男もすなる日記といふものを
男性日記と女性日記に関するコメント
それの年

戌の刻に門出す
 貫之一行が国司の館を出立したのは十二月二十一日の戌の刻であった。「戌の刻」とは二十四時間制に換算すると午後九時にあたる。平安時代の時間意識からすれば十分に夜である。なにゆえにこうした夜に出立することになったのか。仮に出立の時間そのものがさほど問題をもたないのであれば、なぜ「戌の刻」と書く必要があったのか。出立時刻が戌の刻にならざるを得なかった理由はどこかにあったはずである。
 時刻の遅さについては、確かに萩谷全注釈のいうように「方違えのために住居を出て、出発点を移すだけの門出もあった」わけであるから、あまり問題にするにおよばないかもしれない。しかし、あえて「戌の刻」と明記している点についてはどうであろうか。たとえ、それが方違えのためであっても「戌の刻」あたりに出立するのが当たり前であったとするなら、おそらくは明記しないに違いない。船出のときでさえ、「廿七日。大津より浦戸を指して漕ぎ出づ」とあるだけなのである。そうすると、やはり普通は「戌の刻」などには出立しないが、このときは「戌の刻」になったという意識があるように思われる。そこで、問題になるのがその意識の中身であるが、萩谷全注釈には「貫之は元来理知的な性格の人物で、あまり縁起をかつぐ方ではなかったし、暦註を参照しても、特に戒むべき条件もないから、単に衆人の環視をさけての夜陰の門出と解釈すべきであろう」という指摘もある。この説には基本的に従いたいが、「衆人の環視をさけての夜陰の門出」がなぜ必要だったかということが問題として残る。
 さほど強い根拠とはいえないのだが、こうは考えられないだろうか。あえて「戌の刻」と書いたのは、人目を避けてという意味を強調しているのであり、このあとの餞別の場面にもまま見受けられる一種の衒いではなかったという気がするのである。つまり、にぎにぎしく公館を去ったのではなく、人目を忍んで質素に立ち去ったにもかかわらず、その後、私を慕う人々が別れを惜しんでくれた、とでもいった具合に、おのれの人徳をひけらかそうとしているかにも読めるのであるが、はたしてどうであろう。
書きつく
「書き継ぐ」の可能性は……(超弩級僻案!!)
 古文の文章には濁音記号は使われていない。であるとすれば、「かきつく」に対しては一般に解されるように「書き付く」以外にも「書き継ぐ」と解しうる可能性はある。前もって結論を述べておくと、通常解されるところの「書き付く」で問題はない。しかし、あえて疑義を呈してみたい。
 まず「書き継ぐ」と解した場合、考え得る意味はすでにあるものに書き続ける、あとに続けて書く、といったところであろう。そうした意味を想定した場合、興味深いのは朧化表現に見られる物語意識である。これがあたかもその日その日一日ごとに書き連ねられていった日記を装うという意識が働いていたらどうだろう。文章の最初に「書き続けたものだ」と宣言することの意義は小さいものではあるまい。
 一応、上に述べたところが「書き継ぐ」案の根拠になるところではあるが、言うまでもなく仮定の上に仮定を組み立てるという論法であり、妥当性を欠く。さらに「書き継ぐ」案の決定的な弱点は語彙史的に「書き継ぐ」という言葉がはなはだ心許ない点である。語法的には「書き+継ぐ」という複合は成り立ちうるとは思うが、具体的な用例が未だ見つけ得ていない。従来より「書き付く」と解された言葉を虱潰しに再検討すれば、一つ二つは見つかるかもしれないが、現時点での見通しとしては悲観的にならざるを得ない。
 以上のことより、土佐日記の「かきつく」は、「書き継ぐ」と解釈すれば興味深いのだが、「書き付く」のほうが正当だろう。
四年五年
国司の任期は四年である。それを四五年とするのは例の朧化表現とみることも可能だが、本来は四年のところが五年にまで延びてしまったという苦渋の面もちを読みとることもできる。
 というには、貫之の任期は延長八年(930)年一月からの四年であった。そして後任の島田公鑒が任命されたのがその承平二年(934)四月である。これだけなら形通りの任期四年ということになるのだが、当の島田公鑒の赴任は大きく遅れて貫之は土佐の国に足止めされた形になっている。萩谷朴氏によると、「年内に帰京して、土佐守在勤中の業績を報告すれば、翌年正月の叙位には、従五位上進級のことが実現するであろうとの希望的観測を抱いていたに違いない」(影印本『土左日記』解題)という。公鑒の遅れによってその希望は砕かれ、さらにのちのち繰り返し触れられる愛娘の死がその秋に貫之を見舞っているのである。
 本来であれば京に帰ることができていた、あるいは京に帰っていればこんなことにはならなかったという思いが、国司任期の四年、いや五年近くにまでなってしまった、という形で吐露されているのではないだろうか。
解由
 「解由」とは、解由状のことで諸司国司の交替に際して、新任者が事務引継完了の証明として前任者に付する文書のこと。
 解由の語は『続日本紀』が初出で、『延喜式』にもその詳細な規定が見られる。すなわち前任者は新任国司より受け取る解由状を式部の省と勘解由使に提出することによって、正式に任が解かれる、後任者は前任者が任地に滞留している場合を除き、前任者の解任手続きが完了しないうちは任務に就くことができないというのである。これは国司の交替が各自の恣意的な判断でなされることを防ぐためのもので、前任者は後任者が任地に到着するのを確実に待たなければならないことを意味する規定でもある。
 『土佐日記』では、貫之は「解由など取りて」とあるので、規定通りの引継業務を正式に完了させたということになる。また直前の「例のことどもみなし終えて」も引継業務に関することである。つまり、この一文は貫之が自らの職分を責任もって全うしたことを告げている。これは『土佐日記』がどのような目的で書かれたのかを窺わせる一文でもある。 自らの勤務態度を称揚してみせる姿勢が見て取れる。
船に乗るべき所
土佐の地名参照
船出の場所は二十七日条に「大津」とある。国司の館を出て、大津の近くに宿を求め船出に備えたのであろう。
 即日に船出していないのは、日を選んでの配慮であると思われる。
くらべつる
 「くらぶ」、心を通わせて親しく付き合う、の意。ということで問題もないのだが、ほんの少しこだわってみる。まず、「くらぶ」の基本的な意味は、現代の意味用法と同じで、二つのものを並べて比較する、ということである。これは『岩波古語辞典』に、
クリ(繰)アヘ(合)の約。繰り合わせて、物を比較すること。転じて相手の気持ちと自分の気持ちとを繰り合わせる意、つまり、相手の機嫌をとる意
と説明されるところである。ほとんどの辞書類では、「並べる」「比べる」「優劣をつける」といった本義を指摘した上で、「親しく付き合う」の意味が紹介されている。「親しく付き合う」の意味が指摘されている以上、なにも問題はないのだが、ここで拘りたいのは、その意味の説明に用いられる用例であって、たいていの辞書が『土佐日記』のこの箇所に依拠して、「親しく付き合う」の意味を指摘しているのである。確かにこの箇所は「親しく付き合う」の意味まずありきの立場に立っておけば一切の問題は生じないが、本当のその意味でいいのかと疑い始めると、傍証になる用例がないだけに心許ないところであろう。中にはもう一つの用例として『後撰和歌集』(1215・岩波新大系)の
 女のいと比べがたく侍けるを、相離れにけるが、異人に迎へられぬと聞きて、男のつかはしける
  我がためにおき難かりしはし鷹の人の手に有と聞くはまことか
を挙げるものもあるが、こちらは『岩波古語辞典』では「機嫌を取る」の意味の用例として扱われ、「親しく付き合う」の意味とは区別している。そして「親しく付き合う」については、やはり『土佐日記』のものとなっている。また管見の範囲では先行文献に「くらぶ」=「親しく付き合う」の意味用法が発見できていないことも、疑問を増幅させるところである。
 では「くらぶ」の語義を確定するためには、この『土佐日記』の用例にのみ依拠せねばならないのかとなると、やや事情は異なってくる。それは、『土佐日記』の文章がかな散文草創期のものであり、漢文語彙の影響をおおいに受けていることを考慮する必要があるという点である。つまり、「親しく付き合う」との意味をもつところの、ある漢語があり、それを「くらぶ」とかな表記される日本語に対照させたということである。この点を考えるならば、「比」という漢字、仲間という意味で「比」を用いた語彙(「比倫」など)は少なくないことに思い到る。「比」という漢字にはもちろん「並べる」の意味もあるが、『説文解字』には「其の本義、相親なり」とあり、まさに「親しく付き合う」の意味が核にあったと考えてよい。つまり「くらべつる人々」の「くらぶ」は、漢語の意味が直接的に転用された漢文系の語彙の一つだったのではないかと考えられるのである。
平らかに願立つ
 語法的には「平らかに」が「立つ」に係り、やや不自然の感がある。言葉通りに「平らかに」を「立つ」に掛けて解釈すれば、穏やかな気持ちで祈願した、あたりの意味になるであろうか。しかし、この点は新大系本脚注で指摘されているように、「平らかに」−「立つ」の対比を意識した言語遊技と考えられる。「和泉の国までと願立つ」という表現に「平らかに」という言葉を入れるに当たって、「立つ」に「平らかに」を掛けたところには言葉の連鎖が見て取れるのである。すなわち、「願」と言えば「立つ」もの、「立つ」と言えば「波」、「波」と言えば「平らかに」といった具合にである。とくに注目すべきは、「平らかに」という言葉を用いた点だけに眼目があるのではなく、それを「立つ」と直結させた点である。この二つの言葉を結びつけることによって、その間に介在する「波」を意識させて、「波平らかに」という内容を言外に込めるという言葉遊びと見ていいだろう。このような言語遊技を汲んで改めて解釈をほどこせば、「和泉の国まで無事に帰れるようにと、しかも海路が静かであるようにと、穏やかな気持ちで祈願をした」という形になる。なお、解釈が掛詞的になったが、表現技法としては掛詞に数えることはできない。というのは、掛詞を「同音異義語を利用して一語に二様の意味をもたせ、複雑多様な意味を盛り込む効果をもつ」と定義するならば、この表現は同音異義語の利用ではなく、一語のもつ二様の意味を同時に顕在化させているにすぎないからである。しかし、限られた文字数の中でより豊かな表現をめざす和歌的発想によるものということはできるだろう。
 ちなみに、この「平らかに願立つ」以外にも同日条には、「船路」−「馬の餞」、「潮海」−「あざれあへり」など、対比を意識したと思われる言葉遣いが集中する。
酔ひあきて
 「飽く」の用法の一に、動詞の連用形に付いて「十分に〜する」の意味を表すというものが指摘されており、ここではその使い方と見てよい。ただし、用例的には貧弱で辞書類では軒並み『土佐日記』のこの箇所が引かれている。あるいは、このような補助動詞的用法と見るのではなく、「酔ひ、飽きて」と分かって解釈することもできなくはない。この場合であれば「酔って、満足して」の意味になる。
 この「飽く」と動詞は、平安時代の用法としては圧倒的に否定形の使い方が多くなり、特に「飽かず+動詞」の形が多くなる。たとえば『源氏物語』の用例で示すと、桐壺巻には四例の「飽く」が見られるが「いよいよあかずあはれなるものに思ほして」「あかず口惜しう思さるれば」「長き夜あかずふる涙かな(掛詞)」「うけばりてあかぬことなし」とあって、その三例までが「飽かず+動詞」の形である。もちろん『源氏物語』桐壺巻のみをとって平安期の語法を代表させるわけにはいかないが、一部の傾向と見てもいいだろう。
たたはしき
語釈
守がらにやあらん
「心ある者は恥ぢずになん来ける」にかかる。すなわち、「国の守の人柄がよかったからであろうか、普通であれば見送りにも来ない国人たちが見送りに現れた」と言っているのである。しかも、ご丁寧に、そうした態度は物品で釣ったりするものではないとまで言い添える。やや念の入りすぎでいやらしくも聞こえなくはないが、貫之の治政をことさらに称揚してみせるこうした言い回しが配されているあたりからは、この文章の目的がほの見えたりする。つまり、紀貫之という人間は、任国での政治もきちんと行った立派な人間なのであるという主張、もしくは宣伝として位置づけられているのである。そうしたことを強く主張ないしは宣伝することで、次の任官を求めていると考えて、ほぼ間違いはあるまい。
 またこの日の叙述には、「やぎのやすのり」の来訪についても触れられているが、そのやすのりにしても、実は「国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり」と書かれている。貫之が土佐の国で親しく使っていたわけではない土地の豪族までもが、わざわざ見送りに現れたというあたりにも、やはり同種の意図を見ていいだろう。そもそも、紀貫之が土佐の国を治めたときの事績に関する詳細はわからない。本当に立派なものであったのか、あるいはそうでなかったのかの判断はできないが、少なくとも『土佐日記』に書かれている事柄に基づいて、立派な政治が為されていたと考えるのは誤りであろう。「守がらにやあらん」や「国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり」といった叙述は、事実関係を伝えるものではなく、この文章の指向を示すに過ぎない。穿った見方をするならば、むしろ、いやらしいほどにまで貫之の政治を称揚しているがゆえに、こうした事柄が事実ではなかったのではないかとまで思えてしまう。
国人の心の常として
 『土佐日記』の文章に、意図的な貫之称揚が見られるのは前項で触れたとおりであるが、その一節を際だたせるかのように、国人一般の心性が述べられている。本来であれば、国司離任にあたってはもう会うこともないだろうと考えて誰も見送りなどにはこないと言っている。貫之本人に関する部分には、『土佐日記』の初期読者でもある有力貴族に対して自らを売り込みたいという意図が見え隠れするだけに、どこまでが真実なのかを慎重に見極めねばならないのだが、この一般論風にいう国人の心性については、脚色とみる必要はないだろう。あるいは、このあとの「物によりて誉むるにしもあらず」というところにも、本来であれば「物によりて誉むる」ときには見送りに来るものだという認識があるのはいうまでもないことである。
 こうしてみると、貫之の持っている国人に対する認識は相当、現金な損得勘定でものを判断するという、いわば見下した人間観であるように読めてしまう。萩谷朴氏は、普通であれば見送りには来ないとある一節に関連して『全注釈』の中で「地方人のよそよそしい態度は、国司との不正な情実関係の存在が世間の眼に触れることを憚った人情の一面を物語るものであ」ると考え、こうした状況をもたらしている国司一般の不正を風刺する側面を『土佐日記』に見て取っている。しかし、その点については、やや異論がある。というのは、当時一般の状況を風刺的に述べ来たって、その反照であるかのように自らの高潔さを示すというのでは、ややもってまわりすぎているかのように思えるからである。当時一般の状況を風刺する云々ではなく、単純に自らについては高潔なのだと繰り返し主張し、周囲の人々のことは、それが次期国司であれ、あるいは土地の豪族であれ、一段見下したような視線を投げかけているというだけでいいのではないだろうか。結果として『土佐日記』という作品が社会風刺としての役割も果たしているというのであれば、それは読者の側の眼であり、貫之の意図とは言えない。貫之の意図というレベルでの、社会風刺なるものがどれほどまでに確認できるのかは、はなはだ心許なく思われるのである。
物によりて誉むる
 二様の解釈ができると思う。一つは『全注釈』がいうように、貫之からやぎのやすのりの対する賞賛であり、わざわざ見送りに来た態度を褒め称えたうえで、こうした賞賛はやすのりからの贈り物がすばらしかったから褒めているのではない、とする解釈。もう一つは私案であるが、やすのりの行為を貫之に対する賞賛と捉え、やすのりの態度はわたしからの贈り物がよかったからというわけではない、とする解釈である。どちらをとってもいいように思えるが、直前の「これ」の指示する範囲を限定して考えて、後者の立場をとりたい。つまり、「これ」すなわち、「たたはしきやうにて馬の餞したる」ということであり、その行為は物品との引き替えとかいった打算的なものではないといっているのである。なお前者の立場になるのは、「これ」の指示するところを、二十三日条全体と考えてのことであり、もちろんそれであっても十分に整合性は保たれている。
 前項ですでに触れたが、二十三日条には地方人一般の心性が述べられており、それらは貫之の眼には極めて姑息で計算高いものに映っているのである。その中で本当に人の心を知るものは、きちんと別れの挨拶に訪れるのであり、そうした態度を引き出すのも「守がら」の致すところという形で、自身に対する賛辞へとスライドしていく。この「物によりて誉むるにしもあらず」という一言も結局は貫之自身を賞賛する言葉として文章全体の中にとけ込んでいると考えていいだろう。
講師
 文武天皇大宝二年二月丁巳条「諸国の国師を任く」に見る「国師」が改称されたもの。「国師」は大宝二年に初めて置かれた令外の官であり、諸国内の僧尼管掌および国分寺の管理を行う職である。要するに国分寺の住職といったところか。職名改称については天長二年五月三日付け太政官符にて、延暦十四年八月改称の旨が確認できる。
一文字だに云々
解釈の別れるところ
守の館
守について。また二十一日からこの日までの意味は?そもそも門出とはなんぞ?
持てきたなり
 
遊ぶやうにて
語釈
似べきは
似べきは? 変な接続……
大津
地名注
浦戸
地名注
加古の崎
地名注
くちあみももろもちにて
???
かく謡ふに「船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ」
典拠
大湊
地名注
屠蘇
語釈
白散
語釈
船屋形にさしはさめりければ
儀礼的意味があるか
芋茎
語釈
荒布
語釈
歯固
語釈、年中行事註
ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ
???
小家の門の注連縄の鯔の頭、柊らいかにぞ
ことわざ???
風浪のしばしと惜しむ心
引用か
いささけわざ
語釈、用例
白馬
語釈、年中行事註
波の白きのみぞ見ゆる
和歌の修辞にからめて
人の家の池と名ある所
「名」についての拘り
若菜
語釈、年中行事註
この人歌詠まんと思ふ心ありてなりけり
来訪目的、orこの人物の意味。土佐日記=歌論書的立場より
海をさへおどろかして波立てつべし
人事と天象の呼応と見るか、言葉遊びと見るか。土佐日記には類似表現が多い。
持て来たる物よりは歌はいかがあらん
歌の評価基準について
しつべき人
誰?
手押しつべし
語釈
障ることありて
障るの中身に言及可能か
業平の君
有原の業平と紀貫之
「山の端逃げて入れずもあらなん」と言ふ歌
参照・伊勢物語
奈半
地名注
宇多の松原
地名注
おもしろしと見るに
視覚的感興←土佐日記の方法かも?、形容詞注
この歌は所を見るにえまさらず
歌の評価基準について
おきのりわざ
語釈
これらを人の笑ふを聞きて海は荒るれども
人事と天象
室津
地名注
羽根
地名注
よしとにはあらねど、げにと思ひて
歌の評価基準についてのコメント
昔へ人
遺児を「昔へ人」と呼ぶ意識は?
「数足らでぞ帰るべらなる」といふ言
出典
十日あまりなれば、月おもしろし
形容詞注、「おもしろし」の関連で(不要か)
船には紅濃くよき衣着ず
習俗、信仰について
言ひて
「て」の接続法
節忌
習俗、信仰or年中行事註
おちられぬ
解釈「落ち」「怖ぢ」
かかることなほありぬ
木村正中氏注
小豆粥
年中行事註
言ふ甲斐なき者の言へるにはいと似つかはし
歌論
御崎
地名注
暁月夜いともおもしろければ
形容詞注、「おもしろし」の確認
昔の男
朧化表現の意味
棹は穿つ、波の上の月を、船は圧ふ、海の内の空を
典拠
聞き戯れに聞けるなり
韜晦?
いとおもしろし
視覚的感興と歌、形容詞注
常にせぬせぬ人の言
歌論、歌を詠む習慣について
この歌どもを少しよろしと
歌論、評価基準の検討
真似べども、え真似ばず、書けりとも、え読み据ゑがたかるべし
歌の基準についての示唆、朗詠にたえうるか否か
指も損なはれぬべし
解釈(信仰・習俗?)
語法
阿倍仲麻呂といひける人
人物注
言の心
歌の要素
歌の要素
春の海に秋の木の葉しも散れる
典拠あるか?絵画的モチーフ
黒鳥といふ鳥
黒鳥について
もの言ふ
語法
人のほどにあはねば
歌と身分と
あやしきこと
「あやし」の対象、形容詞注
幼き童の言にては似つかはし
歌論的コメント、歌のどの部分が「似つかはし」
手向けする所
海上の祈祷所?
幣の東へ散れば
祈祷の作法
陽を望めば、都遠し
????「陽を望めば」「都遠し」と分けるのは?
言の様
歌の要素、言の様について、
爪弾き
習俗か?
子日なりければ切らず
習俗
子の日
年中行事註
おもしろき所
「おもしろし」の意味、形容詞注
土佐の泊まり
地名注
「昔」の用法
言ひけらく
語法
なくひ
?????
阿波の水門
地名注
沼島といふ所
地名注
多奈川といふ所
地名注
和泉の灘
地名注
黒崎の松原
地名注
蘇芳
色見本
五色
語釈
箱の浦
地名注
綱手
語釈
ただごと
歌語の対義語? 歌論注
昔の人
「昔の人」意識
女子のためには親幼くなりぬべし
どこか諺めいた響きがあるが……
小津の泊まり
地名注
朝北
語釈
「うつたへに、我、歌のやうなる言、言ふとにもあらず
引用符の処理を巡って
あやしく
形容詞注
石津
石津
おもしろくて
形容詞注
昔へ人
「昔へ人」意識
うちはめつべし
他動詞を使うところに注目
住吉の明神
語釈
例の神
諧謔に関するコメント
今めくものか
語釈
幣には御心の行かねば、御船も行かぬなり
諧謔についてのコメント
語釈+鏡の歴史+鏡の意味
口惜し
形容詞注
住の江、忘れ草、岸の姫松
語釈
楫取りの心は神の御心なりけり
臼田説の紹介
澪標
語釈
難波につきて
境界に関する意識
河尻
地名注
都誇り
語釈
あやしき歌
歌と品格
鳥飼の御牧
地名注
「粒してもつ釣る」
かうやうのこと所々にあり
木村説の紹介
節忌
習俗
和田の泊まりの別れの所
地名注
渚の院
地名注
おもしろかりける
形容詞注
松の木
渚の院幻想
梅の花
渚の院幻想
名高く聞こえたる所
渚の院幻想+伊勢物語
故惟喬の親王
人名注
故在原業平の中将
人名注
心(所)に似たる歌
心(所)に似たる歌、歌論注、歌と景物
都の近づく
何をもって都を感じるか
昔の子
「昔の子」意識
かうやうの言も歌も好むとてあるにもあらざるべし
歌の本質? 仮名序に引きつけて 賀茂真淵?
唐土もここも思ふことに耐へぬときの業とか
和歌の本質、前出仲麻呂説話との関連も
鵜殿のといふ所
地名注
障ること
その中身は? 同種表現前出 習俗?
八幡の宮
地名注
山崎の橋
地名注
相応寺
地名注、柳との関連は?
饗応
饗応の目的、史料、言葉遊びの要素
山崎の小櫃の絵
???
曲がりの大鉤の像
???
売り人の心をぞ知らぬとぞ言ふなる
ことわざ
島坂
地名注
かならずしもあるまじきわざなり。発ちて行きしときよりは来るときぞ人はとかくありける
???
桂川
地名注
この川、飛鳥川にあらねば、淵瀬さらに変はらざりけり
引用
京の嬉しきあまりに歌もあまりぞ多かる
???
所々
注釈種別
家に預けたりつる人の心
注釈種別
池めいて
「めいて」とは? これは庭の池ではないの?
心知れる人
人物同定
とうまれかうまれ、とく破りてん
注釈種別
蓮花王院本
注釈種別
嘉禎二年
西暦、日付の周辺
紀氏正本
貫之筆本
権中納言<花押>
同定