書いた。このあたりはわりと満足である。

 ところで、私はずっと自分自身以外の読者を想定しない、ということを方針としてきた。こんな芸風のテキストを面白がる奇特な人間などいるはずがない、という見込みからである。ところが、思ったよりも多くの方々に読んでいただくことができ、ときには丁寧なご意見やご感想までも貰うことができたのは大きな誤算であった。心より感謝したい。

 また、観察対象としてさまざまな思考のネタを提供してくれたリアルのオタクの友人たちにもこっそりと感謝したい。こっそりと、というのは、覆面観察者の立場に味をしめて、サイトの存在はリアルでは秘匿することにしているからである。酒を飲んでここで書いたネタをそのまま喋ったりはしているが、さすが辺境テキストサイト、誰にも指摘されないのが面白い。今後もこのままの方針でいくこととしたい。

 前置きはこれくらいにしておこう。このテキストでは、これまでいろいろと語ってきた「オタク論」という主題そのものについて、あらためて考えなおしてみたい。

オタク論の死

 この十年でオタクという趣味に本質的な変化があったか、と問われれば、なかった、と私は答える。十年前に考えた「オタクとはなにか」という議論は、今のオタク趣味にも基本的には当てはまると考えている。

 しかし、オタク趣味の社会的な地位はそれなりに変わった。趣味人口も増え、年齢層も上下に幅広くなり、社会的経済的影響力も増した。こういった事情は、オタク趣味そのものには影響を与えなかったが、オタクについて語るという営み、つまり、オタク論には決定的な影響を与えたように思われる。

 私が自分のサイトやらなにやらをつくって考えたかったことの一つがオタク論だったわけだが、オタク論はどうやらその役目を終えて、死につつあるようである。

 たとえば、昔は「こんな変なオタクがいました」的な話が面白がられたものだが、今ではもはやリテラシーの低い人以外は誰も引っかからなくなった。少し前には、オタクなるものを妙に特殊な存在のように見立てた疑似文化論や疑似人格分析や疑似人生論がよく見られたものであるが、そのような議論もまったく流行らなくなった。オタクを題材にしてなにやら意味ありげなことを論じてみせる、という営みそのものが、興味を惹くものではなくなったのである。

オタク論の存在意義

 オタク論に意味があったのは、オタクがオタク論を必要としていたからである。少なくとも十年前は、まだそういった需要があった。では、その需要はどこに基づいていたのか。私見はこうである。かつてのオタクたちの多くは、オタクであることについて、社会的なのか実存的なのかは知らないが、なんらかの居心地の悪さを抱いていた。その居心地の悪さが、オタクとはなにか、なんであるべきか、という問いを動機づけていたのである。

 しかし、今はどうか。現行のオタク文化は、なんとなくそういうものが好きなユルい愛好者たち、まだ自分がなにをやっているのか自覚しないがまま楽しくやっている中高生くらいの子ども、意識的に思考を停止した萌え豚、これらの人々の主導のもと、展開している。そこにはもはや、かつての居心地の悪さはない。そして、居心地の悪さの消失とともに、オタク論を問おうとする動機もまた、なくなっている。このようにして、オタク論はその生命力を減衰させていったのではないか。

 道徳的に善い人間であるために倫理学が必要であるわけではないし、優れた芸術家が美学に詳しいわけでもない。しかし、オタクにとってはオタク論が要求される。かつての私はこのように考えていた。オタク趣味には自虐を含む自己反省の契機がなければならない、というような認識からである。しかし、この認識は、オタク趣味の社会的な地位が不安定だった時期のものであり、いまや、どうやら実情に合わなくなっているようである。

居心地の悪さはなぜなくなったのか

 では、オタクたちは、かつてもっていた居心地の悪さをなぜ感じなくなったのか。すぐに思いつく、そして、たぶんもっとも重要であろう理由は、オタク趣味が一般化したから、というものである。

 客観的に状況を眺めてみれば、一定年齢以下の若い世代のそれなりの割合は、オタク趣味にどっぷり漬かって育っていて、もうそれが自然になっていると思われる。つまり、それがたんに人口における比率を意味しているのであれば、非オタクである一般大衆がいて、オタクである特殊な人がいる、という構図はもはや事実問題として成立していない。石を投げればオタク趣味に親和的な人間に当たるのである。2014年とは、ファーストガンダム直撃世代が孫をもっていてまったくおかしくない時代なのだ。

 居心地の悪さがなくなったのは、社会にオタク趣味が一定以上に普及したからなのである。

妄想のなかの「オタク」と「一般大衆」の区別

 ところが、そうであるにもかかわらず、我々を含む多くの人々は、いまだに、非オタクである一般大衆がいて、オタクである特殊な人がいる、という誤った信念をなんとなく抱きつづけているように思われる。社会にオタク趣味が一定以上に普及している、という事実があまり明確に認識されていないのである。どうしてこうなっているのか。私の見るところ、この誤りは二つのパターンに分類できる。

 一つめのパターンは、オタクとはなにかを誤解している場合である。つまり、オタクとは、なんか超絶的に濃くてアツくてヘヴィでイタくてキモいものでなければならない、と誤解している場合である。これは若いオタクや比較的ライトなオタクに多いように思われる。そのため、彼ら彼女らは、自分や周囲の友人たちがオタクである、と考えない。オタクとはもっとキツいものだと誤解しているのである。しかし、そんなキツいオタクなど、現実にはほとんど存在していない。存在していたとしても、それはオタクの典型ではない。(*)キツいオタクは、観念のなかにしか存在しない妄想なのであり、「オタク」とは、まさに彼ら彼女らのことを指す言葉なのである。

 (*)典型ではないが理念型ではあるかもしれない。羽生善治は典型的な将棋指しではないが、理想的な将棋指しとして、理念型ではある、というような意味で。しかし、この場合に、羽生に似ていないから自分は普通の将棋指しではない、と考えるのは誤りであるのと同様に、キツいオタク的でないから自分は普通のオタクではない、と考えるのも誤りである。

 二つめのパターンは、一般大衆とはなにかを誤解している場合である。つまり、一般大衆とは、オタク的な臭いがした瞬間に眉を顰めて不快感を表明するような人々だ、と誤解している場合である。こちらは、ある程度年季の入ったオタクに多いものである。そのため、彼ら彼女らは、自分の仲間うちの外部には敵意と悪意が渦巻いていて、そこで自分の趣味が承認される可能性は低い、と考えている。しかし、すでに述べたように、そのような外部は、実は存在しない。現代日本の社会や経済や文化はオタク趣味と切りはなしがたいものとなっている。我々の好きなオタクジャンルの作品やらなにやらの多くは、実は、みんなも普通に好きなものなのだ。もちろん、完全にオタク文化に興味がない人、それどころか、積極的に嫌っている人もいるかもしれない。しかし、一定年齢以下に限れば、そのような人々が多数派を占めているとは言えまい。どう考えてもその人たちは「一般大衆」ではない。(*)つまり、非オタク反オタクな一般大衆もまた、観念のなかにしか存在しない妄想なのである。オタクである彼ら彼女らのほうこそが一般大衆であるとさえ言えるのだ。

 (*)ただし、一つめのパターンで述べたような事情で、自分はオタクではないと誤認している人もいるので、実際はもっと事態は複雑になっている。

凡庸な趣味としてのオタク

 あらためてまとめよう。いまや、オタクという趣味は凡庸なものとなった、あるいは、少なくとも凡庸なものになりつつある。

 このことがすでに無意識的には受けいれられている、ということは、オタク論の衰退という事実が示している。あとは、これを意識的に自覚的に認識するだけである。一方に「キツいオタク」、他方に「非オタク反オタクな一般大衆」、という虚妄の対立軸を捨て、オタク趣味の現実のありようを見なければならない。私が以前から繰りかえし強調していたように、結局のところ、オタクとはたんなる一つの物語受容のスタイルであり、また、そのスタイルを積極的に愛好するという一つの趣味であり文化なのであって、それ以上でも以下でもない。もしもオタク論にまだなにか語ることがあるとするならば、それは純粋な趣味論という形をとって展開されるべきである。これが現段階での私の考えである。(*)

 (*)ただし、オタク論は純粋な趣味論として語られるべきだ、という主張は、まさにそうであることにおいて、趣味論を超えた含みをももちうる。オタク論は純粋な趣味論であるべきだ、ということは、かつてのオタク論が果たしていた諸々の機能は廃棄されるべきだ、ということを意味するからである。たとえば、オタクの特殊性を強調するオタク論は、ある種の人々にたいして、そのアイデンティティを支える役割を果たしていたかもしれない。自分がこれこれであるのはオタクだからであり、だから仕方がないのだ、というように。しかし、そのような考えかたは、誤ったオタク理解に基づいた自己欺瞞であり逃避である、というわけだ。こうなると、これは趣味論でもなんでもない、倫理についての主張であろう。このような含みがあることは、ウェブログでますだじゅん氏に指摘していただいた。感謝したい。

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