東吾・るい編


東吾さんはいつ行方不明に?
明治編がスタートし、麻生家の事件や源三郎の事件の真相が少しずつ明らかになりましたが、麻生家の事件の後、間なしに麻太郎がイギリス留学へ出発しています。
明治編スタートのオール讀物2007年1月号で「麻太郎がこの国を発って、イギリスへ留学する時、その人は行方不明であった」とあります。しかし2008年1月に発売された単行本では「イギリスへ留学してから、その人は行方不明になった」と変更されています。
麻太郎がイギリスへ出発したのは慶応4年の6月3日(「天が泣く」)。東吾が乗った美加保丸が江戸湾を出発したのは同じ年の8月19日。美加保丸は実在した帆船で、出発から4日後の23日、嵐のため房総沖で破船沈没(「桜十字の紋章」)。
ただ、もし東吾さんが麻太郎の留学時はまだ行方不明になっていなかったのなら、なぜ麻生家や源三郎の事件の真相究明にあたらなかったのか。その記述がないのがとても不自然に感じます。果して東吾はいつ、どこで行方不明になったのでしょう。

るいさんの贔屓は豊島屋か四方か?
お雛様と言えば白酒、「筆屋の女房」でるいさんの贔屓は
「お雛様の時のお白酒は、鎌倉河岸の豊島屋か、芝の四方かっていうくらいで、どっちかっていうと四方のほうは甘口で、豊島屋は辛口なんです。うちじゃ、お嬢さんが四方のほうがお好きだから、豊島屋へは行きませんが・・・・・・」
と四方の方がお気に入りのようですが、一方「秘曲」では
その日、東吾が本所の麻生家へ行ったのは、るいが、雛祭のための白酒を豊島屋から買い、一樽を麻生家へ届けてくれと頼んだからである。
とあります。麻生家に届ける白酒をわざわざ豊島屋から買い求めているのは豊島屋の方がお気に入り?一体るいさんの贔屓はいつの間に豊島屋から四方に変ったのでしょう。
この謎ははなはなさんよりお知らせ頂きました。

いつの間に梅の間松の間に変る?
与兵衛たちの部屋は、単行本ではずっと「梅の間」なんですが、新装版では落葉焚きのところで「松の間」に変っているんです。なんで?
最初は具合が悪そうなので手頃な(部屋がこじんまりしてるとか)「梅の間」に寝かせて、良くなってから「松の間」に移動したのかと思ったんです。でも読み直すと到着した時は普通の様子だったので、やっぱり「なんでかな」と思ったわけで。で、今気づいたけど、これってご本家の「謎」に入れてもらえるかな〜なんてちょっとワクワクしてます。(ここでアピール?)
この謎はこでまりさんのはいくりんぐ2008年2月のお題「福の湯」でこでまり宗匠がお書きでした。
はい、こでまり宗匠早速「謎」に入れさせて頂きます!「かわせみ」の間取りの謎って多い気がしてたのですがここにはまだ載っていなかったですね(笑)
「梅の間」と「松の間」は「七夕の客」では二階の向い合わせの部屋となっていますし、「松の間」は105話の「時雨降る夜」以来登場していない幻の部屋なので・・・。
調べてみたら単行本、文庫ともずっと梅の間ですが、文庫新装版だと落葉焚きのシーン以後松の間に変ってますね。信濃屋のご夫婦、途中で部屋を変えてもらったのでしょうか?謎ですね〜(管理人)


庄司家の同心の株
当初、おるい様の父上が亡くなられた時、同心の株をお上に返したと有りましたが、その後、親類に譲ったと記載があった記憶が有ります。出典は覚えていません。

かわせみは、次の間付きの部屋が有ったり、藤棚が見える部屋が有ったりで、更に、二人が祝言をあげた際、増築(確か、風呂も)しているので、そんなに狭い敷地ではないように思えます。従って、開業の資金は結構掛かったと思いますので、株を売ったと考える方が、わかり易いと思いますが、管理人様はどのようにお考えでしょう。
親戚に譲ったとすると、その親戚を同じ八丁堀の住人として登場させねばならず、八丁堀にはお兄様や畝様がお住まいなのですから、煩雑になり、物語の進行上、難しいのかもしれません。それでなくても登場人物が入り乱れる「捕り物」ですので、るいの周りの人間関係は極力、シンプルに、恒常的にしておいた方が、「捕り物」を、引き立てられるのかもしれません。そういう人間構成が、かわせみの息の長さ(人気の高さ)のようにも思えます。
こちらは風風さんよりお知らせ頂きました。
庄司家の同心の株ですが、まず登場したのが第6話の「師走の客」で「与力の株を返して、庄司の家をたたみ」とあります。この頃は庄司家はまだ同心ではなく与力となっていました。
その後の記載では35話の「奥女中の死」でも「同心の株をお上に返上して」とあります。そして47話の「春色大川端」では「家を親類に継がせて八丁堀を出て」となっていました。
また172話の「虹のおもかげ」の中で「同心の株が金で売買される時代」とありました。

るいさんが同心の株をどうしたのか、これもまた謎の一つですね。ただるいさんの父上は不正を正そうとしたために失脚させられ失意の中に世を去ったという経緯があるため、るいさんの気性として同心の株を売買したというよりお上に返上したような気がします。あるいは聟をとって同心を継ぐことを勧めた親類にゆずったか、どちらにしても同心株をお金で売買したとは思いにくいのですが・・・(管理人)

るいさんの年齢
「捨てられた娘」の中で東吾さんが『金の草鞋を履いても丑年の女房を...』という台詞があったのと「公孫樹の黄ばむ頃」でるいさんが37年前5歳の頃という台詞を言ってるのから、生まれ年を逆算してみました。

先ず干支の丑年を遡ると1800年代は ’89 ’77 ’65 ’53 ’41 ’29 ’17となります。
次に「公孫樹の黄ばむ頃」で満42歳ですから明治にかからない数字を上記から探しますと1817年(文化14年の丑年)ということが判ります。(私は天保の生まれだと思っていたのですが、そうすると最終話は明治に入ってしまうのです)

最終話は安政(1854/11/27〜1860/3/18)の末ということになるのではと考えられます。るいさん51歳で明治(1968/9/8改元)を迎えることとなります。計算合ってますかしら?
こちらは春霞さんよりお知らせ頂きました。
「るいさんの年齢」については、春霞さんより5月に「浮かれ黄蝶」を読んですぐお送り頂いたのですが、単行本が出てすぐということもあって、管理人が暫くお預かりしていました。明治編を前に、春霞さんの考察を読んで、そうか、るいさんは51歳で維新を迎えたのか、と不思議な感慨を覚えました。思えばるいさんが25歳、新装版では22歳と若返っていましたが・・・それから長い年月を一緒に過ごして来たように思います。苦しい恋をしていた頃、想い想われた東吾さんと添い遂げ千春ちゃんが生まれ、子供達の成長を見、そして今度は明治という新しい時を迎えようとしている。51歳のるいさんを想像することはなかなか難しいものがありますが、素敵な女性であったことは間違いないですね。(管理人)

東吾さんはいつから代稽古をしていた?
読み続けているうちに「東吾」さんが道場の代稽古に出かけるシーンをよく見かけました。八丁堀の道場と狸穴の道場とを月の半分づつ出かけているのですが、その半分づつ、前半はどっち?後半は?と探していましたところ、「秋色佃島」(文庫)の中に
 通之進様  「方月館へはいつまいる」
 東吾さん  「月の半ばからです」  (P189)

とありましたので、お稽古の日にちが月によって違うという事はないと思いますので、これは解決致しました。
前半は八丁堀の道場、後半が狸穴の道場ではないかと思います。
では、どちらの方の代稽古を先に引き受けたのだろうかとまた思ってしまいました。
狸穴の道場の事が最初に出てくるのは、「卯の花匂う」の中、
『月の中、(中略)狸穴の道場へ代稽古に出かけて(以下略)』
『その夫婦に気がついたのは昨年の夏頃(以下略)』 (P79)
とありました。
「初春の客」で東吾さんは、24才ですから、この歳を基準にして、「卯の花匂う」でも24才、昨年には狸穴に来ていますから23才の時には狸穴に代稽古に来ていることが分かりました。

ところが、「水郷から来た女」では、『狸穴の道場の代稽古に通いはじめて3年(以下略)』 (P139)
『他人でなくなって4年(以下略)』 (P132)
とありますので、他人でなくなった時の東吾さんは23才ですから「水郷から来た女」では27才であり、狸穴の道場に代稽古に
通うようになったのは、3年前の24才からとなります。

またまた不思議な事に、「川のほとり」では『東吾、25才』  (P74) とあり、
『数年前から月の半分は狸穴の道場に代稽古に通って』 (P74)とあります。
24才ならば昨年ですし、数年前が24才とも思えません。多分、数年前ですから20才頃からと思います。
「卯の花匂う」の23才はいいのですが…。

次に八丁堀へはいつの頃からと思ったのですが、八丁堀の道場の事が出て来るのは、「江戸の子守唄」の
『(略)八丁堀の道場へ通ったり(以下略)』 (P21)が最初です。
順番どおりに数えると「江戸の子守唄」の東吾さんは25才ですので、25才の頃には八丁堀の道場には通っていた事がわかりますが、その後八丁堀の代稽古の事は出てまいりますが、幾つの頃からは分かりませんでした。

ややこしくて、計算が間違っているのかも知れません。

この謎は蛍さんよりお知らせ頂きました。
東吾さんがいつから代稽古に行っていたのか、当然子供の頃から八丁堀の道場に通っていましたよね。そして腕が認められて代稽古をまかせられる。更に師である斎藤弥九郎が口をきいて方月館の代稽古に通うようになった。それが23歳頃。となると八丁堀の代稽古は20ぐらいからってことになるんでしょうか?

父上が亡くなった時るいさんは幾つ?
カビの生えた謎ですが、気になったのでお訊ねがてら教えて下さい。「るい」さんの父上様が亡くなられた時の「るい」さんの年齢の事です。
「初春の客」で「るい」さんは25歳となっています。「二年前まで八丁堀で鬼与力と言われた父親の娘だった」とありますが、この時に亡くなったのでしょうか。そうなら「るい」さんが23歳の時のはずです。ところが、「かくれんぼ」の中「福の湯」で「お寿」さんとの会話で「るい」さんは父は自分が 16歳の時に亡くなったと言っています。昨日本屋さんで文庫を調べましたらこちらでは18歳となっていました。
文庫と単行本とで違う事はよくありますが、単行本で違うとは、私の理解力が乏しいのでしょうか。

この謎は蛍さんよりお知らせ頂きました。
「かわせみ」の登場人物達の年齢は本当に謎ですね。下の方に母親が歿った時のるいさんの年齢もまたいろいろありますし、こればかりは永遠の謎というところでしょうか(管理人)

「るいの干支、年は?」
「夜鴉おきん」に入っている、「酉の市の殺人」の始まりの方に「今年、は私もお参りに行って来ようかしら」とるいがいい出したのは、来年がるいの生まれ年と同じ干支で、自分と同じ干支の年はあまりいいことがないという俗信を、少しばかり気にしていたためである。というくだりがありますが、るいさんは24歳になる前の23歳?それとも35歳?不思議です。まさか35歳ということはないですよね?でも、23歳というのは・・・・かわせみに多い謎の一つなのでしょうか。
この謎はゆっこさんよりお知らせ頂きました。

 
「かわせみ」開業は何年前?
「七夕の客」(御宿かわせみ・上)で、「この夏でちょうど五年目になるんです」とるいが嬉しそうに東吾に告げたようにるいが父の急死後八丁堀を出て「かわせみ」を開業して無事に五年目を迎えたとある。ところが、それより4刊後の「春色大川端」(酸漿は殺しの口笛)の中では、「身すぎ世すぎのために開業した素人商売だが、三年経った今は・・・」とある。あれれ、もう5年経ってたんじゃなかったっけ?
 

東吾の煙草
文庫(十六)「八丁堀の湯屋」の中にある「煙草屋小町」(最後に、東吾がるいにお灸をすえられている図を想像すると笑いがこみ上げてくる話ですね。Shikataさんがお気に入りにあげられているのに私も賛成です。)の書き出しは、「神林東吾は煙草を吸わない。」となっております。「勧められて一服つけることもあるのだが、わざわざ買ってまで喫みたいという気はなく、従って自分用の煙管も持っていない。」ので、すべて買ってきた煙草は嘉助にあげるという話です。その後に、文庫(一)「御宿かわせみ」にもどって、読み始めましたら、「花冷え」の中で、るいが女の泊まり客を断った理由を東吾に答えながら、「馴れない手つきで煙管に煙草をつめて、るいが差し出した。商売女のように器用に吸いつけるなぞという真似はとても出来ない。」とあるではありませんか。
このるいの初々しい動作を表現する名文に思わず心ひかれる一方、頭の方では、東吾はいつ煙草をやめたんだろうというつまらない疑問が浮かんだのです。実は、駆け出しファンなので、その間の話を全部読んでいないのですが、禁煙に関する話があったのでしょうか。私の考えでは、おそらく、平岩弓枝さんも私同様に煙草がお嫌いで、長助らが「ぼんのくぼに手をやる」のとは違って、この動作は他にあまり使われていないのではないかと推察いたします。あまり好きでもない煙草も、かわせみに通い始めた当時の若い東吾は、姉さん女房に対する、男の小道具として、ごく短期間使っていたということでしょうか。嫌煙家の私としては、何しろ、東吾が煙草をやめてくれて良かったです。
この謎はShimizuさんよりお知らせ頂きました。
煙草盆東吾さんが煙草を吸う場面は小説の中にはあまり出てきませんね。ただし、NHK版かわせみではよく煙草を吸う場面が出てきました。夜、寝る前の一服、朝の一服と何かにつけて吸っていたような。
るいさんも東吾さんの来ない寂しい夜に煙管を磨いている場面がありました。
(管理人)


母親が亡くなった時るいさんは幾つ?
「浮世小路の女」(恋文心中)の中では、東吾5歳の時がるいの母の亡くなった年、となっています。と、いうことはるいは6歳のはずですよね。ところが「恋娘」(白萩屋敷の月)では、るいは12歳で母と死別したとはっきり書いてあるのです。???一体おるいさんがいくつの時に亡くなったんでしょう??


一体二人は何歳なの?
るいは東吾より1つ年上。2人は幼なじみで、一緒に凧上げをしたり、東吾はるいを守っていじめっ子とけんかをしたり。子供時代の想い出は、「幼なじみ」の中でも2人で語られるがそれでは一体今の2人は何歳くらい?
かわせみの第1話に2人が他人でなくなって1年。今年るいは25になったはずだから・・とある。ということは2人が結ばれたのはるいが24、東吾が23の時。るいは町屋暮らしを始めるようになって少しふっくらし、快活になってむしろ若くなったようである。
物語はあれからずいぶん長い年月続いているが、相変わらず2人は私たち読者の中では若いまま。
だが、まず源三郎が結婚(源三郎祝言)し、続いて宗太郎(雪の夜ばなし)、そしてついに東吾とるいが結ばれる(祝言)。やがて畝家には源太郎(源太郎誕生)が、麻生には花世(麻生家の正月)が、そして待ちにまった東吾とるいの子「千春」(立春大吉)が誕生。
作者も書いているように「青春が確実に遠くなった」のを実感するのであった。
この謎についてZANさんより以下のようなメールを頂きました(メールより抜粋)
文中に出てまいります記述を基にして、正月を迎えるごとに年齢を重ねるとして「祝言」までの全タイトルの年表を作ってみたのですが、よく年齢が戻ってしまうためにどうしても確証が持てずもどかしい気がいたします。
せめて「祝言」の時の二人の年齢だけでもはっきりさせようと思いまして、以下のように思案してみました。
「祝言」の近くの話で年齢の手掛かりとなります話に「岸和田の姫」があります。それによりますと、老師のもとを訪ねるのは二年半ぶり、つまり「師走の客」より二年半が経っているということになります。
「師走の客」当時のおるい様の年齢が25歳であり、東吾殿と畝殿が老師のもとを訪ねたのが秋のことですので、28歳であると考えられます。次に「春の寺」におきまして「二月のなかば」という語がございますので29歳になったと考えます。そして更に、「麻生家の正月」でまた正月がまいりまして、この年に二人が祝言をあげたことを考えますと、おるい様30歳、東吾殿29歳の時であったと考えられます。一応文中の年齢は数え年であると考えております。


東吾とるいが他人でなくなったのは?
「江戸の子守歌」には、2年前の新年に友人と深川で遊んだ帰り、酔って「かわせみ」に行ったのが最初とある。しかしその後の「七夕の客」では、るいが「かわせみ」を開業した半年後の正月、兄の公務出張について長崎に行っていた東吾が帰ってきて、るいのことを聞き「かわせみ」にとんで来た夜に他人でなくなったとある。
どちらにしても二人が他人でなくなったのは正月のこと。


東吾に隠し子?
事実は不明だか、どうも東吾には6つになる子供がいるらしい。といってもはっきり東吾の子と名乗った訳でもなく、真実を知るのは母親のみ。
天野宗太郎と麻生七重の婚礼の夜、思わぬことから訳ありの娘と契り、のちにその娘が七重の友人の清水琴江と知ったが、既に柳河藩士大村主馬に嫁いだ後であった。
3年後琴江には3歳になる麻太郎という男子がいることを知り、東吾はひょっとして麻太郎が自分の子ではないかと思い至る(菜の花月夜)。
どうにも思い悩んだ東吾は宗太郎にだけ事実を打明け、麻太郎が自分の子ではないかと心の内を明かす。そして更に3年。東吾は偶然出会った蝉取りの少年に麻太郎の面影を重ねていた。そしてその少年こそ麻太郎本人と分かり、東吾は何としても自分の手元に引き取りたいと考える(虹のおもかげ)。
宗太郎を通して今は未亡人となった大村琴江に引き取りたい旨申し入れるが、麻太郎は大村殿の子、大村殿亡き後は麻太郎が唯一心の支え。しかし、いつか時が来たら麻太郎の力になって頂きたい」とはっきり断られる。結局麻太郎が東吾の子であるかは謎のままであるが、るいの知らない東吾の秘密である。
なお、その後母を失った大村麻太郎は神林家に引き取られ通之進・香苗夫婦の養子となった。


東吾は誰と長崎に?
「長崎から来た女」で東吾は麻生源右衛門について長崎に行っていたとある。
しかし、当初は兄通之進について長崎に行っていたはず。一体東吾は誰の供をして長崎に行ったのでしょう。
東吾が長崎に行っている間にるいの父がなくなり、るいは東吾に相談も出来ぬまま武家を捨てることにしたのである。


東吾さんって案外遊んでる?
東吾は子供の頃からるいが好きで、「女房貰うならるいしかない」と一途に思う真面目な男の印象だが・・
るいと他人になる前の東吾は随分遊んでいたらしい。「鴉を飼う女」の中に、東吾が吉原の丁字屋の女主人よしのを訪ねるところがある。いっときよしのと話すのが楽しくて郭がよいをしたという。
作者も「東吾は案外遊んでる」と書いていた。確かにるいと他人でなくなってからも「鴉〜」で、下手人と目星をつけた男のことを探るため、その男の馴染みだった花魁と一夜をともにしている。結局その花魁は殺されて、東吾はるいに内緒の墓を建てたのである。「白萩屋敷の月」では、兄通之進を想う香月と兄の身代わりと知りながら狂おしい一夜をもっている。また、宗太郎と七重の婚礼の夜、身投げしようとしていた女を助け、成り行きとはいえその女と契り、麻太郎という子まで生まれていた。こう書いていると東吾は随分遊んでる。るいが知らないからいいようなものの、知っていたら大変なことに。何しろるいは焼き餅やき、一悶着、二悶着じゃすまなかったかも知れない。お吉や嘉助も心配していたが、東吾はもてすぎる、優しすぎる。どうも女の方が放っておかないらしい。そんなところがるいにしてみれば心配なところであるのだが。とはいえ東吾にとって恋女房はるい唯一人、子供の頃から好きで惚れきっている。るいはもちろん東吾一筋。これからもるいを泣かせるようなことだけはしないでほしい。だが、麻太郎のことを思うと、いつかるいに分かる日が来てしまうのだろうか・・と気懸かりである。


るいの父は与力か同心か?
  かわせみの第1話「花冷え」の中に、庄司家は与力の家柄とある。しかしその後は同心と出ているが、これは何故でしょう?神林家は与力の中でも筆頭与力の家柄。
るいの父源右衛門は貨幣改鋳に係わる不正の探索を行っていたが、反対に不正を働いていた幕閣に計られ、失意のうちに亡くなった。
るいはその父の憤りを少しでも分かって欲しいと同心の株を御上にお返しして武家を離れた。
父が亡くなった時普通なら養子を迎えるなりして同心職を継ぐのだが、もう既に心に東吾の存在があったので、町屋暮らしを始めた。
るいとしては東吾が兄の後を継いで与力になった場合、不遇のうちに世を去った父親の娘を嫁に貰っては東吾の出世にもさわると考えたのである。そんなこともあって、東吾が兄と供に長崎に行っている間に八丁堀を去った。
 

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