『パシフィック・リム』をめぐるもろもろ

 注意:『パシフィック・リム』(2013)と『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)のネタバレあり。

現象としての『パシフィック・リム』について

 この映画にかんしては、作品としての出来不出来の問題と現象としての盛りあがりの問題とを切りわけて語るべきであろう。私を含めた一部の集団のうちで、この作品は実際の出来以上に盛りあがったように思われる。その背景には、まず、とにかく特撮オタが怪獣特撮映画に飢えていた、ということがあるだろう。平成ガメラ三部作以降ほとんど暗黒時代だったわけだから。このかなりの飢餓状態に絶妙のタイミングで指しだされたのが、『パシフィック・リム』だったのである。つぎに、特撮オタが、日本の特撮なりアニメなりの文法に則った作品を、ハリウッド式のそれなりに金のかかったCGで見てみたい、という欲望をずっと抱いていた、ということもあるだろう。死ぬ前に一度は、と思っていた夢が叶ったのである。それは興奮もするというものだ。このあたりで、一部特撮オタによるこの作品の評価はダダ甘になった。

 さらに付けくわえれば、そこには、「我々の文化に属するところの怪獣や巨大ロボットの燃えを、ハリウッド文化に属するクリエイターに評価してもらえた」という喜びもあったように思う。しかし、ここには、特撮オタの微妙な負け犬根性が隠れていると言わざるをえない。特撮趣味は、日本では幼稚な文化として馬鹿にされている。でも、娯楽の頂点たるハリウッドが、ちゃんと怪獣や巨大ロボットの価値を認めてくれた。これで、いつも自分たちをいじめていた奴らを見かえしてやれる。このような発想には、他力本願で自分の恨みを晴らそうとする奴隷根性とか、ジャパニーズオタク文化の特殊性を過信する島国根性とか、その裏返しの陳腐な欧米崇拝とかいった、あまり好ましくない思考回路が透けてみえる。もちろん、ごくごく一部だけのことではあるのだが、『パシフィック・リム』への興奮を表明する言説のうちに、私はそういった匂いを嗅ぐことがときにあった。正直なところ、私自身の興奮のうちにもその成分があったようにも思う。それを悪としてあげつらいたいわけではないのだが、ちょっと切ない。

『パシフィック・リム』の評価

 一言で表現するならば、素晴らしくよくできたB級スーパーロボット映画である。よくできてはいるが、どこまで行ってもB級止まり。たとえば、100点を満点として、加点法で採点すれば100点になるだろう。いつか実写で見たかったこのシーンをやってくれたので5点を加点、あのシーンをやってくれたのでさらに5点を加点、といった具合にやっていけば、簡単に100点に到達する、というわけだ。その意味で、「素晴らしくよくできている」となる。しかし、逆に、減点法で採点すれば70点くらいになってしまうだろう。さすがにお話の背骨の組みかたが雑すぎるのである。というわけで、素晴らしくよくできてはいるが、B級はB級と言わざるをえないのである。

 ところで、B級「スーパーロボット」映画としたところに説明が必要かもしれない。この作品は、怪獣ものとされることが多い。しかし、私は、ジャンルは怪獣ものというよりスーパーロボットものであると考える。怪獣ものは「蹂躙される日常性」が見せたいものの核になるのがお約束なのであるが、この作品は日常性が蹂躙されきってしまったあとから始まっている。それゆえ、怪獣こそ登場するが、お話のジャンルとしては、怪獣ものではない、と私は判定するのである。この点については、下でより詳しく論じたい。

 さて、加点法での良いところ探しはもうすでに多くの人がやっているので、私は、減点したくなったところをいくつか指摘することとしたい。

 一つめ。この作品の肝は、ロボットの操縦方法にある。二人のパイロットが精神的に同調しないと操縦できない、という設定は実にユニークなものであるし、さまざまなところで話を動かす鍵にもなっている。しかし、そうであるならば、この作品はもっときちんと「他者の精神とむきだしに繋がるとはなんなのか」ということについて文学的あるいは哲学的に突っ込んで考えるべきだった。とくによくないのは、主人公機のジプシー・デンジャーだけではなく、ストライカー・エウレカでもパイロットのパートナー変更をやってしまった、それもごくあっさりとやってしまったことである。それで描きたかったことはわかるにはわかるのだが、やはりあれはまずかったのではないか。物語の軸だったはずの主人公のパートナー変更という事件の希少性がすっかりぼやけてしまった。結局のところ、この作品におけるドリフトあるいはニューラル・ハンドシェイクは、ロボットを動かすために必要な、たんに難易度が高い共同作業、これ以上でも以下でもなくなってしまった。それではお話として駄目である。

 二つめ。すでに述べたように、ドリフトというロボットの操縦方式は実に興味深い発想であると評価しうるのであるが、他方でその副作用も出てしまっている。パイロットどうしの関係性が強調されるあまり、パイロットとロボットの絆がどうにも薄くなってしまったのである。とくにラストあたりには私はかなり不満がある。最後の最後で、主人公はあっさりと愛機を捨てすぎである。主人公がヒロインを先に脱出させて単独で機体に残ったときに、私は「ジプシー・デンジャー、これまでありがとう、おまえ一人を逝かせはしない、一緒に地獄で兄貴と会おう」という言葉を期待した。しかしその期待は裏切られた。あそこまであっさりポイするとは思わなかった。あれはスーパーロボットものでは「なし」である。まとめれば、ドリフトを、「二人のパイロットを繋げる」ということではなく、「二人のパイロットと一機のロボットを繋げる」ということとしてもっとちゃんと描くべきであった、という感じになろうか。

 他にも粗はいろいろあるが、私が本気で駄目出ししたくなったのはこの二点である。

『パシフィック・リム』における曇天について

 最後に、よく指摘されている欠点に触れておきたい。この作品、全編通して画面が暗く、せっかくのアクションがかなり見づらい。これは、物語がずっと曇天あるいは雨天のもとで進行することに一因がある。これには私も閉口した。これは明らかに欠点である。

 ただし、それでやりたかったことはよくわかる。怪獣の脅威にさらされ滅びに瀕した状況を、悪天候に閉ざされた世界に対応させて、ラストシーンで世界の救済とともに雲が晴れて日が射す、というベタをやりたかったのだろう。そのために、戦闘はすべて薄暗いなかでのものになってしまったというわけだ。このベタのよさはわかるのだが、せめてもうちょっと上手くやってほしかった。

 さて、ここで注目したいのは、この天候にかんするベタ表現が示唆するところのものである。

 比較のために、別作品を参照してみよう。怪獣と天候の関係について、異なる論理を展開しているのが、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』である。この作品のゴジラは、まずは海中でチラリと姿を見せ、ついで悪天候のもとで恐ろしい傷跡を残して去る。しかし、ここまではまだ導入部にすぎない。海中や悪天候は、いわば非日常であって、そこに怪獣が登場しても、いまだその脅威は現実感を欠いたままにとどまっている。この映画の本番は、ゴジラがさんさんと太陽がふりそそぐなかに登場してからである。いつもの晴れた真っ昼間という日常性のど真ん中にゴジラが出現し、これをコナミジンに打ち砕いていく。この日常性の破壊にこそ、『GMK』の醍醐味がある。怪獣の暴威の非日常性を際立たせるためには、怪獣は逆に日常性のもとで、つまりは、晴天のもとで暴れなければならないのである。

 簡単に言えば以下のようになろうか。『パシフィック・リム』の曇天は、いますでに日常が破壊されきってしまっていることを表現している。それにたいして、『GMK』の晴天は、いままさに破壊されつつあるものが日常であることを表現している。

 さて、先に私は、『パシフィック・リム』は怪獣ものとしてジャンルづけすべきではない、と主張しておいた。その根拠の一つがこここにある。怪獣を日常のなかに放りこむ『GMK』は、典型的な怪獣ものである。しかし、『パシフィック・リム』はそうしていない。『パシフィック・リム』が選択したベタ表現は、この作品が怪獣ものジャンルの基本形式から外れていることを示唆している。それゆえ、私はこの作品はロボットものの文法から読みといたほうがよいのではないか、と考えるのである。

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