「三つ鱗」紋については、『家紋大図鑑』(丹羽基二――秋田書店・昭和四十六年刊)に、この模様が家紋として大いに有名になったのは北条氏が三つ鱗を専用したからである。
「鎌倉のはじめ、北条時政が江島に参籠して祈願をする
と、三、七、二十一日目の夜美女が忽然として現れ、やが
て大蛇と変じて海中に没した。気がつくと、あとに大鱗を
三つ落としている。時政は願いがかなったと喜び、三つ鱗
をもって家紋とした」と『太平記』にある。
とある。その北条氏の家紋は「北条鱗」とも呼ばれて、正三角形の三つ鱗をやや底辺を長くした二等辺三角形のものだが、実際にはいわゆる三つ鱗も併用されていたようである。
そこで、当家――大相模(=中村)家丸に三つ鱗紋の由緒をたどってみると、十二世紀末、当家初代・大相模次郎能高が大相模郷に定住した時点からの北条氏との武門に必然の結びつきが浮かび上がってくる。同者の弟であったと推測される箕勾〇郎政高の息=師政が、鎌倉幕府の十六代にも及んだ執権政治確立に結びつく勝ち戦(いくさ)――承久の乱(承元三(1221)年)における父(=戦死)の勲功として武蔵国多磨野荒地を拝領したと『新編 埼玉県史・別編4――年表・系図』にあることからしても、野与党――箕勾一族が(二代執権北条)義時追討の院旨を下した後鳥羽上皇側に就くとは考えがたい事実が検証されるからである。ちなみに、丸に三つ鱗のように、一般に丸で囲んだ紋所は、主家に従う立場の、主家に対する格一つの謙譲を意味するものと言われている。
なお、本紋は、袱紗を仕立て直したものであるが、その制作年代は、それを特に必要としたと思われる中村有道軒一、二世(当家二十三、二十四代)当時と推定されることから、江戸時代末期とみて差し支えなかろう。制作者は<不詳>である。