大相模久伊豆神社
久伊豆神社は武蔵七党の一つ「野与党」の氏神とされ、大相模次郎能高が本拠地とした大相模郷にも『久伊豆神社』が勧請されている。境内入口には樹齢数百年と言われている直径1.5メートルにも及ぶ銀杏の大木があり、太いしめ縄が張られている。また、境内には文化4年(1807)銘の御手洗石などがある。
当社は明治41年大相模村の稲荷社、八幡社、天神社、神明社などを合祀し、現在大己貴命、菅原道真、天照大神、与田別命など七柱が祭神として祀られているが、元の主祭神は大己貴神(=大国主命)、出雲の神様です。
久伊豆神社は武蔵国の元荒川と綾瀬川にはさまれた地帯にのみ数多く分布し、野与党の分布とほぼ一致することが、西角井正慶『古代祭祀と文学』によって指摘され、「新編 埼玉県史 通史編2」には『鷺宮町史』による鷲宮神社を加えた、氷川神社・久伊豆神社・香取神社・鷲(鷲宮)神社の分布図が所載されている。この部分図に著名な騎西(きさい)町の玉敷神社を含む久伊豆7社を赤記号で強調した図を示す。
@ 久伊豆神社等4社の分布図
また、『図説 埼玉県の歴史: 小野文雄編 河出書房新社』所載の「初期武蔵武士分布図(治承4(1180)年〜生治(1199)元年)」に以下の追記を行ったものを示す。 この時期の私市党の諸氏(久下、河原、熊谷)、野与党の諸氏(道智、多賀谷、高柳、鬼窪)および野与党と同族とされる村山党の諸氏(村山、山口、金子、仙波)の本拠地が示されており、岩槻、大相模、越谷は未開拓だったと推定できる。
『図説 埼玉県の歴史』所載の A 初期武蔵武士分布図
元荒川流域に数多く所在する久伊豆神社の総本社は『騎西(きさい)町の玉敷神社』と推定されている。埼玉郡の西部の意埼西(きさい)を同発音の私市や騎西の文字が当てられたため、玉敷神社(=久伊豆大明神)が、私市党の氏神であるとの説が、事実が検証されないまま諸文献に記載されることが見受けられるが誤まりと思われる。
玉敷神社由緒:第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿(出雲族)の創建と伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年(927)に公布された律令の施行細則延喜式にその名を記す千有余年の歴史をもつ私市党や野与党が登場する以前からの古社である。主祭神は「久伊豆大明神(=大己貴命)」であり、騎西町の玉敷神社は江戸以前は久伊豆神社と呼ばれていた。
私市氏の系図では『鷲(または鷲宮)神社』を氏神としており、私市党を代表する(久下、河原、熊谷)各氏の居住地は分布図Aにより、玉敷き神社より北西寄りの鷲神社の分布図に近いこと、および現在の騎西町には私市党一族ゆかりの地名は見当たらず、野与党の一族(道智、多賀谷、高柳)の地名が現存すること、および、玉敷神社の近傍に開拓・移住した野与党が、両親の奉った氷川神社(祭神 出雲三神)から玉敷神社(祭神 大己貴命)のに氏神変更に全く抵抗がなかったと思われる。
理由:野与党祖とされる野与荘司「野与基永」の母は、氷川神社の社務司職家も兼ねた武蔵国安立郡司「武蔵武芝」の孫娘であり、野与荘が現在の「与野(さいたま市)」に在って、氷川神社を奉っていたと推定できるためである(氷川神社文書による系図および西角井氏系図に記載されている)。
氷川神社の祭神は大己貴命および両親神である(須佐之男命・稲田姫命)の3柱の出雲系であり、(埼西郡騎西)の玉敷神社は単独祭神「久伊豆大明神(=大己貴命)」である。
野与党の子孫が移住先に玉敷神社の祭神「久伊豆大明神(=大己貴命)」を勧請する際に、玉敷神社の名を用いずに「久伊豆大明神」社または「久伊豆神社(=大己貴命)」の名を用いることが定例となり、結果として先の分布図@になったと推定されるためである。
「久伊豆大明神」の名の由来:祭神の大己貴命(=大国主命)は出雲大社の祭神で、「出 雲」を万葉仮名で書くと「伊豆 久毛」となる。創建当時より(出雲族:多治比真人三宅麿)が故郷を久しみ、久(ひさ)しい出雲(いずも)の大神と呼んだのが転化して「ひさ いず (=久伊豆) 大明神」と呼ぶようになったと考えるのが自然です。
「野与荘」の所在地は明らかでないが、野与と与野は同じ文字で転化し易いこと、与野が武蔵国足立郡に含まれること、武蔵国足立郡与野郷下落合に、遠い昔から氷川大明神、あるいは笠守さまとよばれ、村人たちから尊崇され、親しまれていた鎮守があり、「野与」=「与野」と考えて自然です。
更に先の分布図Aに示すように、野与党祖と村山党祖が同じ「武蔵武芝」の孫娘より生れた兄弟で、村山党が与野から西方に展開していったことが自然に見えてくる。
平成十六年七月二十九日 晴耕雨読軒(管理人)