私たちは 皆、ふたつの世界を 生きる。

ひとつは、子供の頃 見た 夢のように
時間と空間を凌駕し、
あくまでも 自由で 豊かな変化を持つ、
拡散しつづける宇宙の中を。

そして もうひとつは、
あらかじめ 定められた時間と空間の中で、
日常の法則の束縛を許し、
規則正しく 死へと時を刻む、
収縮する宇宙の中を。

        
インド夜想曲 Vol. 2

1. カジュラーホ ホテル  スクラジ通り57番地 ボンベイ

タクシーの運転手が絶対に行くなと言った、カジュラーホ ホテルの前に僕はいる。

「あなたのような人が行くところじゃない。大変危険な場所だ。
 まあ、女はたくさんいるがね。」
と言って、彼は にやりと笑った。

入り口は 石造りの建物が並んだ 日の当たらない路地にあって、
他よりも早々とやってきた夜の中で、表札には照明が灯されていた。

ロビーの雰囲気は たしかに いかがわしかったが、不潔ではなかった。
カウンターの中の もう若くはない女に 僕は電報で予約した旨を告げ、
そのあと、パスポートを取り出しながら言った。

「ヴィムラ・サールと言う名前の娘に会いたい。」

カウンターの女は無関心をよそおった声で言った
「ヴィムラ・サールはもう辞めたわ。」

「今はどこにいる?」

「さあ・・・・ 
 でも、彼女よりきれいな娘がいるわよ。」

僕はポケットの中から20ドル紙幣を出し、パスポートにはさんで言った。
「探してくれないか。」



どれほど眠っただろうか。
2時間、あるいは もっとかもしれない。
ノックの音で 僕は夢の中から呼び戻された。
衣ずれの音をさせて ひとりの娘が入ってきた。

「グザビエは、今どこにいる?」

僕がたずねるやいなや、彼女の目が 涙でいっぱいになった。
僕は、彼女が僕宛てに書いた手紙を見せた。

「どうやって僕に手紙を書いたの?」

「あなたの住所が グザビエの手帳にあったからです。
 昔、あなたたちが 親友だったのをいつも聞かされていたから。
 でも、私があなたに手紙を書いたのを知ると、あの人はひどく腹を立てました。
 あの日から彼は変わってしまった。
 何を見ても無関心になって・・・・・ 
 きっと、病気のせいです。
 関心があるのは マドラスからの手紙ぐらいで。」

「手紙って?」

「ええ、熱心に返事を書いてました。」

「差出し人は?」

「何かの協会だったけど。
 学問の集まりじゃなかったかしら。」

ゆっくりと思い出しながら、彼女は初めて 少し笑顔を見せた。
「そう、神智学協会でした。」

彼女は目を閉じて、かすかにため息をついた。

「やさしい人でした。
 でも病気だったんです。
 悲しい運命に生まれついたからです。」


2.  キングエドワード病院  カレッジ ナオギ通り 85番地 ボンベイ

「インドで失踪する人は、たくさんいます。
 インドは そのためにあるような国です。
 あなたの 友人の名前は?」

「グザビエ・ジャナタ・ピントです。」

「入院してたのはいつですか?」

「ほとんど一年前、モンスーンの始まりの頃です。」


「ファイルがあるでしょう?」
僕は言った。

「ファイルねえ・・・・ ありますが・・・・」

医者は 哀れむように 僕を見つめた後、弱々しく笑って言った。
「ここは ボンベイの病院ですよ。
 去年だけで 120万人もの患者がいた。
 ヨーロッパ人の分類癖を 押しつけないで下さい。
 あれは 高慢な贅沢です。」



僕が案内されたのは、汚れた灰色の壁に囲まれた大きな部屋だった。
がらんとした その空間は、長い時間を重ねたまま、澱んだ空気の中にあった。
目に映る すべての棚、すべての机の上に、書類が積みかさねられ、
さらには 引き出しの中からもあふれだし、天井からの扇風機の風にゆれていた。

「これが僕のファイルです。
 患者のカルテ、入院記録、名前、名前、
 全部 名前です。」

医者は立ち上がって、書類をかき分けて 探しはじめた。
その一角が、バランスを崩してバラバラと落ちていった。

「・・・・あなたの友人が ここにいる可能性は、まず ありませんね。」


僕は 部屋中の書類が、なだれのように永遠に流れ落ちていくイメージにとらわれながら、
彼の背後の壁にかかっている 大きな時計を見た。
唯一、それだけが 晴れた日の月のように 穏やかだった。

気がついて、医者は言った。
「あの時計は もう何年も前から止まっています。
 いずれにせよ、もう真夜中です。」

「あなたのお名前を まだ 聞いていませんね。」
医者がたずねた。

「ロシニョール、英語ではナイチンゲールです。」

「ナイチンゲール。 素敵な名前だ。
 夜に鳴く鳥ですね。」


3. ビクトリア駅 待合室  ボンベイ

「人間のからだは、何のためにあるのでしょう。」

僕のそばのベッドで 横になる支度をしていた 紳士が言った。
その声は こちらの意見をたずねるふうではなく、自分自身に確かめているようだった。

駅のプラットホームの電灯の黄色い明かりが 彼の やせた影を映しだしていた。
僕は長い時間たってから答えた。僕は ひどく疲れていた。

「鞄のようなものかもしれません。
 我々は、これに入って旅をしているのではないでしょうか。」

遠くから、ゆっくりとした単調な声が聞こえてきた。
たぶん 祈りの声だろうと 僕は思った。

「あれはジャイナ教徒です。
 現世の邪悪を嘆いているのです。」

プラットホームの電灯の明かりが 少し弱くなった。



「私は、ヴァラナシに行くところです。
 あなたはどちらへ。」
しばらく黙っていたあとで、男はまた話しかけてきた。

「マドラスまで。」
と僕は言った。

「巡礼ですか。」

僕は少し ためらいながら言った。
「いえ、マドラスにある 神智学協会を訪ねます。
 失踪した友人を 探しに行くのです。」

「彼は あなたに会いたがっているのでしょうか。」

「わかりません。」

「じゃぁ、探さない方がいい。」

駅の時計が、夜の12時を告げた。
遠くの祈りの声が ふっつりと止んだ。

「新しい1日が 始まりましたね。」
男は言った。

「今、この瞬間から新しい1日です。」

今度は 僕が質問した。
「ヴァラナシは聖都でしょう?
 巡礼に行かれるのですか?」

「いえ、死にに行くのです。定められた期間を 過ぎようとしています。
 次の 新しい鞄を受け取りに。」


4. バス停留所 マドラスとゴアの間のどこか

『親愛なる恩師であり 友人であるあなたへ。

 予期せぬことがおこり、もう そちらに伺うこともできなくなりました。
 アディヤールの川岸を あなたと散策することは、もう 叶いません。
 私は 夜鳴く鳥になりました。
 あなたの記憶の中の私を 忘れないでください。

                       グザビエ 

           ゴア、カラングート海岸にて 9月23日 』





神智学協会の会長は いらだたしげに言った。
「本来ならば、会員でなければ 手紙をお見せするわけにはいかないのですが。」

そして、こう つけ加えた。
「他人の仮の姿に あまり干渉すべきではないと、私は思いますが。」


僕は今、グザビエからの手紙を 鞄にしまったまま、
カラングート海岸を目指すバスの中にいる。
バスは 物音ひとつしない インドの夜につつまれて、まっすぐな広い道路を走っていた。
しばらくすると、大きく身ぶるいをして バスが止まった。

「接続のため、85分の停車。」
運転手が言った。

他の乗客に
付き添われるようにバスを出て、僕は待合室に入った。
奥の方のベンチに すばらしくきれいな目をした 男の子たちがすわっていた。

「君たちは どこへ行くの。」

「僕達、ムダビリの寺院をまわります。」

「巡礼だね。」

「ちがいます。 兄はアーハントなんです。」

「アーハントって?」

「予言者です。 兄は どんなお経も全部暗記していて、
 だから 人の過去も未来も見えるんです。
 僕達は、お祭りにやってくる巡礼たちのカルマを 見てあげるのです。」

「じゃ、僕のも見てくれるかな。」
僕がそう言うと、少年は兄にやさしく話しかけた。
占い師は小さな手を伸ばして僕のひたいに置いた。


「あなたは、マーヤーですね。 本当のあなたは別の場所にいます。」
少年は 占い師の言葉を通訳した。

「マーヤーって 何?」

「この世の仮の姿です。大切なのはアトマンです。
 あなたは アトマンの幻影なのです。」

「アトマンって 何?」

僕の無知に 少年は にっこりした。
「個人の魂です。」

「じゃあ、僕のアトマンは 今、この瞬間 どこにいるのだろう。」

少年は しばらく 兄と話しあったあと、こう言った。
「大変 むずかしいと言ってます。
 ここに いない人のことは 答えられないのです。
 あなたは幻影ですから。
 でも、兄は やってみると言ってます。」

占い師は、僕をじっと見つめて 手をあげた。
指が 波を描くように 宙を泳いだ。


「・・・あなたはボートの上にいます。」
少年が かわって 僕にささやいた。

「たくさんの光が見えます。
 でも、遠い・・・・遠すぎる。もうできない。もう無理です。」


僕は、彼らに礼を言って立ち上がり、夜の道に出た。
大きくため息をつくと、
体の中から 自分が抜けだして行くような気がした。


5. カラングート海岸 ゴア

海岸についたのは、ちょうど太陽が沈みはじめた頃で、
すべてが柔らかなオレンジ色に染まっていた。
僕は 乗り捨てられたボートのへりに腰をかけて、
つい最近までここにいた グザビエのことを考えていた。
遠くの砂浜で若者たちが叫んでいた。


「お祭りが始まる。今夜のお祭りは大きいよ。秋分だから。」

「何が秋分なものか。秋分は9月23日だぞ。もう12月なのに。」

「なんでもいいさ、似たりよったりだ。」


僕は 船底に寝転んで 空を見た。
すばらしい星空だった。
清楚な光は 暗闇を追いやっていた。
僕は 子供の頃やったように星座をたどり、明るい星の順番を 思い出していた。

シリウス、カノプス、ケンタウルス、ヴェガ、アークトゥルス、オリオン、
カペラ・・・・・

そして、その光だけが 今でも地球にとどきつづける、
燃えつきてしまった星のことを考えた。

実体のない幻影だけの星。

そのとき、ふいにグザビエの手紙の1部分が浮かんで消えた。

『私は 夜鳴く鳥になりました。
 そう、夜の鳥です。
 あなたの記憶の中の私を 忘れないでください。』


6. マンドヴィホテル  ゴア

僕の中で、かたくなに もつれあっていた糸は、
川の中の流れのように 安らかに ほどかれていた。
僕の心は 澄みわたっていた。
僕は給仕長を呼んだ。

「ミスター ナイチンゲールだったら選びそうなワインを
 持ってきてくれないか。」

彼が テーブルの上に ワインリストをひろげたので、
僕はあてずっぽうに選んで言った。
「これなら ミスターナイチンゲールの気に入るだろうか。」

「たぶん。」
給仕長は慎重に言った。
「直接、おたずねになれば よろしいのでは?」

「そうだな。」

僕は 立ちあがって、バイキングの方に行った。
アルコールランプで あたためられた ホットプレートが いくつか置かれていて、
僕は 料理を あれこれ選んだ。

開け放たれた窓の向こうに もう月は高く昇っていて、
静かな光で 部屋の中の人達の影を 落としていた。
僕は 自分がちっとも空腹ではないのに気がつき、給仕長に声をかけた。

「ワインは部屋に持たせてください。」

給仕長はかるく頭を下げて言った。
「おやすみなさいませ。 グザビエ様。」


7.  エピローグ

部屋にもどると 僕は 手紙を書いた。


『ナイチンゲール氏へ

 私の名前はロシニョール、 夜泣き鳥。
 英語では ナイチンゲール。
 私は このまま進んでいくのか、 それとも とどまるのか。
 まるで ゲームのよう。
 でも私は、私の目には見えないけれど
 あなたが いつも そばにいるのを感じます。
 それは、私の心を 切なさと悲しみでいっぱいにします。』



シャワーを浴びて、バスタオルで 髪をかわかしながら、
鏡の中の自分を見た。
疲れ切ってはいるものの、目だけは 輝いている。
僕は 鏡に向かって ひとりごとを言った。

「これは夢なのだろうか。現実なのだろうか。
 僕は誰で、どこにいるのか。」


ただ一つ、確かなことは、
明日は このホテルを出て 別の場所にいるだろう、それだけだ。
僕は、ひとつのところに いつまでもいられないたちなものだから。

僕は テーブルの上の手紙を破りすてた。